第8話_千紗の作戦図

 四月五日。朝から空はどんよりと曇り、まるで鏡界の気配が現実世界に滲み出したかのようだった。

  桜丘高校・生徒会室。

  普段は選挙ポスターやら部費申請の資料で散らかるその空間が、今朝に限って異様な整然さを誇っていた。

  中央の長机には、五枚の白紙と一本の赤マジック、そして一人の少女――千紗がいた。

  彼女の手元には、瑠美がまとめた〈鏡界異聞〉の写しと、昨日までに起きた鏡界干渉の座標ログが並んでいる。

  彼女はそれらを瞬時に頭の中で立体化し、戦場としての“桜丘市”を再構築していた。

 「次に〈鏡界〉が顕現するなら……ここ。市営図書館前と、駅北口ロータリー……それと……」

  その指先が、まるで戦術コンピュータのように動く。

  赤ペンが地図上に素早く印を打ち、矢印を描く。

  扉がノックされる音。

  反応しない。

  ドアが開き、足音が近づく。

 「千紗、入っていい? って、もう作業始まってるの……」

  入ってきたのは彩心だった。彼女は千紗の対極にある――論理的だが、感情と距離を置く存在。

  だが今朝ばかりは、その立場が功を奏する。

 「先に結論から言うと、ここ三日間の〈鏡界〉干渉出現ポイントには、周期性があると私は考えてる。千紗の図面と照合すれば、“次”がかなりの確度で予測できるかもしれない」

