もわもわと、吸い尽くす

私には付き合って三年が経つ婚約者がいる。登録先の派遣会社の社員である彼は、真面目な性格で愚痴や不満一つこぼさない。私のような派遣アルバイトにも柔らかな物腰で、かつ下心をみせずに優しく接してくれる男性は少なかった。話をするときに、耳をその長い指で触ってしまう癖も魅力的にみえた。

彼ほど「私は愛されている」と感じさせてくれた恋人はいない。付き合い始めてからも、私を不安にさせるような言動や駆け引きを一切しない彼は私にとって新鮮だった。


DMを送信して15分ほど経った。カレからの返信はすぐ来るだろう、カレは会おうという私の提案を断らないだろうという確信めいたものが私にはあった。扇風機の音がやけに大きく聞こえて、時間が間延びしているように感じる。

「おー!めっちゃ久しぶりじゃん。」

カレからの返信がきて何通かやり取りをして30分後には会う約束をしていた。カレはこういう人なのだ、うらおもてがなく、あっけらかんとしていて、来る者を拒まない、それでいてそういう感じを隠そうとしない、気ままなひと。


待ち合わせ場所、上野の日比谷線改札口に約束より20分早く着いた私はマルイ一階にある雑貨屋に向かい、じっとり汗をかいた体を冷やしつつ欲しくもないアクセサリーや化粧品を手に取り眺め、時間をつぶした。

約束の時刻に現れた五年ぶりに会うカレは、黒ティーシャツにバギージーンズ、短く刈られた髪の毛にキャップがよく似合っていた。昔抱いていた印象とさほど変わらなかったが、カレの身に纏う香水が変わっていて自分勝手に寂しさを感じる。


アメ横から一本外れたところにあるてきとうな居酒屋に入った。

「お前、ビールでいいよな。」

カレが言いながら、カレの食べたい物を適当に選びモバイルオーダーで注文する。2,3か月前にもこうして一緒に呑みに行ったようなノリで話が弾む。

くすぐったいような笑いや腹からでるような笑いが起こり、お酒も進む。店員がラストオーダーを聞きに来るまで、会ってから三時間以上話し続けていることに、気が付かなかった。


明日の夜は三年記念日を祝うために、彼がレストランを予約してくれている。どんな話をして、彼がどんな表情を浮かべるのか、手に取る様にわかる。私の脳は彼が望むであろう返答や表情を半自動的にプログラミングして、私の体に指令を送る。彼は私にたくさんの質問を投げかけてくる、

「何が飲みたい?僕も同じのにする。」

「今日は一日なにしてた?」

「ねぇ、魚と肉のメイン、どっちがいいかな?」

「新婚旅行行くってなったらさ、やっぱり沖縄とか行きたい?どこがいいかなぁ。」

「お代わり、なんか飲む?今日はもうやめとく?」

「デザート、お店で食べちゃおうか。それともコンビニのアイスがいい?」

「明日は休みって言ってたよね。うち泊まってく?この前、一緒にみたドラマの続き一緒に見たくない?」」

いつからか、彼の耳を触る癖を見るたびに小さな苛立ちを感じるようになっていた。


居酒屋をでると、もわっとした熱気が体にまとわりついてきて思わず「あっつ。」と声に出す。どちらから言うともなく上野恩賜公園の方に歩みを進めながら酔っぱらって燥いでいる初々しい学生らしきグループと何度もすれ違う。彼らのことを目で追いながらもう私はあの頃みたいに騒いだり、うきうきしたり、泣いたり、できないんだと思うと、排気ガスや若者の熱気でムシムシしている外気と、相反するように心のところがすぅーっと冷たくなってくる。

横で歩いているカレの方に顔を向けると、彼も気が付いて、目が合い、彼が私の手を握る。半開きになっていた私の手のひらは抗うことなく彼の分厚くてかたい手を受け入れて、指を絡ませて歩き続ける。


妙に薄っぺらいぴかぴかしているビルに入った私たちは、空室の中で一番安い部屋をタッチスクリーンで選択する。カードキーで部屋のドアを開けると、色々な匂いをさらに強い芳香剤でかき消した匂いとそれでも消えないエアコンのカビの匂いが鼻をつく。

カレがソファに腰を下ろしたので私も隣に座ると、カレが右腿に触れてくる。カレの首に腕をまわし、カレの舌の懐かしい感触に浸っていると、どこから来たのか、それともずっとこの部屋に閉じ込められていたのか、お腹をパンパンに膨らませた一匹の蚊が私の手の甲にとまる。払うこともせず、潰すこともせず、そのまま私は目を瞑った。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ねぇ、元気にしてた? ちゃみ @lunaticriver

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