撃退作戦その一

鹿威しの静謐な音が耳を打った。かと思えば、竹林のどこかにいる鳥が、ぎぃーぎぃーと不気味な声で鳴いた。きっと賀茂無残がすずめのすぐそばにいるせいだろう。


 ここは石室御殿の茶室。広大な敷地に植わっている竹林の中にある。


 外からは、こじんまりとした佇まいでどこかうら寂しさも漂うが、中に入れば、畳から天井の細部にいたるまで立派なしつらえである。


 少し安っぽさが漂っていたゲームスチルでは、そんなこと全然気付かなかった。


すずめがあえて用意せずとも、床の間には秋の七草が描かれた掛け軸がかけられ、季節の花も姿の美しい器にいけられている。


 秋の七草といっても、前世と共通しているのは葛の花だけで、後はこの世界にしか生えていないものばかりだ。


花瓶にいけられている赤く丸い蕾の花も、ぎざぎざの特徴的な葉をみれば星火草ほしびそうという名前の花だ。夏から秋にかけて花をつけ、夜にしか花を開かず、その花はまさに星の瞬きのように小さな光を散らすのである。手折ったら花は開いても光らなくなってしまう、そんな不思議な花だ。前世でゲームをプレイしていたときにはたしか登場しなかったと思う。


 家の近所にあった沼地でこの花が群れになって咲いていたのを思い出す。夏場は空も地上も星の光で溢れたかのようにとてもきれいだった。


 この世界特有のものはあげればきりはなく、前世の世界と同じものを見つけても、用途や用法、社会的な立ち位置で意外と違うこともある。


たとえば茶の湯はまさにそうで、前世の日本と大きな違いは、庶民に開かれたものではなく、殿上人たちだけのたしなみだ。大きな茶会も貴族の邸宅で定期的に開かれている。


 貴族たちにとって酒宴の場と同様に社交の場であり、政を動かす場といってさしつかえない。それはゲームをプレイして知っていた設定ではなく、やはりすずめがこの世界に転生して知ったこちらの世界の常識だった。


 しかし、火封じの巫女候補は、修練にあたって、この世界のやんごとない人たちのたしなみである茶道を習得するわけではない。


 茶室の畳と畳の隙間から突き出す刀の切っ先や、天井から現れる暗殺者と戦う訓練をするのである。それも丸腰で。


 ゲームをプレイしているときも、まさにそうだった。


 部屋の中にある仕掛けを使って、床や天井から現れる曲者を倒すのである。


 体を動かすのが好きなまひわは楽しんでいるようだが、すずめはプレイしているとき、それにたいへん骨を折った思い出がある。


 間違って自分が落とし穴に落ちてしまい、あえなくゲームオーバーになったことだってある。


 こんな修練、巫女になるのに本当にいるの? と、大いに疑問を思いながら、暗殺対策修練に多大な時間を費やしてしまった。


 おかげで、東皇海ではなく、名前はすっかり忘れてしまったが、暗殺対策の修練を担当していた攻略キャラから好感度が急上昇してしまった。


 東皇海の存在を除けば、やはりあの乙女ゲーは周りの評判通り糞ゲーだったかもしれない。


「妻殿?」


茶室の中に座って遠い目をしていたら、無残に声をかけられ、すずめは我に返った。

 

巫女の修練の際には、立派な茶室も暗殺対策ルームに早変わりするが、普段はごく普通の茶室として、巫女候補や御殿長の許しを得た者なら利用できる。


すずめもまひわへの指導をするのにこの茶室を使わせてもらっている。おかげで、まひわから「すずめ先生はいつでもご自由にお使いください」と、ありがたくもお許しをもらっている。


すずめは、茶碗に手を添え茶筅で小気味よい音を立てて、濃い緑の粉末とお湯をささっと混ぜた。


 茶道は前世で習得したのではなく、亡き父宮から習ったものだ。父宮はお茶が好きな人で、書や絵の道にも通じ、琴の演奏に関しては都でその名を馳せたほどの風流人だった。


 彼はお金にほとんど縁はなく頓着もしなかったが、この世界にある季節の草花の名前などもよく教えてくれて、すずめは貧しく家事もやりくりも大変だったが、さほど不幸は感じなかった。


 すずめは、父宮の才能をそっくりではないが、わずかばかりは受け継ぎ、今はまひわに琴の演奏や茶道の基本、教養を教えている。


 この八雲国において、火封じの巫女は雲帝につぐ高い地位にある。その候補となると、皇子や皇女に等しい存在だ。


 学問や教養を学ぶなら、鸞鳳院出の学者についてもらうのがよかろうが、いかんせんそういう人を雇うのには給金はえげつないぐらい高く、正妻の目が怖い雲居宮はそれを出し渋った。おかげですずめは伯母の口利きもあってまひわの女房に採用してもらえたのである。 


