第10話_アレクサンドラは優しい?
図書館には、春の午後らしい静けさがあった。
大きな窓から斜めに射す陽光が、書架の隙間を照らしている。その間をぬうようにして、彩心はゆっくりと歩いていた。
無音に包まれた空間に、彼女の足音だけが淡く響く。
今日は昼から授業を抜けてきた。理由ははっきりしている――「共鳴現象の原理を再検証するため」。
あのとき、〈鏡界〉で“結界”が生まれたのは、確かに“論理”による拒絶が引き金だった。だが、そのメカニズムはいまだ曖昧なまま。
曖昧は嫌いだ。事象に曖昧さがある限り、確証には至れない。
「……“感情によって空間が変質する”なんて、そんな非論理的な構造が、現実にあるなんて」
口の中で呟いたときだった。
「そのとおりですね。感情なんて、見えないし、測れないし」
不意に、すぐ隣から声がした。
誰もいないと思っていた。
なのに、彩心のすぐ後ろ――小柄な女子生徒が、いつの間にか立っていた。
白銀の髪、淡い緑色の瞳、細身の制服――異国の空気をまとったその人物は、ほんの少し口角を上げていた。
「……あなた、誰?」
「アレクサンドラ・グリーンフィールド。今日から、この学校で“いろいろと観察”することになりました」
「交換留学生?」
「そう。だけど、“監察者”でもあるの」
なんだその役職は、という突っ込みは飲み込んだ。彩心の視線は無意識に、彼女の手元にある本へと滑っていく。
『感情と神経伝達の非同期モデル』――難解な英語論文集だ。
「読めるの?」
「読めるけど、信じてない。感情なんて、基本的にノイズでしょう?」
「……珍しい。あなた、感情を否定するの?」
「違う。“気づかない”だけ。他人の感情に、たぶん、ずっと昔から」
そう言ったアレクサンドラの声音には、温度がなかった。
けれど、それが“冷たい”というのとも、少し違っていた。
ただ、まるで“誰にも触れられない透明な壁”をまとっているようで。
「……私も、感情は信用してない」
「そう。でも、あなたの中には“何かを信じたい”って感情が、少しあると思う」
そう断言されて、彩心は眉をひそめた。
観察か、勘か。どちらにせよ、彼女の発言には裏付けがない。
無根拠な言葉には意味がない――それが彩心の信条だった。
だが――
「ほら、どうぞ。これ、あなたに」
アレクサンドラは、ふいにカバンからジュースの缶を取り出して、差し出してきた。
「糖分、足りてない顔してるから」
「……は?」
「論理的に生きる人ほど、栄養不足に陥りやすいってデータ、知ってる?」
返す言葉が見つからなかった。
それは“親切”の形をしていたけれど、温かさはやっぱり伴っていない。
ただ、どこまでもぎこちなくて、ひたすら“正直”だった。
ジュース缶は、無言のまま彩心の手に渡った。
彼女はしばらくその銀色の缶を見つめていたが、やがて諦めたようにプルタブを引いた。
炭酸の抜けた音が、図書館の静寂に溶けていく。
「……無神経」
「うん。そう言われるのは、慣れてる」
アレクサンドラはあっさりと肯定した。
その素直さが逆に彩心の警戒心を鈍らせる。
「あなた、なぜこの街に来たの?」
「鏡界の研究。わたしの母国では、もう禁止されてるから。記録も実験も封印されたの。でも、あきらめきれなかった」
「……あなたは、それをどう定義してるの?」
質問に、アレクサンドラは一瞬だけ黙った。
「“存在しないはずの感情の形”が、この世界には残っている。それが〈鏡界〉」
あまりにも曖昧な答え。けれど、どこかで彩心の思考に引っかかった。
「じゃあ、あなたの目的は?」
「確認。感情に、“価値”があるかどうかを」
そう言い切ったときのアレクサンドラは、どこか幼さを感じさせるほど無垢だった。
無垢すぎて、それが“信じない者の目”ではないことだけは、彩心にも分かった。
「……だったら、感情に否定されてみればいい」
彩心は立ち上がった。
缶を持ったまま、目を合わせないようにして言葉を続ける。
「感情は、暴力的で、矛盾してて、何も証明してくれない。あんなもの、信じてたら足元をすくわれるだけ。私が知ってるのは、それだけ」
アレクサンドラは、それでも穏やかに笑った。
「でも――あなた、いまちょっと、悲しそうに見えた」
「……観察力、ゼロね。あれが感情だって言うなら、笑っちゃう」
「わたし、笑うのも苦手」
互いに感情の形を信じられず、測れずにいた二人の会話は、それでも何かを残した。
ぎこちなくて、直線的で、でも――確かに“交わった”。
「行く」
彩心は踵を返し、図書館の出口に向かった。
その背に、アレクサンドラの小さな声が追いかける。
「――あなたと話せて、わたし、うれしかったよ」
その言葉が、どこまでも不器用で、どこまでもまっすぐだったから。
彩心は、答えずに図書館を出た。
けれど、缶は捨てずに、しばらく手の中で温度を残していた。
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