微睡みの世界で、まやかしの幸せを

色葉充音

Part 1 方波見陽翠の『 』

Prologue

00 悪夢

 カッターナイフが差し出された。目の前のお父さんとお母さんは、その瞳に喜色を浮かべている。受け取らないわけがないわよね、どこからかそんな声が聞こえた。


 小さい頃、その後にやらなければいけないことが怖くて、一度だけ受け取らなかったことがある。そうしたら途端に怒気を纏ったお母さんから思い切り頬を叩かれた。ついでに「わざわざ生かしてあげてるんだから役にくらい立ちなさいよ!」って言葉が降ってきた。


 今ならよく分かる。あの時の私は馬鹿だったんだ。異能者いのうしゃの私は、お父さんとお母さんの下に生まれてきてはいけなかったから。それでも生かしてくれている二人に、私は感謝しないといけないから。それに、ちゃんとやった時は、頭を撫でて「よくやった」って褒めてくれるしね。


 だから、私はそのカッターナイフを受け取る。


「今日は2つだ」

「よろしくね?」

「は、い。お父さん、お母さん……」


 手が震えているのも、声が震えているのもいつものことで、おかしなことは何一つない。お父さんとお母さんが何も言わないっていうことはそういうことのはずだ。


 下手くそな笑みを浮かべて、私はカチ、カチ、カチとカッターナイフの刃を出した。この数秒が途方もなく長い時間に感じるのは何でだろう。……思考に沈んでしまったら怒られるから、素早く切り替えて手を動かす。


 ぐっと息を呑んで、傷一つない左腕に鋭利な部分を押し当てた。


 つぷ、と出てきた生暖かい血のすぐ後、小さな痛みを感じる。何百回と繰り返してきたはずなのに、こればかりは一向に慣れる気配がしない。慣れるどころか、むしろ、このまま気を失って逃げてしまいたい。まあ、そんなことしても、お父さんとお母さんに怒られるだけだ。


陽翠ひすい?」


 さっきよりも1段低くなった声でお父さんに名前を呼ばれた。びくりと体が揺れたのはきっと……そう、突然名前を呼ばれてびっくりしただけ。


 そんな傷のそんな痛みでは足りないだろう。暗に言われるその言葉に、私は行動で答える。作ったばかりの傷を起点として、カッターナイフを思い切り引いた。


「……っぅ」


 肌が切り裂かれる。どくどくと血が溢れる。じんじんと痛みが襲ってくる。

 この後のことを考えてか、楽しそうに笑ってるお父さんとお母さんには申し訳ないけど、つい表情を歪ませてしまった。


 じっとりと嫌な汗をかきながら、その傷の横にまた別の傷を付ける。上がってきた胃液をぐっと飲み込んで、2つの赤い線をなぞるようにしてカッターナイフを動かした。

 何もないところに傷を付けるより数倍は痛い。「切った」って感じがして気持ち悪い。叫び声とまた上がってきた酸っぱいものをこっそりと飲み込んだ。


「そろそろいいんじゃない?」


 あっさりと言って述べたお母さんに、私は「分かりました」と小さく答える。


 息をするような感覚で、二人が望む奇跡を願う。瞳に熱が集まってくるのが合図だ。きっと今、私の瞳は若葉色に光っている。右の手の平を開くと、その上に淡く光る丸い石が現れた。


 直径1センチメートルほどの丸い石は、私の髪と同じ若葉色。このただ光ってるだけに見える石は、科学では解明できない奇跡を起こす賢者の石だ。不治の病を治したり、その辺の石ころを宝石に変えたり、水の中でも呼吸ができたり、はたまた誰かの記憶を書き換えたり……。

 私の異能を込めたこれはとんでもなく高値で売れるらしい。


 お父さんとお母さんに差し出すと、いつものように機嫌良く「よくやった」って褒めてもらえた。


「……ありがとう、ございます」


 たぶん、この言葉は二人に届いていない。この部屋にはもう私だけしかいないから。


 傷つけたはずの左腕を見てみると、血の流れた痕以外何も残っていなかった。確かに傷つけた。確かに痛かった。でもその証拠は何も残らない。


 痛みと引き換えに異能を使えば、体についた傷は治ってしまう。痛いのはちゃんと覚えてる。でも何もなかったことになる。


 ——……誰か、助けてくれないかなぁ。


 この状況がおかしいことも、お父さんとお母さんが普通じゃないことも、私が壊れかけていることも……。本当は、全部全部分かっている。

 分かっているけど、今の私には何かを変える力がない。


 ——……誰か、助けてよ。お願いだから。

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