 かつて鸞鳳院を落第したときはショックだったが、それでも巡り巡ってまひわの女房になり、東皇海の剣舞もこの目でしっかり拝めた。


 思い通りにならないことも多いものの、案外ものごとはうまくいくともあると、すずめは信じている。


 青い出帛紗だしふくさを添えて、すずめは抹茶茶碗を賀茂無残の前にそっと差し出した。


 灰色がかった白い茶碗には、緑の液体がなみなみと入っている。前世の世界にあった入浴剤のようなおどろどろしい色合いである。


 この抹茶茶碗は父親の形見の茶碗の一つだ。よく使い込まれているせいで、広縁が一か所かけ、中の釉薬も細かくひびわれてしまっている。みかけはとても粗末な茶碗だ。


 きっと、今はにこやかにみえてもプライドが高いだろう悪役陰陽師様であれば、こんなみすぼらしい茶碗を出されたら、侮られていると腹の中では煮えくり返るだろう。


「お点前頂戴いたします」


賀茂無残は、茶道の礼儀に則って抹茶茶碗を持ち上げた。


今日彼が着ている狩衣は、先日とうって変わって雲のように白いからだろうか、不思議と抹茶茶碗は彼の手にしっくりきていた。まるで、元の持ち主のもとへ戻ったかのようだ。


 白い狩衣の下に着ている単は濃い赤紫で、掛け軸に描かれている葛の花を思わせ、先日の漆黒の狩衣よりも、彼の色男ぶりを引き立てているように思えた。


だが今は白い狩衣であっても、今後またいつ衣装チェンジするかわからない。


すずめは、ゲームスチルで登場した漆黒の狩衣姿の賀茂無残を思い浮かべた。


 口元に薄気味悪い笑みをたたえて、世界の全てを憎んでいるかのような禍々しいオーラ全開だった。きっと彼の本性はあちらの姿のはずだ。今このようににこやかに接してきているのも都を滅ぼすためだろう。


無残は、両手で抹茶茶碗をあおった。


すずめは心の中でほくそ笑んだ。抹茶茶碗の中身は、苦味の中にほんのりした甘みのある抹茶ではなく、一口飲めば顔をしかめざるをえない青汁なのである。


すずめは、ゲームをプレイしていたとき、隠しアイテムとして厨に青汁があったのを覚えていた。


 その効果は忘れていたが、前世では体にはいいけれど美味しくないものの象徴だったから、この世界でもおそらくそうであろうと思って、厨づとめの女性に袖の下を渡して、青汁の粉末を少々分けてもらったのである。


 はじめは酒かつまみに混ぜようかと思ったが、無残が予定よりも早く来たので抹茶と思わせて飲ませることにしたのだ。


青汁を一口飲んだ後、無残の動きが一瞬止まった。


 ぶっと青汁を盛大に吹き出すかもしれない。けれど、今たとえ彼がこの場で怒り狂っても大丈夫。この茶室には、霊力封じの術がかけられているのである。ゲームをプレイしたおかげで、他の仕掛けも知っている。その気になれば、彼を今すぐにでも落とし穴に落とせる。


まひわを守るために、この悪役陰陽師をなんとしてでも石室御殿から追い払わなければならない。


 すずめは、自分にできる限りの力を以てして悪役陰陽師撃退作戦に出たのである。

 

 無残は動きを止めると、「こんなもの飲めるか!」と本性をあらわにして茶碗を畳へ乱暴に叩きつけはしなかった。かといって、心根が善良な人間のふりをして、「美味しいよ」と眉を寄せながらも、ぎこちなく飲み干したわけでもない。


 なんと、彼は顔色をまったく変えず、ごくごくと喉を鳴らしながら青汁を一気に飲み干したのだった。


「美味しかったよ、とても。もう一服もらえるかい?」


 無残は抹茶茶碗から口を離すと、甘露の雫でも飲んだかのように垂れたまなじりをさらに下げ、すずめにおかわりを所望した。


青汁を飲み終わった感想は、『まずい、もう一杯』ではなかった。悪役陰陽師様はツンデレというわけでもないらしい。


 すずめは、まったくもって予想外の反応をされてしまい、あっけに取られてしまった。


「どうかした?」


「ううん、なんでもないわ。ごめんなさい、とても貴重な代物だから一杯分しか用意していないの」


 本当に一杯分しか用意していない。それでも悪役陰陽師に自分から関心をなくさせるには十分な量だと、粉から漂う匂いですずめは思っていた。


 茶筅で混ぜているときでさえ、青臭さや苦みを鼻に吸い込んでしまい、うっと顔をしかめそうになった。


 まさか、あんな強烈なものを、いくらまひわに近づきたい下心があるとはいえ、悪役陰陽師が一気に飲み切るだなんて、誰が想像できただろうか。


「そうか、残念だよ。妻殿も飲めばよかったのに」


無残は、少し残念そうなそのくせ含みのある言い方をした。


「この抹茶茶碗は、お父上のものかい?」


「どうして分かったの?」


 すずめは、瞳を瞬かせた。これまで一度たりとも父親のことなど伝えていないのにどうしてわかったのだろうか。


「かつて、母がさる貴人に差し上げたものとよく似ているから。もしやと思ったのさ」


たしか賀茂無残は、妖狐の母親と人間の父親の間に生まれた設定だった。両親はときの帝の命によって殺されたのではなかっただろうか。


 ところが、悪役陰陽師様御本人によると、なんと彼の母君はまだ存命で陶器を作っている陶工だと言った。


 ひょっとして、すずめがこの世界へ転生した影響で、まさかゲームの設定が少しずつ変わっているのだろうか。


「父は、お茶好きのお友達から、そのお茶碗をもらったと言っていたわ。それ以前に愛用していたものが割れてしまったとき、相談したらくれたそうよ。お母様と知り合いだったとは思えないけど」


