雨夜の初顔合わせ

 すずめは、この八雲国やくものくにを治める雲帝うんていの一族に連なる者である。


 大昔、この水豊かな豊葦原とよあしはらの地へ一羽の三本足の烏が火を放ち、豊葦原を灼熱の地獄と化した。そこで、八雲という青年が剣舞を舞い、雲を呼んで恵みの雨を降らし、地上の炎を鎮め人々を災難から救った。そして彼はこの八雲国を築いたのである。


 すずめは英雄であり建国の祖の血をひくやんごとない生まれだが、父宮は都のはずれに暮らす貧乏学者だった。すずめが幼い頃に流行病で亡くなった母もまた機織り女で、当然身分は低く財も学もなかったのですずめは庶民とそう変わらない暮らしぶりだった。


 そんな権力も財もない家で、すずめ本人も評判になるほど姿が美しいとか、鬼や妖魔さえうなるほど琴の演奏がうまいとか、後宮でお妃様たちに仕えられるほど学問に秀でているとか、これといった大きな取り柄はない。


 そんな血筋ばかり立派な娘のところへ通おうとするもの好きな殿方などもちろんおらず、すずめはこの春に二六歳になるまでずっと独り身だった。


 父が昨年亡くなってからは、悲しみに浸る間もなく身の振りをどうしようか悩んでいたところ、有力貴族に嫁いでいた伯母のすすめで、高齢の貴族に嫁ぐことにした。


 お相手はすでに認知症が入っていて、正妻とは名ばかりの介護要員だったが、衣食住は保証されていたので、他に頼るところのないすずめはためらわずに承諾した。


 けれど、その夫も婚儀を迎える直前にあっけなく亡くなってしまった。


 庭の柿の木に登った一匹の猿が、石のように固い青柿を散歩していた老人へ投げつけ、それが体に直撃してよろめいたところを大きな蟹が寄ってきて足払いしたら、当然転倒して打ち所が悪くて死んでしまったそうだ。


 どこの昔話? と眉をひそめたくなる妙な死に方だったが、すずめはまた頼る所がなくなってしまった。


 この世界において、親もいない結婚もしていない機織りもやったことのない女は、どこにも行き場はない。


――もう出家するしかない。


 そう決心して、雪の降る中、都のあちこちの尼寺の門を叩いた。けれど、どこの尼寺の門もどういうわけなのかことごとくかたく閉ざされていた。


 すずめは俗世にも仏門にもどこにも行き場がなく、ほとほと困りかけていた。そんなとき、伯母から今度は火封ひふうじの巫女みこ候補の女房をすすめられて、飛びつくようにその職についた。


 飛びついたのは、火封じの巫女候補の女房になれば、巫女の修練期間の三年間は衣食住に困らないだけでなく、憧れのあの人がいる宮中に出入りできる機会があるからだ。


 そして、春の吉日に火封じの巫女候補を歓迎する式典が内裏で開かれた。


 前世でプレイしていた乙女ゲーム『桜雲封火伝おううんふうかでん――想いは雲の彼方へ』のシナリオ通りに。


 かくして、大内裏のまわりに植えられた桜の花びらが舞い散るさなか、すずめは若い主の後ろについて生まれて初めて宮中へ足を踏み入ることができた。


 そのたった一週間後である、帝から婚姻を命じられたのは。

 

――その夫がまさか、悪役陰陽師だったなんて。


 すずめは、夫の名前を聞くまですっかり忘れていた。この世界――前世でプレイしていた乙女ゲームの世界には、残忍で卑劣きわまりない悪役がいたことを。


 作中一の悪役こと陰陽師の賀茂無残は、ゲームの主人公である火封じの巫女候補を殺め、妖火ようびを解き放ち、この桜雲京を混沌の渦に陥れ、八雲国を滅ぼそうとしていた。


 妖火とは、大昔三本足の烏が地上に放ち英雄八雲が鎮めた炎の残り火のことである。ひとたび外に漏れたら、この豊葦原の地はふたたび炎の海と化すと恐れられている。


 火封じの巫女は、妖火をその身に宿す女性のことだ。いわば、生きた封印の器である。だから火封じの巫女と呼ばれる。  


 先代の巫女が寿命によって亡くなると、占いにより国中の女性たちから複数候補者が選ばれ、三年の修練期間をへたのち、修練の結果によって新しい火封じの巫女が決まる仕組みだ。


