第3話_感情武装〈器用迅刃〉

 世界が、静止していた。

  祥平はまだ〈鏡界〉の空気の中にいた。目の前にあった異形の影は、桜色の粒子となって消え、静寂が戻ってきていた。

  だが、自分の手の中――いや、右手の奥のほうには、確かにまだ“何か”が残っていた。

 (あれは……俺の感情が、武器になった?)

  ふと足元を見る。鏡のような地面には、もう影は映っていない。代わりに――自分自身の姿すら、ぼんやりとしか映っていなかった。

  まるで、“自分がどこにあるか”を、世界が定かにできていないようだった。

 「祥平! 今の、大丈夫だったの?」

  瑠美の声に振り向く。彼女の肩も少し揺れていたが、しっかりと立っている。

 「うん。俺は平気。でも……」

  彼は右手を見つめた。さっきまで握っていた“刃”は、もう消えていたが、確かに自分の中に“残滓”のようなものが息づいていた。

 「あれ、どうやって出したのか、覚えてる?」

  優也が近づいてきて、問いかけてきた。

 「感覚としては、なんか“面倒だ”って思った瞬間に、勝手に……」

 「はあ?」

 「いや、マジで。俺、正直ちょっとビビってたんだよ。こんな異世界っぽい場所で、変な敵と戦うなんて絶対めんどくさいし……でも、それでも誰かがやらなきゃって思って」

  それは自分でも驚くほど、正直な言葉だった。

 「“やらなきゃいけない”って気持ちが、自分の中の“面倒くさい”って感情を逆に燃料に変えてた。……そういう感じ」

 「つまり、“めんどくせー”って感情を武器にしたってことか……お前、相変わらず器用すぎだろ」

  苦笑する優也に、祥平も肩をすくめた。

 「どうやら、俺の武装は“器用さ”が肝みたいだな。名前も、勝手に脳裏に浮かんできたよ。感情武装――〈器用迅刃〉」

 「ネーミングまで自動装備? ずるい」

 「こっちはこっちで困ってるんだよ……」

  そう言って顔をしかめたその時だった。

  地面の鏡が、ぐにゃりと揺らめいた。

  三人が慌てて視線を走らせると、遠くの鏡の地平に――別の影が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。

  それはさっきとは違い、細身で、だが輪郭が異様にぼやけていた。

 「また来た……!」

  優也が自然と前へ出る。しかし彼の手には、まだ何も出現しない。

  祥平は思わず止めに入った。

 「待て。さっきの感じだと、感情が“溜まって”ないと武器化しない。今、優也、お前……何考えてる?」

 「何って……」

  優也は歯を食いしばった。

 「悔しい、って思ってる。お前が先に戦えて、俺は何もできなかった。……それが、くやしいんだよ!」

  その瞬間、空気が振動した。

  彼の両拳に、炎のような赤い光が集まり始めた。


 優也の周囲を旋回するように、赤い粒子が渦を巻いた。

  それは祥平の“桜色”とは明確に違う、燃え上がるような“怒り”の色――。

 「うぉおおおおおっ!!」

  咆哮とともに、彼の両腕に一対の籠手が現れた。

  黒鉄のフレームに紅の脈動が走るそれは、拳に宿る破壊衝動そのものだった。

 「感情武装――〈烈衝砕拳〉!」

  その名が自然と口を突いて出る。

  そして、彼は迷うことなく影に向かって突進した。

 「お、おい優也、待て!」

  祥平の声はもう届かない。

  獣のような動きで迫る影に対し、優也は真正面から拳を叩き込んだ。

  ズガァッ――!

