第4話_彩心の論理結界
〈鏡界〉の桜は、まるで観測者の存在を前提として咲いていた。
その花びらは物理法則を無視した軌道で舞い、空間の奥行きを錯覚させ、時折、存在すら誤認させるほど曖昧だった。
彩心は、その中心にいた。
自らの意思で足を踏み入れた〈鏡界〉。
朝の“心拍同期”以来、何かが自分にまとわりついている――その予感が、彼女を放課後の旧温室跡へと向かわせていた。
「これは……明らかに現実とは違う物理構造……」
眼前には、幾何学模様に歪んだ空間。直線だったはずのガラス片が曲がり、音が遅れて響く。
だが彼女の表情には、驚きよりも分析の気配があった。
「仮説B-4を適用。局所的位相反転による法則変位と推定……重力は緩やかに上昇ベクトルへ……」
ブツブツと式を唱えながら、彩心は手のひらを広げた。
そして、空中に数式を書き出すような仕草をすると、それが光の文字として周囲に浮かび上がる。
「空間定数を固定、運動量保存の演算式で……収束開始」
その瞬間、半径三メートルほどの円形防壁が形成された。
空気の振動、光の屈折、音の遅延がすべて打ち消され、まるで“現実”に戻ったかのような正確な世界がそこに広がった。
「感情は観測できない。でも……物理現象は数式で制御できる」
彩心の能力――それは、“未証明”や“理不尽”を排除し、あらゆる現象を“論理”によって支配する術。
感情を拒み、数式だけを信じて生きてきた彼女にとって、それは唯一無二の武装だった。
「感情武装――〈論理結界〉。……予想通り、私も“武装者”だったのね」
そのとき――境界の外から、音が近づいてきた。
ズズ……ッ、ズズズッ……!
地面を這うような、異形の音。
振り向いた先にあったのは、赤黒い塊のような存在だった。
感情の澱が具現化した〈レゾナンスビースト〉。しかも、通常よりも明らかに巨大だった。
「……負の感情の質量が高すぎる。単体で発生したとは思えない……」
彩心は防壁の中で冷静に分析し、手元に再び光の式を展開した。
「重力中性化、慣性変換、そして――動力方程式、反転」
敵が跳躍したその瞬間、式の光が閃き、重力ベクトルが“横向き”に再定義される。
〈レゾナンスビースト〉の体が、唐突に空中で斜めへと滑り出し、桜の鏡面へと激突した。
「物理法則に従わない存在なら、こっちが法則を上書きすればいい」
彩心は、一歩も動かず立ち尽くしていた。だが彼女の周囲だけは、静謐な現実が保たれていた。
「あなたたちは“証明”できない存在。なら、私はあなたを……否定する」
再び式が煌き、空間の一部が弾け飛んだ。
異形は、桜の霧へと分解されていく。
空間に静寂が戻った。彩心の作り出した結界は、変質の一切を拒み、完璧な均衡状態を保っていた。
彼女は深呼吸ひとつ分の余白を取り、式をひとつずつ消去していく。空間に浮かんでいた光文字たちは、役目を終えたようにふわりと消えた。
「鏡界……物理法則の“再定義”が可能な世界……」
自ら呟きながら、彼女は自分の掌を見下ろす。
その肌の上に、ほんの一瞬だけ数式が残像のように浮かんだ。
それは、彼女の存在そのものを写したようでもあった。
理論。演算。仮説。確信。そして、否定。
「感情という不定要素を排除することが、私の正解……だったはずなのに」
視界の端で、桜の粒子が揺れた。誰かの気配だ。
振り返ると、そこには――
「やっぱり、いた!」
駆け込んでくる祥平の姿があった。
その背には傷があり、肩には桜色の微粒子がこびりついている。どうやら別の場所で戦っていたらしい。
「無事か、彩心!」
「……春日くん? どうして、ここに?」
「探してたんだよ。あの朝から、ずっと気になってた。君の“あの感覚”がさ」
彩心の表情がわずかに揺れる。だがすぐに、理性的な口調で応じた。
「私は、大丈夫。少なくとも、今は論理的に安全圏にいる」
「……いや、そうじゃない。違うだろ?」
祥平が真っ直ぐに彼女を見つめた。
「“感情”ってのは、たしかに説明できない。でも……今の君、何かに“怯えてる”ように見えた」