 直前の火封じの巫女は、そう歳をとっていないうちに亡くなった。その真相もゲーム中盤で判明するのだが、賀茂無残が病死にみせかけてその手にかけたのだ。


 どう考えても、悪役陰陽師こと賀茂無残は、火封じの巫女候補に危害を加えるためにその世話係であるすずめと婚姻を結んだのである。

  

 このまま彼を夫として迎えてしまえば、仕えている巫女候補を危険な目にあわせかねない。

 

 すずめはそう思って、巫女候補の父宮を通して巫女の修練期間が終わるまで輿入れは待ってくれと帝に嘆願したのだ。


 帝にはその願いが聞き入れられ、形式上では婚姻しても彼の屋敷へ移り住まずにすんでいる。


 結婚してから趣味の良い贈り物はときどき、文は週一ぐらいで送られてきたが、すずめは何も返さなかった。そうすれば、薄情な女だと思われてやがて彼の関心が薄れるだろうと思ったからだ。


 けれど、まさか従姉妹の名前をかたってこの石室御殿へやってくるとは思わなかった。伯母にはずっと「婿殿の文に返事をなさい」とせっつかれていたのに、のらりくらりとかわしていた。おそらくは双方が痺れを切らしたのだろう。


――あの人悪役キャラなのよって、周りに言っても信じてもらえないのが転生者のつらいところだわ。


 すずめは、ううと手ぬぐいを噛みしめたいところである。


 「今日はもうお引き取りください」と無残を拒むのも、相手は帝の命により夫になった人なのだからあまりに不自然なため、すずめは仕方なく部屋へ通した。


 どうやって穏便にすずめから関心をなくしてもらうか、すずめは頭の中で考えを巡らせるものの、さっぱり思い浮かばない。


 外の強い雨のように、冷汗が背中を次から次へと流れているなか、二人の間に置かれた夜光珠やこうじゅが、いつも通り目に優しく光っている。


 夜光珠とは、蹴鞠の鞠ぐらいの大きさの照明器具だ。


 海の妖魔の目玉か何かからできているとても貴重なもので、お金持ちの商人や有力貴族の屋敷か雲帝のおわす内裏で、松明とともに毎晩使われている。


 この海の秘宝は、実のところ賀茂無残からの結納の品である。蝋燭の炎とちがい、触れると明るさを調整できるから、すずめは夜の読書につい重宝してしまっていた。


「私が贈ったものを使って下さっていて嬉しいですよ」


焚き火の火のように暖かな光は、膳の前に座った来訪者の姿をくもりなく照らしている。


 賀茂無残は、上背はそうないものの、秀でた額にすっと通った鼻梁は男らしく、垂れた丸い瞳からは色気がしたたり落ちている。さりとてだらしなさは微塵もなく、気品にあふれた美丈夫だ。


 彼の正体を極悪人だと知らなければ、都で今をときめく評判の貴公子だと言われてもなんら差し障りない。


けれど、すずめの最推しである太陽のように光り輝くあの人とは比べようもない。

 