  千紗は無言で立ち上がり、黒板に矢印付きの点をプロットする。

 「……順番に見て。4月1日、校門前。2日、旧温室。3日、中央公園南端。そして、今日がまだ来ていない」

 「これ……距離も時間も、だいたい一定で進行してるわね。しかも中心から渦状に拡がってるように見える」

  彩心は千紗の描いた地図を俯瞰で見て、眉をひそめた。

 「“このまま行けば、市庁舎に到達するのが四月十日”……?」

  千紗はうなずく。そして、赤い×印を市庁舎に描き込んだ。

 「……六十日間の終わり、“世界が崩壊する日”までに、必ず一度、あそこを防衛ラインにする必要がある」

 「そのためには、今から防衛シフトを組まなきゃいけないってわけね」

  彩心の目が鋭くなる。

 「仲間の動きも、感情武装の特性も、全部勘定に入れて?」

  千紗はホワイトボードの下から、もう一枚の紙を取り出した。

  そこには、各メンバーの出撃時間、移動距離、感情波の平均出力、戦闘時傾向などがびっしりと記されていた。

 「……千紗、これ全部、一人で?」

  答えはない。ただ、赤ペンがさらに一本の線を引く。

  それは、“最も被害が拡がるルート”の予測線だった。


 そのとき、部屋の扉がふたたび開いた。

 「……よう、入っていい?」

  入ってきたのは、寝ぐせのついた髪と目の下のクマが目立つ翔大だった。昨日の徹夜明けにしては、妙に目が冴えている。

 「お、作戦会議中? 俺も混ぜてくれよ」

  千紗は少しだけ口を開きかけたが、何も言わずにホワイトボードを彼のほうへ回した。

 「これ……三日間の鏡界干渉点か? このカーブ、ひょっとして“感情振幅の波”の通過経路じゃ……」

 「――同じこと考えてた」

  それまで無言だった千紗が、ぽつりと呟いた。

  その声に、彩心が少し驚いた顔をした。

 「……珍しいわね。喋るんだ」

  千紗は少しだけ頬を染めたが、話し続ける。

 「翔大のギア、応用できるなら……“空白帯”に防衛用ビーコンを展開したい。レゾナンスビーストの侵入経路を狭められる」

 「空白帯? ああ……“鏡界の振幅が弱いエリア”か。なるほど、そこで誘導路を作れば強制的に進路を読める」

  翔大がノートパソコンを開き、先ほど出力したばかりの地形スキャンデータを千紗の地図と重ねる。

 「合った。北東側の住宅街、振幅指数が平均の四割以下。ここに仕掛ければ、逆側の駅ビル側に誘導できる」

 「駅ビルに優也を置く。遠距離戦闘力で殲滅速度を確保」

 「おっと、鬼作戦だなぁ……」

  苦笑しながら翔大は頷いた。

 「だけど、それなら確かに市庁舎までの流入ラインを制御できる」

  ふと、彩心がホワイトボードの隅を指差した。

 「このマーク、何?」

  そこには小さく、×と○が重なったような記号が描かれていた。

 「……不確定因子」

 「つまり、予測不能の場所、ってこと?」

 「……鏡界が、完全には論理で説明できないってこと。分かってる。でも、無視できない」

  その一言に、彩心の瞳が少しだけ揺れた。

  彼女にとって“論理で説明できないもの”は、恐怖に等しい。

  けれど千紗は、その不確定性を“印”として受け入れていた。

  無言で続く数秒。

  それでも、三人のあいだに奇妙な安心感があった。

 「――準備、する」

  千紗が一言そう言って、戦術マップをホワイトボードに貼り付ける。

  その瞬間、時計が午前十時を告げた。

  いま、〈共鳴隊〉は“初めての未来を読む作戦図”を手に入れたのだった。


 放課後。

  作戦図はその日のうちに、校内の一室――旧視聴覚室へと持ち込まれた。そこは急ごしらえの〈共鳴隊〉指令室となっていた。

  千紗は無言でホワイトボードを壁に立てかけると、近くのロッカーから赤と青のマグネットを取り出した。

 「ここが予測ルート。そして、ここが囮ルート。これが次の三日間のシフト」

  磁石を置くたび、戦場のイメージが生まれ変わっていく。

  優也が腕を組み、目を細めた。

 「……まるで軍の戦略室だな。これ、本当に高校生が組んだのか?」

 「準備は、誰より早く。失敗したら、責任取れないから」

  千紗の声はかすれていたが、言葉の端々に“恐れ”ではなく“覚悟”がにじんでいた。

 「責任、か」

  優也は少しだけ表情を曇らせると、何かを飲み込むように静かに息をついた。

 「で、俺はどこを守ればいい」

 「ここ。駅ビル南側、鏡界の侵入口。出現予兆が最も強いポイント」

 「了解。数が来たら、一人でもやる」

  そのやり取りを見ていた瑠美が、そっと手を挙げた。

 「私は、誰の隣に入ればいいかな?」

  千紗は、少しだけ迷った。

  そして、ホワイトボードの右端、複数ルートが交差する位置を指した。

 「……ここ。感情波が複雑に交錯する地点。そこで“共鳴”を支えて」

 「……うん。分かった」

  瑠美の声に迷いはない。だが心の奥で、その言葉の重みをちゃんと感じ取っていた。

  そのとき、入口からひょこっと頭を出したのは――

 「どーもー、お邪魔しまーす!」

  メキーだった。

 「入っていい? いや、もう入ってるけど!」

  独特なイントネーションと笑顔で室内に飛び込んでくると、彼は手にしたUSBメモリを高々と掲げた。

 「新しい鏡界座標データ、持ってきたよ! 今朝、僕が解析したやつ!」

 「早いな……どこで手に入れた」

 「学外Wi-Fiと、ちょっとした公共センサーのハッキング……じゃない、協力!」

  言い直したメキーに、彩心が苦笑を浮かべる。

 「まあ、合法ならいいけど。千紗、こっちのデータと照合できる?」

  千紗は無言で頷くと、ノートパソコンにUSBを挿し、数十秒で重ね合わせを完了させた。

  ――その瞬間。

 「誤差、ゼロ……?」

  彩心が小さく呟く。

  鏡界座標と、千紗の予測図。二つのマップが完全に一致していた。

  誰も言葉を発せなかった。

  それは、“論理”と“感覚”が初めて重なった証だったから。

 「……行ける」

  千紗は小さくそう呟き、戦術図の最後のマグネットを、中心に置いた。

  その手は少し震えていたけれど、それでも誰よりも確かだった。

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