第23話_裏切りの握手
午後十一時の旧市庁舎は、まるで“息を潜めた獣”のようだった。
窓という窓はすべて板で塞がれ、非常灯の仄暗い光が吹き抜ける廊下をわずかに照らす。壁に残る“桜丘市庁”の金文字が、今ではどこか皮肉に見える。ここはもう、民のための建物ではない。
その地下制御室――鏡界信号中継局の旧式コアを改造した〈零視点〉の根拠地へと、ひとりの影が足を踏み入れた。
「待たせたな」
短く言い放ったその声に、迎えた拓巳がぎこちない笑顔を向けた。
「来たんだな……優也」
小山優也。共鳴隊の前線アタッカーでありながら、今や“敵陣”に足を踏み入れた少年の顔には、曇りも、迷いもなかった。
「交渉しに来ただけだ。俺の中では、どっちの味方って話じゃない」
そう言って、彼はスッと前へ出ると、中央に設置されたコアモニターの前に立った。
「これが“鐘停止装置”の心臓部か」
装置は古く、精密というにはほど遠い造りだった。だが、その中枢には現代のどんな軍事演算機にも匹敵する演算構造が仕込まれている。拓巳が、やや誇らしげに胸を張った。
「ここに改造パーツを組み込めば、次の鐘の共鳴波を“ずらせる”。完全停止は難しいが、数時間単位で凍結できるはずだ」
「なら、実戦に使えるレベルだな」
優也は短く頷いた。
その様子を、もう一人の影――利奈が、冷静に見つめていた。
「戦うなら、力の均衡が必要よ。共鳴隊は情緒で動きすぎる。世界の終わりを止めるには、“信頼”じゃなく“統率”がいる」
「信頼なんて、あってないようなもんだ。彩心のやつが、それを証明した」
口にした瞬間、優也の瞳にほんのわずかな陰が差す。だが、それを振り払うように彼はコアに手を置いた。
「……コア改造に協力する。ただし条件がある」
「聞こうか」
利奈は腕を組み、視線を投げる。
「制御波の権限は俺に一任しろ。この装置の起動・停止判断はすべて俺が下す。……お前らに任せれば、また“意図”が入る」
その言葉に、拓巳が困ったように眉をひそめたが、利奈は数秒の沈黙のあと、静かに頷いた。
「……いいでしょう。あなたの力が必要なのは事実だから」
そして、利奈は右手を差し出す。
「交渉成立。“鐘停止装置”の共同運用。あなたの裁量で起動を判断してもらう。ただし」
彼女の目が、鋭く光る。
「裏切りは、許さない」
優也は、ためらうことなくその手を握り返した。
「俺もだ。こっちのチームでも、裏切りは嫌いなんでな」
それは、最初から互いの警戒を前提とした、冷たい握手だった。
だが、その手が交わされた瞬間――別の場所で、別の心が崩れ落ちていた。
次回、彩心、崩壊。
それは、桜丘高校の校舎屋上にある鏡界層で起こった。
深夜の風が、落ち葉とともに無造作に舞い、都市の夜景と異界の光の狭間で静かに揺れる。誰もいないはずのその場に、ひとり、少女が佇んでいた。
彩心は柵の外に目を向け、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、そうなるんだ」
彼女の右手には、モバイル端末――共鳴隊の内部連絡アプリが開かれており、その画面には、優也の行動ログが記録されていた。
――通信:小山優也 → 拓巳(23:03)
――通信:小山優也 → 利奈(23:07)
――位置ログ:旧市庁舎地下区画に滞在中(23:10〜)
感情ではなく、論理で繋がっていた彼との繋がりが、数値として裏切られた。
「信頼なんて……やっぱり幻想だったじゃない」
その言葉は、風に乗って遠くに消えていく。
胸の奥に、ヒリつくような空虚が広がる。だが、それを押し込めるように彼女は冷たい眼差しで夜空を見上げた。
「感情は誤差。証明不能。だから私は……」
だが、言葉は続かなかった。
次の瞬間、彼女の足元がきらりと歪んだ。鏡界の床に走る幾何学文様が脈打ち、彼女の周囲の空気がビリビリと震えだす。
「……っ、また、暴走?」
しかし違う。これは、自発的な“拒絶”ではない。理論結界が、内側から崩れている。
否――崩しているのは、彼女自身だった。
「信頼できるはずがない。裏切られるぐらいなら、初めから……なかったことに……!」
その声が怒りに染まった瞬間、鏡界の結界が発火したように紅く染まった。
式変形の光文字が、歪んだ構文を描きながら空中に現れ、音もなく崩れていく。
“信頼”という定義不明の概念を排除しようとする演算が、彼女の力そのものを破壊していた。
「う……あ……頭が、割れる……」
膝をついた彼女の耳に、ザラついた通信音が走る。
――ガッ、彩心、聞こえるか!? 何かおかしい!反応が……跳ね返ってる!?
祥平の声だ。
彼の言葉が聞こえるだけで、なぜか涙があふれそうになった。
「証明……できない。なのに、なんで……あなたの声、こんなに……安心するの……」
鏡界層の結界が崩壊寸前となったそのとき――
ドン、と重たい音がして、彩心の身体が後ろから強く抱き締められた。
「バカ。逃げるなよ」
振り返らずとも分かった。祥平だった。
「感情に答えはねえよ。でも、俺が今ここにいるのが、答えだろ」
彼の心拍が、鼓動となって背中から伝わってくる。かつて始まりの日、二人が初めて“共鳴”したあの瞬間と、まったく同じリズムだった。
「……っ!」
彩心の理論式が、初期化される。
その瞬間、結界が穏やかに再構成を始めた。
理屈じゃない、けれど確かに存在する絆に、彼女はただ静かに目を閉じるしかなかった。
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