第25話_暴走の序章

 4月20日正午、桜丘市中央商店街跡地。

  いつもなら昼時でも人通りが絶えないその一帯は、まるで別世界に飲み込まれたかのように静まり返っていた。瓦礫と化したアーケードの柱、朽ちたシャッターの向こうに広がる“鏡界”の領域。現実の街並みに重なり始めた異質な風景は、もはや単なる“裂け目”などと呼べる規模ではない。

  「……あれが、鏡界の“侵食”か」

  凌大が唇をかみしめながら言った。

  その視線の先には、うねるような青紫の靄に包まれた道路。風が吹くたび、靄は人の形のようにも見える。既に五感のどこかが錯覚を起こしていた。

  「時間がない。住民、まだ取り残されてる」

  かすみはタブレットで表示された地図を確認しながら、うなずいた。

  「第五町内会館に十数名……高齢者ばかり。自力では動けないわ」

  「やるぞ」

  それだけを言い残して、凌大は前方の異界へと踏み込んだ。

  彼が纏う“感情武装”は、断罪を司る重剣――〈制裁ノ誓剣〉。人を傷つける者を絶対に許さぬという意志が具現化したその武器は、彼の怒りと信念を糧に光を帯びる。

  「……待って。私が先に“波動結界”を張るわ」

  かすみの声に、凌大は無言で足を止めた。

  彼女が懐から取り出したのは、茶筅を模した“癒し具装”だ。翠色の粒子がその周囲を舞い、空気を鎮めていく。

  「“安定領域、展開”。――さぁ、行こう」

  二人はそのまま、街の中心に向かって駆けだした。

  鏡界の靄は濃度を増していた。幻視が揺れ、足元の地面さえも不確かな感触に変わっていく。

  「右に反応、感情獣だ!」

  かすみの警告と同時に、路地裏から飛び出してきたのは――人型のような、だが歪んだ怒号の渦を纏う〈レゾナンスビースト〉だった。

  「あれは、“怒り”の残滓か……!」

  凌大は剣を構え、一瞬のうちに突撃する。

  「破ッ!!」

  刃が振るわれ、空気が裂けた。ビーストの右肩が吹き飛ぶ。だが、それだけでは止まらない。

  「“増殖反応”――感情の爆裂波形を引いてる!」

  かすみの解析が届いた刹那、ビーストは三体に分裂した。

  「くっ……!」

  凌大の剣がその一体を斬るが、残りの二体が背後から迫る。

  「……安心して。守るわ」

  かすみの声が響き、結界が展開された。淡い緑の半球が瞬時に形成され、襲い来る感情波を打ち消していく。

  その中で、凌大の表情がわずかに緩んだ。

  「ありがとう」

  彼はその一言だけを呟き、再び剣を振るった。

  感情の濁流と化した街で、二人は住民の退避路を切り拓いていく。


 感情獣〈レゾナンスビースト〉の増殖は止まらない。感情が共鳴するだけでなく、増幅し、歪み――そして現実を侵し始める。

  凌大は息を荒げながら、最後の一体を剣で叩き伏せた。吹き飛んだ感情の粒子が、夕陽に似た赤紫に光る。

  「あと、どこだ!」

  「商店街南側の集会所。建物自体がもう半分鏡界に取り込まれてる……!」

  かすみの言葉に、凌大は唇を噛む。

  「急ぐぞ!」

  二人は走る。だが、その足元に、まるで“揺らぎ”のような波が現れた。

  「鏡界の振幅が……現実の構造を壊し始めてる!」

  そう、かすみが叫ぶよりも早く、地面が砕ける。アスファルトが波のように歪み、そこから“人の形をした影”が伸び上がった。

  「……うわ……なに……!」

  民家の窓から顔を出した中学生ほどの少女が、恐怖に顔を凍らせたまま動けずにいる。

  「そこにいるのか! 動くな、今行く!」

  凌大の身体が、反射的に跳んだ。

  腕を伸ばし、影の群れの中に飛び込む。刃が閃き、次の瞬間――彼の腕が少女の手を掴んでいた。

  「こっちだ!」

  彼女を抱きかかえながら、足場の崩壊を横跳びで避ける。瞬間、かすみがその進路に“癒し波動”の結界を張った。

  「……大丈夫。落ち着いて、呼吸して」

  少女を結界の内側へと誘導しながら、かすみが優しく声をかける。

  凌大は肩で息をしながら、彼女の無事を確認し、ようやく表情を緩めた。

  「……ありがとう、助かった」

  「礼を言うのは彼女にしてあげて。私はただ、手伝っただけ」

  その言葉に、凌大はかすみの顔をまっすぐ見た。そして、少し照れくさそうに口を開いた。

  「……いつも、お前のそういうところに助けられてる」

  かすみは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにふっと微笑んだ。

  「そう。だったら、もう少し私を頼って?」

  「考えとく」

  そう言って立ち上がる凌大の背中に、かすみは一瞬、何かを言いかけて――やめた。

  ――まだ言葉にするのは早い。今はまだ、終わっていない。

  そのとき、鏡界の空に、鐘のような低い共鳴音が響いた。

  「また……鳴るの?」

  かすみが息を呑む。

  その音はまだ微弱だった。しかし確かに“予兆”だった。

  第四の鐘が――もう近い。

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