第2話_鏡面の放課後
四月一日、放課後。
桜丘高校の教室は、始業式の興奮がようやく落ち着きを見せ始めていた。新しいクラス、新しい席、新しい人間関係。そのすべてが、春という季節とともに流れ込み、生徒たちを静かに包み込んでいた。
そんな中、春日祥平は校舎の裏手にある旧温室へと足を運んでいた。
そこは、今はもう誰も使っていない廃墟同然の施設で、窓ガラスは割れ、内部の植物も枯れきっている。だが、彼にとっては昔から落ち着ける隠れ家的な場所だった。
今日この場所を選んだのには、もうひとつ理由があった。
「ここ……何か、変だよな」
そばに立つのは親友の優也。運動部仕込みの鋭い勘を頼りに、祥平に呼び出された形だ。
さらにもう一人、ゆったりとした動きで周囲を見渡している瑠美の姿があった。
「確かに、空気の層が歪んでる。ほら、あそこ。ガラスに映ってる風景……おかしくない?」
瑠美が指差したのは、旧温室の窓ガラス。そのひとつに、今は存在しないはずの“街”が映っていた。
正確には、“もうひとつの桜丘”――だが、それは祥平たちにとっては、初めて見る光景だった。
「この角度から見える校舎は……左右が逆転してる? いや、それだけじゃない。空の色も、時間帯も、全然違う」
祥平が目を凝らす。彼の頭の中に、あの朝の“心拍同期”の記憶がよぎった。
「ちょっと……触れてみるか?」
「おい、やめとけよ。それ、明らかに変だって」
優也が止めるも、祥平は躊躇なく手を伸ばした。
指先がガラスに触れた瞬間――光が一閃した。
景色が裏返るようにして、三人の足元の床が崩れた。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
「くっ……なに、これ――!」
落下する感覚と同時に、視界が桜色の粒子に包まれる。
次に目を開けたとき、三人はそこにいた。
桜並木がどこまでも続く、幻想的な風景の中に。
それは現実とは異なるもうひとつの世界――〈鏡界〉。
視界に広がっていたのは、ありえない光景だった。
無数の桜が空に浮かぶように咲き誇り、その花びらは重力を無視して宙を漂っていた。
地面は艶のある鏡のように磨かれ、歩くたびに自分たちの姿が歪んで映る。
「ここ……どこだよ……?」
優也が辺りを見渡しながら唾を飲み込む。いつもは前しか見ない彼が、明らかに警戒していた。
その背中越しに、瑠美が慎重に声を発した。
「鏡……界……?」
「おい、それ、知ってるのか?」
「知らない。でも、言葉が勝手に浮かんだの」
瑠美は立ち止まり、足元の鏡面をじっと見つめた。
そこには、自分たちの姿ではなく、まったく別の姿をした“影”がうごめいていた。
祥平もまた、手のひらをじっと見つめていた。
自分の内側から、何かが揺れ動いている。
心臓の鼓動が、朝とは違うリズムを刻んでいる――そんな気がした。
「これは、朝の共鳴と……関係ある?」
そのときだった。
鏡面の地面が音を立て、黒い影がゆっくりとせり上がってきた。
それは、まるで人の怒りや哀しみを具現化したような異形の存在。
「うわっ……! なんだこいつっ!」
優也がすぐさま構える。だが武器は持っていない。ただの高校生には、手立てがなかった。
「逃げ……っ!」
瑠美が叫ぶより早く、影が飛びかかってきた。
だが――その瞬間。
祥平の右腕が、勝手に動いた。
掌に、桜の花びらが集まり、粒子となって結晶していく。
刃だ。短剣のような、細く鋭い刃が、彼の手の中に形を成した。
「う、うわっ……!? なんだこれ……!」
だが、それは“分かる”感覚だった。
――これは、自分の“面倒くさい”という感情が、形になったもの。
朝、彩心を助けようとした時、内心では「面倒だな」と思っていた。でも、それ以上に「やるしかない」と決めた感情が、今ここに結晶していた。
名もなき力が、体の奥から湧き上がる。
「やるしかない……っ!」
祥平は刃を構え、迫る影に斬りかかった。
刃が空気を裂く感触とともに、鏡界の桜色の粒子が炸裂した。
短剣が影の体を斬り裂くと、悲鳴のようなエネルギー波があたりに散る。
だが、影は怯むどころか、まるで歓喜するかのようにうねりを増した。
「効いてない……?」
祥平は身を引く。足元の鏡面に滑りそうになるが、なんとか体勢を立て直した。
「ちょっと、祥平! 今の……それ何!?」
瑠美が叫ぶ。驚きと混乱と、そしてほんの少しの希望が混じった声だった。
「俺にもわかんねえよ! けど、勝手に出てきた! ……たぶん、“俺の感情”が!」
言った瞬間、また刃が桜の粒子をまとって変化する。
まるで彼の“焦り”が増すほど、武装も鋭くなるようだった。
「これが……感情武装……なの?」
優也が低く呟いた。その目が、闘志で燃える。
「なら……俺にも出せるのか?」
「優也、お前も感情出しまくりだからな! 怒ってるときとか、すぐ刃になりそう!」
「バカ言ってんな!」
その間にも影は体勢を立て直し、再び跳躍してくる。
その口からは、不明瞭な声が漏れていた。
「――まざれ……こころ……きざめ」
言葉にならない叫び。それはまるで、失われた誰かの感情が漏れ出した残響のようだった。
祥平は一歩踏み込み、跳躍する影を迎え撃った。
短剣が再び煌めき、空中で交錯する。
ガッ――!
金属音のような衝突。そして、刃が深く刺さる。
影の体がぶれ、桜の花びらとなって散っていく。
しばらくの静寂。桜の粒子が宙を舞い、風の音だけが耳に届く。
「……倒した、のか?」
祥平が恐る恐る手を下ろした瞬間、瑠美が駆け寄ってきた。
「祥平、大丈夫!? ケガとか……」
「うん、大丈夫。でも、やっぱりこれは普通じゃないよな」
彼が言いかけたとき、優也が鏡面の地面にしゃがみ込み、小さな結晶体を拾い上げた。
「これは……鉱石?」
「感情が凝固した残滓……みたいに見える。人の内側が、こうやって具現化する世界なのかもしれない」
瑠美が慎重に言葉を選びながら言った。
そして、祥平の手の中の刃が、ふわりと桜に還っていくように消えていった。
「“感情武装〈器用迅刃〉”……勝手に名前が浮かんだ。俺の武器、これらしい」
「お前、名前まで決まってんのかよ……」
呆れながらも、優也はどこか楽しそうだった。
だが、それはこの〈鏡界〉の入り口にすぎなかった。
彼らの前に、まだ多くの“感情”と“戦い”が待っていることを、このときは誰も知らなかった。
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