第22話_情報戦の火蓋

 午後三時。霞がかかったようにぼんやりとした陽射しが、県庁の外壁に張りつく。かつて会見用に使われていた記者会見室は、今や機材の山に埋もれ、そこに異質な空間がじわじわと侵食していた。

  壁の一部が透け、〈鏡界〉の反射層が浮かび上がっている。異界と現実の混ざり合うこの場所を、〈零視点〉は“放送基地”として選んだ。

  「――まもなく、映像が回線を越えて世界に届く」

  細身の青年がモニターに目を落としながらつぶやいた。その背後に立つのは、厚手のジャケットに身を包んだ少女、千紗。普段より少し濃い口紅と、首に下げた偽IDが彼女の緊張感を隠している。

  「千紗、そっちは大丈夫か?」

  通信機のスピーカーから、翔大の声が響く。

  「今、現地の記者として潜入中。マイクと映像ケーブルはギリ確保。こっちは、あと五分が勝負よ」

  「了解。こっちはデコイ映像の準備完了。配信サーバーのIPを切り替える」

  県庁屋上、風に揺れるパラボラアンテナの裏側で、翔大が小型ノートPCを開き、息を呑んだ。

  「……メキー、翻訳支援頼める?」

  横で立っていたメキーは、特注のヘッドセットをつけ、うなずく。

  「フルオートの機械翻訳では誤訳が出る可能性が高い。ぼくが逐語的に補正しながら行く。問題ない」

  その手元には、〈零視点〉が直前に公開した“鏡界解放宣言”の文書がある。そこには、冷静な口調でこう記されていた。

  ──「私たちは〈鏡界〉という感情の海と共に歩む未来を望む。抑圧ではなく解放を。支配ではなく共有を」──

  「耳障りはいいけど、これじゃ人々は惑わされる。完全にプロパガンダだ」

  翔大が歯を食いしばる。

  メキーは静かに続けた。

  「……これは巧妙な言葉遊び。“解放”の意味を取り違えたままでは、全世界が〈鏡界〉の混乱に巻き込まれる」

  その頃、会見室の前方、仮設の演台に立っていたのは――

  「皆様、ようこそ。本日は〈零視点〉の代表として、新しい世界のかたちを発表いたします」

  利奈だった。白いシャツに黒のスラックス、簡素ながら清潔感のある出で立ちで、彼女は平然と語る。

  「鏡界の脅威? いいえ。感情が視覚化されるこの現象は、私たちが互いを理解するための革命です」

  淡々と進む“記者会見”の裏で、千紗がコートの袖をめくり、内側に仕込んだ小型端末のスイッチを押す。

  ピピッという短い音と共に、彼女の映像が別回線に切り替わった。

  翔大がすぐさま確認し、頷いた。

  「よし、入った! 千紗、今だ!」

  「了解」

  千紗はすっと姿勢を変え、マイクを持ったまま口を開く。

  「……一点、確認させてください。〈零視点〉は“感情”の解放を掲げていますが、統計上、鏡界の拡大と同時に“感情過多による錯乱”の発生率が38%上昇している。この点について、どのような安全策を講じていますか?」

  利奈の口元が、ぴくりと動いた。

  「それは、共鳴隊側の“封じ込め”という古い発想のせいで、歪な反動が起きているにすぎません。私たちは共振を受け入れ、緩やかに統合する手段を――」

  その瞬間、会見室のスクリーンが一瞬ブラックアウトし、別の映像が割り込んだ。

  それは、〈零視点〉が起こした小規模な鏡界暴走事件の記録映像。制御不能になった感情獣が市民に襲いかかり、逃げ惑う人々の姿――。

  「――これは……!」

  会場にざわめきが広がる。利奈が反論しようとしたとき、映像がまた切り替わった。今度は、彩心が冷静に語るインタビュー。

  『鏡界の“完全解放”は、実証実験すら未了のままの暴挙です』

  千紗はタイミングを見計らい、もう一度マイクを構えた。

  「これが、〈零視点〉が示す“新世界”なのですか?」

  無音。

  その一瞬、会見室の空気は氷点下にまで下がったかのようだった。


 静寂を破ったのは、千紗の声だった。

  「……これが、あなたたちの“世界”の正体です」

  利奈の表情が揺れた。だが、彼女はすぐに態度を立て直し、低く言い返す。

  「歪な編集に惑わされないでください。それは共鳴隊が仕掛けた過去映像です。我々の理想は、ただの混沌ではない」

  けれど、そのときすでに“生配信”は世界中に広がっていた。意図された文脈は消え、情報は“イメージ”に変わる。

  ──市庁舎前で叫ぶ人々の群れ。

  ──膨張する〈鏡界〉の境界から落ちる瓦礫。

  ──炎を背負いながら、走り去る子供。

  情報は正確に届かない。映像が与えるのは真実ではなく、印象だ。千紗はそれを知っていた。そして利奈もまた、それを利用する者だった。

  「……メキー、拡散状況は?」

  翔大が屋上で問いかける。

  メキーは目を細め、翻訳端末を操作しながら答えた。

  「十七カ国でリアルタイム視聴。三カ国で“鏡界支持派”のSNSトレンド入り。だが逆に、“桜丘非常事態”として政府関与を要求する声も拡大中」

  「二極化……くそ、思ったより早い」

  翔大が歯を食いしばる。

  千紗の声が再びマイク越しに響いた。

  「……〈零視点〉の皆さん。あなたたちの掲げる“新世界”が、もし本当に人のためのものなら、堂々とすべてのデータを公開すべきでは?」

  その言葉に、利奈は一瞬黙り――だが次の瞬間、笑みを浮かべた。

  「ええ。構いません」

  その言葉に、会場の誰もが息を呑む。

  「我々が持つ“鐘停止装置”のコアログ。感情波形の変動記録。〈鏡界〉の初期干渉地点。すべて、今ここで公開しましょう」

  そして、彼女は懐からタブレットを取り出した。

  瞬間、翔大の耳元に警報音が鳴る。

  「まずい、あれ――!」

  千紗も同時に気づいた。利奈のタブレットから発信されるのは、〈鏡界〉拡張用の“誘導信号”だった。

  「全域同期波! 鏡界層がこの建物に固定化される!」

  「逃げろ、千紗!」

  翔大の叫びと同時に、千紗は走り出した。

  だが、扉の向こうにはすでに利奈の警護が配置されていた。冷たい眼差しの男たちが、彼女にゆっくりと歩み寄る。

  「記者の皆様、ここから先は立ち入りをご遠慮願います」

  言葉だけは丁寧だった。

  千紗は目を細め、すっと口角を上げた。

  「……あいにく、こっちも用意してきたのよ。翔大、いける?」

  「いつでも!」

  屋上からの信号を受け、翔大が放ったのは――ドローンだった。

  天井裏から飛び出した小型ドローンが、会場の中央を縦断するように飛行し、警備の隙を突いてスモークカプセルを展開。白煙が視界を覆い、会場は一瞬の混乱に包まれた。

  「全データ、転送開始!」

  千紗は手首の端末を強く叩き、強制送信を実行する。

  その刹那、利奈が唇を噛み、目を伏せた。

  「ならば……次は、力で決着をつけましょう」

  灰色の煙のなかで、彼女の瞳だけが不自然な光を宿していた。

  そして、白煙の向こうで鐘の音が、またひとつ――。

  “カアアン……”

  次の局面が、開かれる音だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る