鏡界シンクロナイズ ―桜丘高校《共鳴隊》の六十日―
mynameis愛
第1話_遅刻の共鳴
始業式当日。四月一日、午前七時四十五分。
地方都市・桜丘市の郊外にある県立桜丘高校の校門前は、少し肌寒い春風の中、慌ただしく登校する生徒たちで賑わっていた。
その中で、祥平はひとり、手元のスマホに目を落としながら早足で歩いていた。
桜色の風が彼の髪を揺らし、制服の裾を撫でる。だが彼の目は画面のスケジュールアプリに釘付けだった。
「あと三分か……ギリギリセーフ。いやアウトか?」
呟いた瞬間、前方で何かが風に煽られて舞い上がった。
反射的に彼が手を伸ばすと、それは風に踊る一枚の紙だった。
「ん、入学案内? あれ……転校生用?」
拾い上げて顔を上げたその先に、彼はひとりの少女を見つけた。
長い黒髪に、制服のリボンが少し曲がっている。手元を探る様子がどこか必死で、何より目が真剣だった。
「これ、落としました?」
祥平が声をかけると、少女は驚いたように顔を上げた。瞬間、その瞳がわずかに揺れた。
彼女は受け取ると、小さく息を吸い――そして言った。
「ありがとう。でも……誰?」
「おっと、それは挨拶が先だったな。二年の春日祥平、A組。君、転校生だよね?」
「……彩心。椿彩心。二年……たぶん、B組。」
「たぶんって……自信ないの?」
「自信がないわけじゃなくて、紙をなくしたから確証がないだけ」
言いながら、彼女――彩心は手に戻った案内書の端を指差した。そこには確かに「B組」の文字があったが、風にちぎられて一部が破れていた。
「そっか。じゃあ、まずは一緒に職員室で確認しよっか。今ならまだ間に合うし」
「でも……」
「でもって言ってる時間がもうない! ほら、走るよ」
祥平は軽く彼女の腕を引いた。その瞬間――
不思議な感覚が、全身を走った。
心臓が、一瞬だけ、別の鼓動と重なったような。
――ドクン。
――ドクン。
彼の心拍と、彼女の心拍が、音を重ねる。
音じゃない。波長だった。温度だった。呼吸だった。
「……今の、何?」
「……いや、俺も、たぶん……初めて、だと思う」
互いの目が合う。視線の奥で、違うはずの感覚が一瞬、混ざり合った。
だがその不思議な感覚は、次の瞬間には消えていた。
「気のせいかな……急ごう!」
「……うん」
走り出した二人の後ろで、門の上の校名プレートがきらりと反射した。
この瞬間から、世界の歯車は、わずかに音を変えたのだった。
職員室前の廊下は、始業式直前とは思えぬほど静かだった。
掲示板に貼られた学級名簿の紙が、少しだけめくれているのを祥平はちらりと見た。校内は春らしい空気で満ちていたが、二人の間にはさっきの不思議な空気が、まだ微かに残っていた。
「ねえ、春日くん。さっきの……気のせいじゃないと思う」
「だよな。俺も変な感じがした。なんていうか、俺の心拍が誰かのと同じタイミングで鳴ったみたいな」
「心拍同期……物理的には起こり得る。でも、いきなりは変」
彩心は考え込むように唇に手を当てた。まるで、未知の事象に立ち向かう科学者のようだった。
「普通は接触とか、長時間の同調が必要。初対面で、あの現象……異常すぎる」
「もしかして、そういうのに詳しい系?」
「少しだけ。数字や現象には興味があるから」
そう言って、彼女はようやく柔らかく微笑んだ。その笑顔が、初めて感情の糸を結んだ気がして、祥平の胸がくすぐったくなった。
「へえ、じゃあ理数系強いんだ?」
「文系は苦手。感情って、証明できないし」
「でも、人って感情で動くんじゃない? 今だって、俺は困ってる人を見たから手を貸したわけで」
「それも現象の一種。『困ってる人を助ける』という行動パターン。感情じゃなくて、経験則で決まる」
「そっか。俺は単に“あ、面白そうな子だな”って思っただけなんだけど」
「面白そう……?」
「いや、褒めてる。むしろ、そっち系は得意分野ないから尊敬する」
そんなふうに軽口を叩く祥平に、彩心はわずかに肩の力を抜いた。
「春日くんって、変な人だね。慣れてるの? 初対面で距離詰めるの」
「まあ、手際だけはいいってよく言われる」
「確かに……自然に誘導されてた」
「褒められた!」
二人が笑い合ったところで、職員室のドアが開き、中から中年教師が顔を出した。
「おう、春日。転校生連れてきたか」
「はい、椿彩心さんです。二年B組ですよね?」
「そうそう、B組。ほら、こっちだ」
教師の案内に従って彩心が部屋に入る。その背中を見送りながら、祥平はぽつりと呟いた。
「面白そうな春になりそうだな……」
その言葉のすぐあと、彩心がふと振り返った。
視線が交差する。先ほどの“共鳴”が再び一瞬だけ、確かに――
――ドクン。
それはもう、気のせいではなかった。
