第6話:澪ちゃん──入れて、いい?
梨羽さんの手が、私の肌の上を、迷いなく、慣れた手付きで滑っていく。
首の横から鎖骨のくぼみ、肩のラインへ──指の腹がそっと、すくうように撫でた。
「澪ちゃん……思ってたより、やらかいんやね」
耳元で囁かれる声に、体の奥がびくりと揺れる。
「っ、や……」
小さく抗う声は、布団に吸い込まれていった。
「ほんまにやめてほしかったら、もっと強く言わなあかんよ?」
からかうような、でも試すような声。
(……わからない)
(この人の言ってることも、してることも、今のこの状況も、全部)
その手が、今度は肩口から内側へ、鎖骨の下を撫でていく。
熱い。触れてる場所だけ、溶けそうに熱い。
「……澪ちゃん、ずっと欲しかったん?」
「欲し……なんて……っ」
指が、胸のすぐ脇を通る。
触れそうで触れない──それだけで、息が詰まる。
「怖いん?……うちのこと、こわい?」
「……ちがっ……わ……わかんない、だけ、で……」
「なら、わからないままでええよ」
まるで、迷子の子供を諭すみたいに、優しく。
その言葉といっしょに、梨羽さんは私を抱き枕にするみたいに体勢を変える。
そっと手のひらが、胸に重なった。
ドクドク暴れる鼓動がそのまま腕に流れ込む。
秘密を全部叩きつけてるみたいに。
なんで、こんな。
けど──そのあたたかさに、すこしだけ縋るしかなかった。
指先が、へその少し下、柔らかくくびれたラインをなぞる。
淡く、ゆっくりと。
「澪ちゃん、いま、ピクってしたの、わかる?」
耳元で、面白がっているのがありありとわかる声がする。
抗議したいのに、喉がひきつって、細い息しか漏れない。
その指は時々、子猫をあやすみたいに、くるりと小さな弧を描く。
たったそれだけの、意地の悪い戯れで、全身が波打った。
「っ、う、ん、……そ、そこは……っ」
そのまま、手のひらが、私の太ももの内側へ。
肌の温度が違う。そこだけ、火照っているみたい。
「……澪ちゃん」
吐息みたいな声で、名前を呼ばれる。
「……いい?」
その、たった一言が、引き金だった。
自分で触れたことはある。何度もある。
でも、こんなふうに、誰かに。
慈しむみたいに、でも逃げ道は全部ふさいで、
優しい声で、許可を乞われるなんて──。
シーツを握りしめた指先に、ぎゅっと力が入る。
それが、私の、たったひとつの答えだった。
◇◆◇◆◇
ほんの指先が、触れた。
それだけで、思考の全部が、吸い寄せられていく。
「……あったかいなぁ、澪ちゃん」
耳元で囁く声は、褒めるみたいに柔らかい。
返事をしようとしたのに、
喉が詰まって、声が出ない。
頭の中が、ぐらぐらと揺れる。
(だ、れでも……? 誰にでも、こんな……?)
その問いかけは、もう、意味をなさなくて。
でも身体は、まっすぐに熱へ引きずられていく。
「梨羽、さん……」
息が浅くなる。
自分の声すら、知らない響きがした。
そして──
私たちは言葉のない深い場所へ、静かに沈んでいった。
指先はただ触れるだけじゃなくて、ゆっくり円を描いたのち、
いちばん知っているはずの場所を、知らない角度から、こつ、と叩く。
掠れた吐息が、喉の奥で跳ねる。
自分のものじゃないみたいな身体が、
熱を抱えて、かすかに揺れていた。
布団の中、肌と肌が、離れられない距離で重なってる。
時計の音だけが、世界の境界線だったはずなのに。
彼女の指が、私の身体に、新しいリズムを刻み込む。
メトロノームみたいに正確なリズムが、直接響いて、だんだんと、私を私じゃなくしていく。
気づけば、世界から音が消えて。
代わりに、この小さな旋律だけが、私のすべてになっていた。
腰が、びく、と先に答える。
それを待っていたかのように、梨羽さんのもう片方の手が、私の腰をそっと掴んで、逃さないように固定した。
「……梨羽、さ……っ、ま、まって……」
「ん? ほんとにやめる? 大丈夫〜?」
頷けなくて、黙ったまま目を閉じる。
拍が、歪む。
視界が白く、点滅する。
背中が、弓なりに反った。
指先が、いちばん深くで、最後の震えを拾った瞬間。
ぷつり、って。
私の中の何かが、切れた。
◇◆◇◆◇
私が次の呼吸を拾えるようになった時、
彼女の手は緩んでたけど、まだ、そのままだった。
「なぁ、澪ちゃん」
気づくと耳元で、柔らかくて甘い声が落ちる。
「澪ちゃんは……なんもしたくないん?」
「……ウチのこと、欲しく、ないん?」
その声は、からかうようで、でも、どこか純粋な疑問のようにも聞こえた。
息を飲む。喉の奥に、何かが引っかかる。
胸の奥で、警報みたいに何かが鳴ってる。
(……嫌じゃ、なかった)
(ううん、むしろ……)
でも。
……この人、きっと酔ってる。からかってるだけなんだ。
私、こういうの、初めてで……どうしたらいいのか、全然、わからないし。
そもそも、付き合ってもないのに、しちゃったら……私、明日からどんな顔すればいいの?
