第7話:順序、ゆっくり丁寧に。
「う……あたま、いた……」
ズキッと重い頭痛と、わずかに残る酒のにおい。それと、もうひとつ──
あたたかくて、柔らかい、見知らぬ布団のにおい。
(……あ、そっか。私……)
昨日の記憶がじわりと蘇る。ベッド。布団。あの声。あの距離感。
思わず顔を両手で覆いかけた、その瞬間。
「澪ちゃ〜ん、起きてる〜? はよ起きんと、会社、遅刻するよ〜?」
台所から、なんともお気楽そうな声が届く。
振り向くと、梨羽さんがフライパンの前でターナー片手に笑ってた。
「お、おはようございます……」
「おはよ〜、って眠そうやん。頭痛い? てか水いる? 冷えてるやつ〜」
そのテンションが、まるで昨夜なんて何もなかったみたいで。
(え、え……? え、覚えてないの? いや、そんなこと……)
「ハムエッグくらいしかないけど、食べる? ごはん炊いてないから、パンでええ?」
「あ、はい……いただきます……」
カランとテーブルにワンプレート置かれる。
ハムの縁がちょっと焦げてて。卵は半熟。
(……なんか、意外とちゃんとしてるんだ、この人)
なんて思っていたら。
「澪ちゃん、いったん家帰るやろ? 」
「あ、はい……服、着替え……」
「パンツ、たぶん……メチャクチャやんな?」
「なっ!? な、なに言ってるんですか!ち、ちが、服です服!!!」
思わず声が裏返って。梨羽さんはニヤッと笑う。
「え〜〜?ほんまにぃ〜? 澪ちゃん、夜中とか……だいぶ、かわいかったけど?」
「そ、それはっ……って、え? 覚えて、るんですか……?」
「当たり前やん? ウチ、そんなん忘れるほど酔ってへんよ?」
は、って口が開いた。
じゃあ、さっきからのこの余裕は、何……?なんなの??
これが梨羽さんの……ふつう?!
「……っ、その、わたし……なんか、変なこと……」
「変やったよ〜。“いや”って言ってると思ったら、“もっと〜”って顔しとるし?」
「や、やめてください〜〜〜っっっ!!」
「ふふ、でも途中でちゃんとやめたよ? ウチ、そういうの、しっかりしとるから」
「いや、やめたっていうか、私は一回終わったっていうか……」
食べるペースもままならず、パンをちぎる私の指先が震えてる。
(聞きたい。でも、聞けない)
(昨日のこと、どう思ってるんですか、って)
そんな勇気、あるわけない。
別に何も?って言われたら、なんて。
そう思っていたら──
「なぁ、澪ちゃん。昨日のこと、嫌やった?」
梨羽さんの方から、爆弾が投げ込まれた。
「昨日の……って、その、あの……触って、いただいたこと、と……いいますか……」
言いよどんでると、悪びれる様子もなく、梨羽さんは続ける。
「なに?!その言い方! てか、それ以外なにもないやんな。夜中に澪ちゃん襲った事~」
この人は、なんて、あけすけに、言うんだろう……
「……いや、その……嫌とか、そういうんじゃなくて……」
「よ、よかったぁ〜、ウチ嫌われてたらどないしよ〜思っとったわ〜」
いや、そんな繊細な人がすることか?!ってツッコもうかと思ったけど、
「ただ、遊ばれてるだけ、かなって、思って……」
私はそう呟いた。
すっ、と梨羽さんの目から表情が消える。
(──え?)
次の瞬間、射抜くような強い眼差しが、私に突き刺さった。
「……澪ちゃん。さすがにウチ、遊びだけであそこまではせぇへんよ?」
(──え?)
(遊びじゃ、ない……?)
「で、でも……“誰でもいく”って……」
「はぁ? それ、どこ切り取って聞いたん〜?」
ちょっと拗ねたように眉をしかめて、梨羽さんが肩をすくめる。
「気になった人には誰でもいくよ?って言っただけやん。
“気になった”のがポイントでしょ〜〜♡」
「……え、いや、言ってました!昨日!絶対!!」
「も〜、経験ない澪ちゃんにはちょっとむずかったか〜! ごめんってば♡」
「てか、いや、き……気になったって……そ、それは……え?」
「んふふ、おしえな〜〜い♡」
にやっと笑った梨羽さんに、翻弄される。
(遊びじゃないし……気になった……?)
(私……?私のこと言ってんの……??)