始業式のチャイムが鳴る頃には、校舎内はすっかり整列の空気で満たされていた。
桜丘高校の体育館には新入生と在校生が整然と並び、壇上では校長が例年通りの長い挨拶を披露していた。が、祥平はまったくと言っていいほど聞いていなかった。
(心拍同期って、そんなの初めて聞いたぞ……)
脳裏には、彩心との一瞬の感覚がこびりついていた。
ただの好奇心ではなかった。明確に“つながった”としか言えないあの感覚。
「春日。おまえ、さっきからぼーっとしてるぞ」
隣に立つ優也が、小声で肘を突いてきた。
運動部所属で、常に前向きで一直線な性格の彼は、式の空気にも反応せず周囲を観察していた。
「ん? いや、ちょっと考え事」
「珍しいな。あの子か? 新しい転校生」
「バレたか……というか、なんでお前まで知ってんの?」
「全校放送されてたし。しかも二年B組に転入って、となりのクラスだぞ?」
優也は口元をにやつかせる。
「へー、春日もついに恋愛モード?」
「ちげーし。ただ、変な現象が起きたんだよ。心拍が重なって……」
「共鳴か?」
「え?」
「鏡界の話、まだ知らないのか」
優也が言った“鏡界”という言葉に、祥平の耳がぴくりと反応した。
その言葉には、妙な重みがあった。まるで、世界の裏側を示す鍵のような。
「おい、それどういう意味?」
「まあ、あとで話すよ。……それに、あいつも関係あるなら、面白くなりそうだ」
そのとき、壇上では校長が「以上をもちまして、始業式を終了します」と結びの言葉を述べていた。
拍手が起こる。全校生徒が一斉に動き出す。
その中で、祥平は無意識に彩心の姿を探していた。
前列に座っていた彼女がふと振り返り、一瞬だけ目が合った。
――また、ドクン。
やはりこれは、偶然なんかじゃない。
その確信とともに、祥平の中にひとつの芽が生まれた。
これは、ただの出会いじゃない。何か、大きな“始まり”だ。
式が終わった後の教室は、いつも通りのざわめきに満ちていた。
B組の教室――そこに転校生として紹介された彩心は、クラスメイトたちの視線を真正面から受け止めていた。だが、彼女は少しも怯んでいなかった。
「椿彩心さんです。科学部出身で……好きな食べ物は、たぶん納豆です」
担任の紹介が妙に曖昧だったのは、本人の提出したプロフィールが最低限だったからだ。
自己紹介を求められて、彼女は迷わず言った。
「椿彩心。転入理由は家庭の都合。科学は得意です。感情で動く人より、理屈で動く人の方が信用できます」
思わずクラスがざわついた。
だが、そのざわめきの中で祥平だけは笑った。
教室の隣の窓越し、A組の席から彼女の背筋の伸びた姿を見ていた。
(やっぱり、変な子だな。でも、芯がある)
その日の午後、昼休み。
祥平は購買でパンを買い、誰もいない中庭のベンチでひとりかじっていた。
そこへ、思いもよらぬ人物が近づいてきた。
「……いた。やっぱりここ」
「……彩心?」
彼女は、迷いもなく祥平の隣に腰を下ろした。手には自分で握ったらしい小さな弁当。
「ありがとう。朝のこと、改めて」
「いいって。あれは俺の勝手だったし」
「でも、礼は必要。論理的には、行動に対する対価」
その“礼”として差し出されたのは、ひとつのミニトマトだった。
祥平は一瞬戸惑いながらも、それを受け取り口に運んだ。
「……甘い」
「糖度測って選んだ。計測は正確だったみたい」
「やっぱ変わってるな、君」
「それ、二人目。最初に言ったのは春日くん」
言ったあと、彩心は少しだけ笑った。その笑顔が、どこかぎこちなくて、だけどまっすぐだった。
「なあ、彩心。朝のことだけどさ、あれって……共鳴、なんだと思う?」
「私にもわからない。けど……たぶん、まだ始まり」
「始まりって?」
「この世界が、ほんの少しだけ歪んだ気がした。もしかしたら、それは“異常”じゃなくて、“真実”の方かもしれない」
その言葉に、祥平は一瞬だけ体が震えるのを感じた。
彼女の目が、空を見上げていた。まるで、まだ見ぬ何かを探しているように。
「もしそれが本当なら――俺も、見てみたい。君の言う“真実”をさ」
その言葉を聞いて、彼女は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「だったら、傍にいて。これから起こること、ひとりでは観測できない気がするから」
桜の花びらが風に乗って二人の肩に舞い落ちた。
その瞬間、彼らの足元――ほんの一瞬、舗装された地面がきらりと光った気がした。
それは、〈鏡界〉の兆し。誰もまだ、それが“向こう側”の入り口であることに気づいていなかった。
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