――あら、何かが足りないような。気のせいかしら。


 すずめは賀茂無残の姿にひっかかりを覚えたが、すぐには思い浮かばなかった。かといって本人に「何か足りませんか?」なんて確かめようもなかった。


 すずめは、自分の盃へお酒を注いだ。夫の無残へなんの声かけもせずに、両手に盃を持ち一気にあおる。


うわばみだった父宮とちがい、彼女は酒にそんなに強くはないが、しらふで彼に話しかけることなどとてもできそうにない。


 無残の強い視線を感じる。おそらく、いくらやんごとない生まれとはいえ、夫に断りもなく先に飲むなんて無礼であるとでも思っているのだろう。


 今宵の酒は、久しぶりに会う従姉妹のお気に入りの銘柄をあらかじめ取り寄せ、料理はすずめがわざわざ朝に市場へ行って材料を買い、御殿の厨房を借りてこしらえたものだ。


――せっかく久しぶりに会う蜜麻呂をもてなそうと思っていたのに。来るのが悪役陰陽師だってわかっていたら、お酢になりかけのお酒とトカゲの姿焼きにしていたわ。


「今宵はこのように無礼講といきましょう。たいしたものはありませんが、どうぞ遠慮なくお酒も食事もお召し上がりください」


 すずめは、笑顔を無理やり張り付け、つとめて明るい声で言った。心のおびえを彼に気取られないようにする。


 彼の思惑に気付いていると、もし当の本人に知られてしまったら、きっと妖魔か鬼の餌にされるにちがいない。


「無礼講ならば、無残とどうぞ気軽に呼び捨てください。私は今でこそ主上から氏を賜りましたが、元は氏なしの下賤の生まれ。宮様、あなたは、生まれながらにしてやんごとなき身分なのですから」


 無残の言う通り、すずめは雲野宮くもののみやという宮号を持っている。宮号を持つことは、この八雲国において、その君主である雲帝の一族に属することを意味している。けれど雲野宮の家は一族の末端のさらに末席だったため、父ともどもすっかり皇族内では忘れ去られた存在だった。


 父宮は人柄が良く楽にも秀でていたが、金銭感覚は破綻している人だった。なにせたまに収入をえても、衣食にではなく書籍にばかりあてていたのだ。


 父の姉が裕福な貴族と結婚してくれたおかげで、その援助で親子はどうにか糊口をしのいでいた。すずめは他の高貴な姫君と違って、自分で薪を割るなどして料理はじめ家事をやりくりしていた。


 すずめの家が、下人が複数いるぐらい裕福だったら、あるいはすずめにとびぬけて何らかの才能があったら、男女問わず国中の秀才が集まる鸞鳳院らんほういんという学校へ入学しただろうがそうもいかなかった。

 

 当時の鸞鳳院には、最推しのあの人がいるからぜひとも入学してみたかった。風の噂ですずめとは二歳差だと聞いていたのである。入学すれば遠目ぐらいなら垣間見れるチャンスに恵まれると思ったのだ。


 しかし、無念なるかな、すずめは入学試験に挑戦したもののあっけなく落第してしまったのである。


 これが本当の乙女ゲームだったら、試験に受かるまで何度もリセットできるし、賀茂無残と結婚を回避するルートを選び直せるが、前世でも現世でも自分の人生だけは心の思うままにリセットはできない。


「では、無残殿とお呼びします。わたしに身分があるといっても、年上の方を呼び捨てにするのはさすがに気が引けますゆえ」


 あとで、あのとき呼び捨てにされた、とふとした拍子に難癖をつけられ、彼の操る式神や手下の妖魔に捻り殺されてもかなわない。


 賀茂無残はゲーム中、狂暴で強力な式神を三体も従えていた。それらを使役して、ささいなことで彼を激昂させたとある貴族を一族郎党皆殺しにしたはずだ。この陰陽師は、そんな道徳心のかけらもない残虐な心の持ち主なのだ。


