第24話_彩心崩壊

 夜の桜丘高校、屋上の鏡界層に静寂が戻っていた。

  崩壊しかけた式変形は完全に沈静化し、赤黒く染まりかけていた鏡界の空間は、まるで嵐の通過後のように穏やかさを取り戻していた。

  彩心は、膝を抱えて座り込んでいる。その肩を、祥平がそっと包むように座って支えていた。

  「まだ、頭……痛むか?」

  祥平の問いに、彩心は小さく首を振った。しかし、その表情に浮かぶのは、普段の冷徹さでも理論的な静謐でもない。ただ、戸惑いと――わずかな恐れだった。

  「……わたし、自分の力で、自分を壊しかけたのよ」

  かすれた声。それは彩心の内側で燻っていた“理解不能な感情”がついに溢れ出したことを意味していた。

  「優也の行動を見て……信頼なんて、測定できない不確定要素だって思った。なのに、あなたの声が聞こえた途端、式が……否定された。拒絶しようとした構文が、上書きされたの」

  彼女の声は震えていた。これまで何かを“信じる”という行為を徹底的に避けてきた少女が、初めて感情に触れ、その破壊力に呑まれそうになっている。

  「感情なんて、誤差だと思ってた。ノイズ。なのに……あなたの鼓動に、安心した。あんなの、定義できるわけないのに……」

  言い終えると、彩心は目を伏せた。まるでそれを口にしてしまったこと自体が、科学者としての自分の存在を否定するものだったかのように。

  だが――

  祥平は、ただ一言だけで彼女の理屈を切り裂いた。

  「……いいじゃん、それで」

  彩心が目を見開く。

  「答えのないもんに、無理やり答え出そうとするより、わかんねえままでも一緒にいてくれる方が嬉しいよ」

  彼の言葉には、論理も数式もなかった。ただ“一緒にいたい”という、真っ直ぐな思いだけが込められていた。

  「……それ、非論理的」

  彩心は口を尖らせながらも、なぜか顔を逸らした拍子に頬が赤らんでいるのを祥平は見逃さなかった。

  そんな中、再び鏡界が低くうねった。

  「っ、今度は……!」

  彩心が立ち上がると同時に、空間の端に黒いひび割れが広がっていく。

  「やばい、さっきの暴走の余波……!? 制御失った結界層が崩れ始めてる!」

  祥平も構える。だが、その異変は単なる鏡界の反応ではなかった。

  彩心の背中から、再び光のラインが走り出す。

  ――理論結界、再構築開始。

  「今、私が……無意識に?」

  だが、式変形の文様が、以前とは違う。

  そこには「共鳴率」や「同調信号」など、彩心が拒絶してきた“他者との接続”を意味するパラメータが組み込まれていた。

  「……これは、わたしの中に、あなたが入ってきたってこと?」

  祥平は照れくさそうに後頭部をかく。

  「入ったっていうか……入り口が、あったから、勝手に?」

  「……軽口ね、ほんと」

  しかし、その口調に怒気はなく、どこか照れ隠しのニュアンスすら含まれていた。


 再構築された彩心の理論結界は、これまでのような硬質なバリアではなかった。

  今の彼女が展開しているのは、光と音が柔らかく波打つような――まるで“呼吸する壁”のような防御領域だった。

  「式変形が……こんなにも流動的に?」

  自分自身の演算式が、従来の“拒絶”ではなく“受容”を基盤に構成されていることに、彩心は驚きを隠せなかった。彼女の目には、鏡界から投射されてくる敵性波――つまり、感情の奔流――さえも、かつてほど脅威に映らない。