――そのお友達は、近所に住んでいるとも言っていたような。ということは、まさか彼はわたしの近くにいたの? まさか、そんなわけないわ。

 

 悪役といえど、いや悪役だからなのか、賀茂無残は色気のしたたる美形だ。背丈は平均的だが顎の線は男らしい。それでいて、愛嬌のある垂れた黒い瞳には、人に有無を言わせない力強さも宿っている。


 少年の頃ならば、さぞ人の目をひく美少年だっただろう。もし彼が近所にいたら、さすがに噂になってすずめの耳に入っているだろう。近所の友だちからもらったという父の言葉はすずめの記憶違いだろうか。


 すずめの困惑をよそに、賀茂無残は使った茶碗を目線より持ち上げて高台の裏をみている。そこには作った人の雅号らしき三枚の葛の葉が刻まれている。


「雅号を確認したら、やはりこれは母が作ったものだよ。よく使い込んでくれているから、母もきっと作者冥利に尽きると喜ぶだろう」


 抹茶は高価だから、貧乏な父宮はそれで実のところお味噌汁を飲んでいた。


 嬉しそうに言う彼に、すずめはぎこちない笑みを浮かべるほかなかった。


――ひょっとしたら、彼はまひわ様に近づくために、わたしのことを調べ上げて、父の抹茶茶碗を母が作った器なんだ、なんて嘘をついてわたしを籠絡しようとしているのかもしれない。なにせ彼は蜘蛛男と呼ばれているぐらいの情報通だから。


 すずめは、昨日今日のうちに、宮中の噂話に詳しい蜜麻呂へ文を送り、彼女のささやき鳥に何度も往復してもらい、夫に関する噂を余すところなく教えてもらった。


「三周目だけど皇海様をまた攻略できない」と嘆くすずめに、攻略本を読んでプレイして皇海を攻略した同級生が冷ややかに言ったのだ、「情報を制するものが戦を制すのよ」と。


無残にまつわる噂は、貴族から依頼を受け政敵にかえられた呪詛を解いている、内裏に現れる鬼を退治し雲帝から厚い信任を得ているといったいかにも陰陽師らしいものから、鸞鳳院に入学したが試験で不正行為をしてすぐに退学になった、笛を吹きながら百鬼夜行の先頭を歩き人を襲っていた、大枝山おおえやまに巣食っていた妖魔たちを騙して彼らの財宝を奪い莫大な財をなした、妖魔たちと怪しげな取り引きをしている、蜘蛛のように都中に情報網を張り巡らしている、妖魔の王の息子、屋敷には何千もの髑髏が飾られている、などいかにも悪役らしい不穏な話が数えきれないぐらいあった。


 すずめと結婚する前は、陰陽寮の上司や、貴族の妻、後宮の女官と同時に関係していた話や、 式神全員とデキている破廉恥な噂もある。式神の性別は、屈強な男性と美少年に妖艶な美女だそうだ。なんというエロエロ陰陽師。


 残念ながら、何が苦手だとか嫌いな食べ物とかそういうことはわからなかったが、雨に打たれて凍えている子犬を拾ったとか、歩けなくて困っているおばあさんを助けた、なんて心温まる評判もまたすずめの耳にかすりもしなかった。


 だから、すずめが賀茂無残の言葉を到底丸っと信じられるわけがなかった。


「お母様は、今はどちらで陶工をなさっているの?」


では、もう作っていないね」


場所を聞いて調べてみようと思ったら、またも含みのある返しをされた。


 やっぱりうさん臭い。


 すずめが不審に思っていると、無残からにこりと微笑まれた。


 女でも男でも誰もが頬を赤らめ魅了されてしまうだろう、匂い立つような色気のあふれる笑みだった。


 すずめも一瞬ぽうっとなったが、すぐに正気に返った。


――いけない、いけない。相手は先代の巫女様を手にかけたかもしれない、これからまひわ様も手にかけるかもしれない恐ろしい、危険きわまりない男なんだからね、すずめ。


彼の正体が悪役陰陽師だと知らなかったら、最愛の皇海のことは頭に残しながらいけないとは思いつつ、なんて綺麗な糸なんだろうと蜘蛛が張った透明な糸にふらふらと引き寄せられたかもしれない。


――あなたの思い通りになんかさせないんだから。


 すずめは、ふたたびぎゅっと小袖の中で拳をにぎった。


 彼女の悪役陰陽師撃退作戦はまだ続く。

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