「はい、かまいません。では私も妻殿とお呼びしてもよろしいですか?」


 無残はにこっと笑った。そうすると垂れたまなじりがさらに下がる。


 その丸い瞳の色は、狩衣の色と同じ漆黒だ。しっとり濡れていてまるで子犬の瞳のようだ。今にも飼い主に甘えてじゃれつきたそうにしている。


 すずめはきゅんと胸が高鳴ってしまった。顔がいい男が嫌いな女子なんていない。


 伯母によれば、無残は秋生まれですずめの二つ年上だ。その彼がまるで十代半ばの少年のように屈託なく微笑んでいる。


 すずめに直に会えて、心から嬉しくてたまらない、とあえて言葉にしなくてもすずめの胸に伝わってきた。彼女をみつめてくる視線にも、色の帯びた熱がこもっている。前世でも現世でも誰かにこんなに期待や憧れを込めた瞳でみつめられたことはない。


 彼のすずめにみせる心に、いつわりやまやかしの影は少しも感じられない。火封じの巫女候補の女房を籠絡する演技にしては、あまりに手が込んでいる。


 目の前にいる男があまたのむこの人をむごたらしく殺め、この都を破滅に導こうとしている極悪人にはとてもみえなかった。


みるからに愛嬌のある彼がもし人の悪さを発揮するなら、せいぜい貴族がお互いに呪術合戦して破滅していく姿を広げた扇子の奥でうっそり笑っているぐらいだろう。


――ひょっとして、別人かしら。そうだ、ゲーム内の賀茂無残はたしか眼帯をしていたはず! 何かひっかかると思ったら、それだったのね。


ゲームのスチルや公式ガイドブックの設定資料では、賀茂無残は右目に黒い眼帯をしていたはずだ。


 彼のキャラクターデザインは、カラスの羽根のような漆黒の狩衣に身を包み、全身から禍々しい雰囲気を漂わせ、いかにも悪役といった風貌だった。あの無残も目の前にいる無残もどちらも同じ姿かたちなのだが、今すずめの前にいる人物はいかにも人がよさそうで愛嬌や茶目っ気があるのだ。


――この人は、悪役陰陽師と名前と姿かたちがそっくりなだけで、本当はわたしのようなモブかもしれない。


 すずめは、一縷の望みに賭けてみることにした。


「無残殿」


「何でしょうか」


 呼びかければ、無残は前に少し身を乗り出した。


 近づかないでほしい、とすずめは無意識に少し後ずさる。


「あの、お顔がそっくりなご親戚なんていらっしゃいますか? 名前も同じで、右目に眼帯をなさっている方です」


 すると、無残はまるで時が止まったように固まった。突然何を言っているんだろう、この女は? と戸惑っているかのようだ。


 ひょっとしたら彼の機嫌を損ねてしまったかもしれない。それはとてもまずい。命の危機である。すずめはすぐに非礼をわびた。


「変な質問をしてしまいましたね。ごめんなさい」


「いいえ、変だとは思っておりませんよ。少年の頃、右目に怪我を負い、しばらく見えませんでしたが、とある優しい女の子に呪いで治してもらったのです。どうしてそれをご存知なのか、と驚いたのですよ」


「あら、そうだったのですね。いえ、なんとなくそんな気がしただけです、ほほほ」


すずめは、ごまかすように苦笑した。きっと頬はまたしてもひきつっている。


まちがいない、彼こそは正真正銘の悪役陰陽師こと賀茂無残だ。


 前世でプレイしていたときより設定が少し変わってしまっているようだが、おそらく、そのときは雲野宮すずめというモブキャラも存在していなかっただろうから、現代日本からこの世界に転生して多少の変更はあるのだろう。


――わたしはこの世界では単なるモブで、今世ではあの人を遠くから拝んで平穏に暮らしていたかっただけなのに。


と、すずめはわが身にふりかかった不幸を心の中で大いに嘆いた。できることなら、今にも畳の上に顔を伏せておいおい泣きだしたいくらいである。


はたしてすずめはこの悪役陰陽師を怒らせず、かといって関係を深めもせず、今宵をうまく生き延びられるだろうか。


雷の音が轟き、雨はいまだ地面をしたたかに打ち続けている。それは、夜が明けるまで続いた。

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