その言葉に、彩心の目が鋭くなる。
「私は、感情なんて信じない。あれは観測できないノイズ。誰かが怒っている理由も、泣いている理由も、証明できない。そんな不安定なものに依存して、生きていけるはずがない」
彼女の声は平坦だった。けれど、どこか微かに震えていた。
「だけど、さっきの戦いで君は怒ったし、怯えたし、勝った。……じゃあ、もう君の中にはあるんじゃないか? 感情ってやつが」
「それは……論理的な制御下にある」
「それを“感情”って言うんじゃないか?」
しばしの沈黙。
彩心は唇をかすかに噛んだ。
「……それが、私の中に“ある”としても。それが君の言う“感情”と一致してる保証なんて、どこにもない」
「じゃあ――証明してみようぜ」
祥平が手を差し出す。
「一緒に、戦って、乗り越えて。俺が君を信じるから、君も俺を観測してくれ。何度でも、“感情”の証拠を見せてやるよ」
その言葉に、彩心は目を見開いた。
そして、ほんのわずか――本当にわずかに、彼女の口元が緩んだ。
「……なら、仮説E-2として、観測は継続する」
「おう、いい返事」
桜の粒子がまた、空を舞った。
それは、何かが確かに“繋がり始めた”証だった。
数分後、二人は結界の外に出ていた。
桜並木がどこまでも続く〈鏡界〉の風景は、先ほどの戦闘でほんの少しだけ変化していた。
あたりに満ちていた粒子の密度が薄れ、空間の揺らぎが収まりつつあった。
彩心は、自分の式が外の法則に少なからず影響を与えていたことに気づいていた。
「なるほど……この世界では、個人の感情や認識が、物理構造そのものに影響するのかも」
「“信じる力”が世界を作る……って、そういう中二的な話?」
「言い方が雑。でも、あながち間違ってない」
軽口を交わす二人の背後から、今度は別の声が届いた。
「おーい、見つけたぞー!」
優也と瑠美だった。ふたりとも汗だくで、明らかに全力で走ってきたあとだった。
「やっと合流できた……心拍数、125。限界近いかも」
「よかった、彩心ちゃん、無事……!」
駆け寄ってきた瑠美が抱きつきかけて、ぎこちなく停止した。彩心が「接触は予期しない圧力になる」と言ったことを思い出したのだ。
その様子を見て、彩心はぽつりと言った。
「……今なら、少しは理解できる気がする。“安心”って感情」
「それ、十分に感情だと思うけどな」
祥平が笑い、優也も腕を組んで言った。
「これで四人目か。感情武装できるやつが、少なくとも俺たち以外にも存在するなら――」
「チームを組もう」
瑠美の声が、それを遮るように落ちた。
「チーム?」
「うん。バラバラじゃきっと間に合わない。わたし、さっき図書室で見つけたの。“六十日後、鏡界が現実を侵食し尽くす”って」
全員の表情が固まった。
「……六十日?」
「それが、あの“鐘”の意味……?」
そのとき、彼らの周囲に微かな風が吹いた。
現実世界からの“潮流”――そこに、世界の“限界”が刻まれているかのようだった。
彩心はふと立ち上がり、全員を見渡した。
「証明する。私はこの世界の終焉を、数式で予測してみせる。そのために……みんなの協力が必要」
「いいだろう。仮説を立てて、証拠を集めて、結果を出す。それが科学ってやつだろ?」
祥平が手を差し出す。今度は、しっかりと。
彩心はためらいながらも、それに手を重ねた。
「……この“共鳴”も、因果関係のひとつとして扱う。仮説F-0、“人と人のつながりが、世界を変える”」
「じゃあ、それを実験開始だな。よーし、〈共鳴隊〉結成ってことで!」
「え、いま命名された……?」
瑠美が苦笑し、優也が鼻で笑いながらうなずいた。
「悪くない。なんだかんだで、響きがいい」
空に舞う桜の粒子が、四人の周囲を包む。
その日、まだ誰も知らなかった。
この“仮初のチーム”が、やがて世界の命運を握ることになることを。
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