第28話_リンカーネイション・コード

 桜丘高校地下、かつては防災倉庫だったコンクリートの空間が、今や〈鏡界〉観測用シェルターへと転用されていた。

  その中央、可動式の円卓に無造作に積まれた十冊以上の古文書。異国語、古代文字、そして判別不能の数式が混在するそれらを、メキーはひとつずつ丁寧に開いていた。

  「アレクサンドラ、ここ。この行、読み上げてくれませんか」

  「え、これ……“Λ-定型律”って記号よね?どこの言語?」

  「我が国の古代鏡界学では“鏡構律”と呼びます。感情エネルギーが臨界に達した際の、位相反転を定義する章です」

  「つまり、“鐘”のアルゴリズムそのものに関わるってこと?」

  「そうです」

  メキーの目が、一点に定まる。

  彼が母国から密かに持ち出してきた禁書群――それは、かつて国家機関が“感情兵器”を制御するため、あらゆる鏡界理論を結集して編纂した、完全非公開の〈リンカーネイション・コード〉。

  「“六十重ノ鐘”は、ただのカウントダウン装置ではない。これは……“世界の感情均衡”を監視し、暴走を感知した時にそれを“再起動”する装置だと……」

  アレクサンドラの手が止まった。

  「再起動……って、つまり?」

  「全ての感情波形をリセットし、同調性をゼロにする。その結果、世界そのものが“感情存在”と“論理存在”に分断され、再構築される可能性があります」

  「……それ、世界がふたつに割れるってこと?」

  「はい。どちらにも、“今の私たち”は存在しなくなります」

  室内が、しんと静まり返った。

  ページのめくれる音さえ、まるで咎められているかのように思えるほど、緊張が充満していた。

  「メキー。私……馬鹿でよかったかも」

  アレクサンドラが突然、ぽつりと漏らす。

  「え?」

  「あなたが言ってること、たぶん半分も理解できてない。でも、あんたが怖がってるのは、すごくわかる」

  彼女はそっと、メキーの肩に手を置いた。

  「だったら、私がやる。感情を読むのは、昔からちょっと苦手だったけど……でも、ちゃんと、伝える努力はするから」

  「……ありがとう。アレクサンドラさん」

  少年の目が、少し潤んだ。

  その瞬間、机の上の図表がかすかに揺れ、浮かび上がった文様が変化を始めた。

  “情動干渉率:固定可能域へ到達”

  「今、二人の感情が、リンカーネイション・コードに“通じた”んです」

  「まるで……鐘が、こちらの言葉を聞いたみたいだね」

  アレクサンドラが微笑む。

  「さあ、彩心にこれを届けよう。彼女ならきっと、論理と感情、両方を扱えるから」


 夜の桜丘高校は静かだった。

  だがその静けさは、不安の水面の上に浮かぶ氷のように脆かった。校舎の裏手にある搬入口から、アレクサンドラはそっと顔を覗かせる。

  「彩心、いる……よね?」

  返事はない。だが地下階から微かな光が漏れていた。

  非常用ランタンの青白い光が、白衣を羽織った少女の横顔を照らしていた。彩心は、膝上に開いたノート端末を睨みつけるように見つめていた。

  「やっぱり……現象としてしか見てない顔してるなぁ、あの子」

  小声でつぶやいたアレクサンドラは、手にした厚手の封筒を胸に抱え、ゆっくりと歩み寄る。

  「――あのさ、少しだけ、時間くれる?」

  彩心が振り向いた。表情には驚きも怒りもなかった。ただ、ほんの少しだけ、まぶたが重く見えた。

  「渡したいものがあるの」

  封筒を差し出すアレクサンドラ。その指先はかすかに震えていた。

  「中身は、メキーがまとめた“リンカーネイション・コード”の復号結果。鐘はね、ただのカウントダウン装置じゃないんだって」

  彩心はゆっくりと封を切る。内部には図解と、未知の文字列を解析した注釈、そして“再起動”という単語が赤字で繰り返されていた。

  「このまま“停止”させようとしたら、鐘は……世界そのものを壊す可能性があるって」

  アレクサンドラの声が震える。

  「でも、彩心なら、止めるんじゃなくて“制御”する方法を見つけられるんじゃないかって、メキーは……」

  「それを、あなたが信じてるの?」

  唐突に、彩心が問い返した。アレクサンドラの目が一瞬泳ぐ。

  「……正直、まだ“信じる”って言葉がどういうものか、よく分かってない。あんたにとっては、そんなの論外なのかもだけどさ」

  彼女は、少し照れたように笑った。

  「でも、心臓って、ちゃんと動いてるよね。あんたのも、わたしのも。だから……その鼓動を、繋げて、届けられる気がしたんだ」

  沈黙が落ちた。

  しばしの間、彩心は解析図をじっと見つめていたが、やがてそっと息を吐いた。

  「……ありがとう。今のは、きっと“信号”として受け取った。あなたの心拍が、伝わってきたから」

  それは、彼女なりの“信頼”の返答だった。

  アレクサンドラは、まるで春の風が頬をなでたかのような安心感を覚え、ふっと目を細めた。

  ――“鐘”の正体。

  ――“制御”の可能性。

  すべてが動き出す前夜、少女たちの鼓動が、確かにひとつ、共鳴した。

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