  鏡面に衝撃波が走る。衝突点が爆ぜ、桜と炎が入り混じった光景となった。

  影の体が吹き飛び、割れた鏡の下層へと沈んでいく。

  しばらくして、優也は息を切らしながら振り返った。

 「……はっ、どうだ。俺にもやれたぞ」

  その顔は、やりきったというよりも、どこか必死さと虚しさが混じっていた。

 「感情を燃料にして……そのぶん、燃え尽きる感覚もある。あまり長くは使えそうにないな」

  瑠美が静かに言った。彼女は鏡面の裂け目に注意深く視線を向けながら、二人に近づいた。

 「でも、わたしたち三人とも、感情を形にできた。なら、これは偶然じゃない。……何か、仕組まれてる」

 「仕組まれてる?」

  祥平が眉をひそめる。瑠美は鏡面を指差した。

 「この世界、最初は誰も存在しなかった。けれど、感情が流れ込んだ瞬間に敵が出てきた。つまり――」

 「感情を感知して、それに応じた敵を生むってことか……?」

 「たぶん、それだけじゃない」

  瑠美はゆっくり立ち上がり、額に手を当てる。

 「この“鏡界”は、わたしたちの感情を映し、形にし、そして……試してる。生きる意味とか、自分自身の在り方を」

  その言葉が落ちたとき、風が吹いた。

  風は冷たくもなく、熱くもなかった。ただ、誰かの“記憶”のような手触りで、三人の頬を撫でていった。

  そして祥平は気づく。――あのときの共鳴、彩心とのあの一瞬。

  それが、この世界への“扉”だったのではないかと。

 「俺たちは……選ばれたのか?」

 「それはわからないけど……」

  瑠美が、少しだけはにかんだように笑った。

 「でも、今は怖くない。こうして、ちゃんと一緒にいるから」


 時間がどれだけ経ったのか、誰も正確にはわからなかった。

  〈鏡界〉の中に時計はない。太陽すら、現実と同じ軌道を描いているかどうかも不明だった。だが、空に漂う桜の光が、少しずつ色調を落とし始めた。

 「……そろそろ戻った方がいいんじゃないか?」

  祥平がそう言いかけたとき、鏡面の端がぐらりと揺れた。

  すぐ近くの地面が歪み、赤い帯のようなラインが浮かび上がる。

  次の瞬間、足元が沈み始めた。

 「うわっ!?」

 「うそ、また!?」

 「戻るゲートだ!」

  優也の叫びとともに、三人の体が強制的に“引き戻される”ようにして吸い込まれていく。

  視界が桜色のノイズで満たされ、次に目を開けたときには――

  彼らは校舎裏の旧温室の床に、三人まとめて倒れ込んでいた。

 「……生きてる、よな?」

 「腕、足、OK……顔、セーフ……あ、制服破れてる」

 「元が体育ジャージでよかった」

  三人は顔を見合わせて、わずかに笑った。

  まるで何年も一緒に戦ってきた仲間のように、自然と笑えた。

  だがその安堵も束の間だった。床に散っていた“赤い鉱石”が、微かに光を放っていたのだ。

 「これ……さっき優也が拾ったやつ?」

 「いや、違う。こっちのは……“誰かの未練”みたいな、変な温度がある」

  瑠美がそっと手に取ると、石の表面にかすかに文字が浮かび上がった。

  ――〈第零鐘:共鳴ノ刻〉

  三人は息を呑んだ。

 「第零……?」

 「最初の鐘……いや、“始まりの合図”か」

 「じゃあ、これは……この世界が“始まった証”ってことか?」

  それを言い切った瞬間、遠くの街の方角――校舎の向こうから、鈍く重い音が響いてきた。

  ゴォォォン――。

  低く、腹の底に響く鐘の音。まるで世界の深層から響いてくるような、その音に、三人は言葉を失った。

 「今の……何の音?」

  誰も答えられなかった。けれど、胸の奥が騒いでいた。

  何かが、動き出した。もう、引き返せない何かが。

  そして祥平は確信した。

  この〈鏡界〉は、“感情の世界”だ。そして今、自分たちは――そこに巻き込まれたんじゃない。招かれたんだ。

 「俺たち、たぶん、ここから逃げちゃいけない。逃げても、また引き戻されるだけだ。なら……向き合うしかない」

  その決意に、優也も、瑠美も、静かにうなずいた。

  その夜。街の外れの図書室で、ひとりの少女が古い書物を開いていた。

  瑠美だった。

  指先でページを繰りながら、彼女は見つける。

  “鏡界”という言葉。そこに記された、六十日後の世界崩壊の予言――

  ――「六十重ノ鐘、鳴り終えしとき、両界は終焉へ至る」

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