……しちゃうって、何を??
ぐるぐると、できない理由ばかりが頭を巡る。
このまま流されて、本気になって、ポイって捨てられたら。
想像しただけで、心臓が凍りそうだった。
怖い。信じきれない。
何がほんとうなのか、私には理解出来なかった。
「よ、酔いすぎ、です……よ。梨羽さん、ね、寝ましょ……う、ね……?」
一番言いたくない言葉が、唇から漏れた。
選択肢を選べない私は、選ぶってことから、逃げた。
──沈黙。
空気が一瞬で、凍る。
梨羽さんの目が、じっと私を射抜く。
でも、さっきまでの、からかうような光じゃなくて。
もっと、真剣で、吸い込まれそうな──初めて見る、大人の眼差し。
(……きれい)
パニックなはずの頭の、どこか冷静な部分が、そう呟いた。
「澪ちゃん、自分の顔、わかってる?」
耳元で、絆されるように声がする。
「……そんな顔して、説得力ないよ?」
指先が、ひゅるりと名残惜しそうに、私の肌を離れていく。
くすっ、と漏れた笑い声は、呆れたようでもあり、慈しむようでもあり──
今まで聞いたことのない、不思議な響きをしていた。
「……ふ〜ん。ほんま、いくじなしさんやなぁ、澪ちゃんは」
その言葉の意味がわからなくて、固まっていると。
ふわり、と梨羽さんの顔が近づいてきて──
私の頬に、リップ音みたいな軽い音がした。
「……え?」
何が起きたのか、理解できない。
触れられた頬が、そこだけ火傷したみたいに熱い。
目の前には、いたずらが成功した子供みたいに笑う、梨羽さんの顔。
「おやすみ〜」
ポン、と頭を軽く撫でられて。
彼女はあっさりと背を向け、隣の布団へふいと身を投げてしまった。
部屋には、静寂と、私の心臓の音だけが残される。
頬に触れる。軽い音を立てた場所。
指先でなぞるだけで、梨羽さんの唇の感触が蘇ってきて、顔がまた熱くなる。
(……なに、なんだったの?)
でも、思い出す。
私の身体を、私以上に知っていた、あの手つき。
「いくじなしさんやなぁ」
あの声、呆れてたようで、どこか甘くて。
わからない。梨羽さんのことが、何も。
思考が迷子になる。
けれど、答えはすぐそこにあった。
梨羽さんのことじゃない。私の、答え。
自分の布団を、そっとめくる。
暗がりの中、視線を落とした先。
そこには、熱を持ってぐちゃぐちゃになった、言い訳のしようもない現実が広がっていた。
(……梨羽さんが、その、上手だったから……だし)
(そう。流されて――それだけのはず)
そう思い込もうとした。
……なのに、胸の奥で何かが暴れてる。
皮膚の下をこじ開けるように、心臓が痛い。
――それだけ?
本当に?
じゃあ、この疼きはなに?
どうして「もっと知りたい」なんて言葉が漏れそうになるの?
これ、が。
わたしの――ほんとう?
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