私の鼓動が、さっきからずっと、うるさい。
◇◆◇◆◇
気まずい沈黙のまま、梨羽さんの部屋を出て、駅へと向かう。
……いや、沈黙なのは私だけか。
いつもより早い時間。
彼女は、会社へ。
私は、ひとまずおうちに。
「ん〜、ちょっと風冷たいなぁ〜」
梨羽さんが、当たり前みたいに私の腕に組み付きながら歩いていく。
……なんで?
彼女と繋がれた左腕が、やけどみたいに熱い。
並んで歩いているのに、心の距離だけが全然わからない。
なにからなにまでが本当なのか、まだ全然理解できてなくて。
私は、さっきから足元ばかり見ていた。
「なぁ〜、澪ちゃん」
ふいに名前を呼ばれるけど、まだ下を向いたまま。
「昨日さ。なんでウチには、手ぇ出さんかったん?」
歩きながら、今日の晩ごはんのメニューでも考えるみたいに、梨羽さんは呟いて。
心臓のあたりが、きゅっと冷たくなる。
「……え、えっ、ちょ、外ですよ梨羽さん……!」
たまらず視線をあげたら、梨羽さんはまっすぐこっちを見てた。
笑ってるのに、どこか真剣で。
「いや、ふつ〜、あそこまできたらちょっとは……って思わん?」
「お、思いませんよ!?そもそもふつうはこうならないです!!」
「うそや〜。あんな誘われたらさ~、ふつ〜は触らん? てか、触られて拒まん時点で、承諾してるって思うやん?」
「な、な……なにその界隈の常識!? どこ基準ですかそれ!!」
「え〜ウチの世界基準♡」
軽く笑う梨羽さんの顔、まともに見れなくなって、私はまた視線を地面に戻した。
「……あの……私、その、ちゃんとした順序じゃないと、よく、そういうの、わからなくて」
「順序ぉ? 」
分からないような顔して梨羽さんが口を尖らせた。
「……あ、なるほどね。じゃあ順序ちゃんとしてから触ってくれってこと?」
「そ、それはっ……っ、だから、その……うぅ〜……!」
顔、熱い。今絶対、ひどい顔してる。
「も~、顔真っ赤やん♡ かわいいなぁ、澪ちゃんは」
でも、梨羽さんの声は、昨日までのからかう響きとは違って。
「……本気だったら、ちゃんと……してもええってこと?」
どこか、本当に慈しむような声に聞こえた。
真剣な眼差しに、息が詰まる。
(……本気)
その言葉が、ずっと聞きたかったはずなのに。
いざ目の前に差し出されると、受け取るのが怖くて、喉がひゅっと鳴った。
信じたい。でも、傷つくのは、嫌だ。
怖さと恥ずかしさが入り混じり、唇が震える。
「……も、物事には、順序、順序がっ……!」
ほとんど悲鳴みたいに、それだけを繰り返す私に、梨羽さんは、
「わかった」
静かな声だった。
呆れたのでも、からかうのでもなく、ただ、まっすぐに。
「じゃあ順序、ゆ〜っくり丁寧に積んでこうな?」
(──あ)
この人は、笑わなかった。
めんどくさいって突き放さずに、「わかった」って、受け止めてくれた。
私に合わせて、くれるんだ。
めちゃくちゃで、自由に見えたこの人が、私のいる場所まで、降りてきてくれるんだ。
なんで、どこで?
こんな私にそうなったんだろう。
でも、今ここで、この手を、離したら。
きっと、もう二度と、この人の隣にはいられない。
その予感だけが、やけに確かなものに思えた。
怖かった。
でも、それ以上に──
◇◆◇◆◇
駅のアナウンスが、ちょうど響いた。
もうすぐ、電車がくる。
この時間が、終わってしまう。
勇気を出して、顔を上げる。
彼女の、まっすぐな目を見て。
「……あの」
か細くて、震えてて、自分でも驚くくらい、情けない声が出た。
「……よ、よろしく、お願い、します」
そっと、梨羽さんの左手に、右手を添える。
「任せといて」
梨羽さんがふわりと笑った。
「あ、時間ヤバない? 澪ちゃん、ダッシュ〜!」
「ま、待ってくださいよっ!!こっちはまだ、つ、疲れてんですから〜〜!」
駅の階段、二人で駆け上がった。
その背中の距離は、昨日より少しだけ近かった、と思う。
* * * * *
次回、最終話です。
* * * * *
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