  それどころか、向こうから飛んでくる衝動や怒り、恐怖といった未整理の感情を、彼女の結界が柔らかく“抱きしめて”いるようにも見えた。

  「受け入れてるのか……」

  祥平が小さく呟いた。

  「私、きっとずっと間違えてたのね。感情って、排除すべき“ノイズ”じゃなくて、解釈すべき“データ”だった」

  彩心は手を前に突き出し、結界に改めて命令を与える。今度の指示は単純だった。

  ――“共鳴せよ”。

  すると、結界の内外でうごめいていた負の感情が、まるで楽器の音が調律されるかのように、一定の波長へと整っていく。

  まさに、それは“感情の周波数”が一致した瞬間だった。

  「これは……感情の同期化?」

  祥平が驚きに目を見開いた。

  「いえ……共鳴、です。きっと、これがこの世界に課せられた真の理論」

  そのときだった。

  鏡界の空に、突如として第三の鐘――いや、“偽りの鐘音”が響き渡った。

  「また鳴った……? でも、これは――偽物!?」

  鼓膜ではなく、感情そのものを叩きつけるような重く濁った共鳴音。それはこれまでの鐘とは異なる、乱れた波形をもって空間に広がっていた。

  「……誰かが外部から、鐘のシステムを――」

  彩心が口にするよりも早く、祥平が拳を握った。

  「外部改竄……〈零視点〉の連中か……?」

  その時、彼らの足元に現れたのは、複雑な計算式と符号を歪めた“汚染コード”のような波形だった。

  「これ、私の結界に干渉してる……!? まずい、これ以上続けば――」

  祥平は即座に身を投げ出すように彩心を庇った。

  「くそっ、これまでの“感情”じゃねえ……悪意が混じってる……!」

  その言葉通り、結界に押し寄せる感情波は明確な“敵意”の意思をもって彩心を蝕もうとしていた。

  彩心の演算式が狂いはじめる。視界がぶれ、音が遠のいていく――。

  「ダメ、また暴走しちゃう……!」

  けれど、今度の彩心は、一人ではなかった。

  「彩心、俺に任せろ!」

  祥平が“感情武装〈器用迅刃〉”を展開し、汚染波形を斬る。

  ――刃は、怒りの粒子から生成された短剣ではなく。

  “安心”の感情から形作られた、まるで風のように柔らかく、そして鋭利な刃だった。


 「これは……“優しさ”の刃?」

  彩心が呆然と見上げる中、祥平の武装は敵意の波を切り裂きながら、まるで彼女の不安を抱き寄せるように広がっていく。

  ――感情の刃が、敵を倒すためではなく、誰かを守るために在る。

  その在り方に、彩心の全演算が“肯定値”を返していた。

  「私……まだ終わってないのね」

  光の粒が舞う中で、彩心の意識は再び正気を取り戻していく。

  だがその瞬間、空間がねじれ、鏡界層の地盤が“ひび割れ”た。

  「裂ける……!」

  亀裂から覗いたのは、“無響域”と呼ばれる鏡界の最深層。今にも彼女の意識がそこへ落下しそうだった。

  「彩心!!」

  祥平が即座に手を伸ばす。だが、彼女の足元は既に崩れ始めていた。

  「お願い、これ以上は……私、またみんなを巻き込むかもしれない」

  その声には、論理的な判断を越えた“自己否定”が混じっていた。

  「違う、巻き込むんじゃねえ。お前がいるから、俺たちは前に進めるんだよ!」

  祥平はその言葉と共に、再び手を伸ばした。

  彩心の結界が揺らぐ。

  目に見えない“信頼”という名のデータが、結界内に流れ込んできていた。

  「――信頼。検証不能な概念。だが、私の演算結果が……“必要”だと、出してる」

  彩心の瞳が潤み、その表情がかすかに緩む。

  彼女の結界がその瞬間、完全に再構成された。

  演算式は複雑でありながら、どこまでも美しく、心地よい“共鳴の波形”へと変わっていった。

  「来るぞ!」

  その叫びと同時に、第三の鐘音が爆発的な振動波として炸裂した。

  彩心は両腕を広げ、結界を最大展開した。

  「“式展開――論理結界・共振拡張モード”!」

  波動は結界に当たり、見えない膜が振動し、まるで大気そのものが歌い出すように“共鳴”した。

  敵意の波は、彼女の結界の中で変換され、整音され、静かに消えていく。

  「止めた……!」

  その言葉を最後に、彩心の膝が崩れる。

  「彩心!」

  祥平が駆け寄り、彼女を抱きとめた。

  だが、その身体は既に意識の深層に引き込まれ始めていた。

  「……そっか、私はもう一度、論理と感情の間に降りなきゃならない。世界を“受け入れる”側へ」

  意識が薄れていく中、彩心は最後に祥平へと微笑んだ。

  「……また、会えるよね」

  その一言を最後に、彼女の身体が光に包まれ、鏡界の深層――“無響域”へと落ちていった。

  残された祥平の手は、空を掴んでいた。

  第三の鐘が、静かに鳴り響く。

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