第1話

 第一話『目覚めと空腹』

 

 冷たい。


 何かが、背中に触れている。硬いガラスのような、でもぬるい水の膜に包まれているような、奇妙な感覚。

 瞼の裏がうっすらと明るい。光が差している。……朝、だろうか?


 意識が、ゆっくりと浮かんでくる。夢の底から、息を吸うように。


 目を開けると、そこには透明な壁があった。視界を覆うのは、半球状のガラス。その内側に、私はいた。

 体が動かない。四肢は柔らかい何かで固定され、ぬるま湯のような液体の中で浮かされている。


(ここ……どこ?)


 カプセル。いや、“培養槽”と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。

 無機質な青白い照明が、室内を無感情に照らしていた。天井は高く、剥き出しの配管が這い、壁はひび割れて、床には金属片や壊れた機材が散乱している。


 ——まるで、事故に遭った研究施設のようだった。


 目の前のパネルに亀裂が入っている。

 小さな“ビーッ”という電子音が断続的に鳴っている。モニターはすべて黒く、通電しているのかどうかもわからない。


 静寂。

 だれもいない。誰の気配もない。


「……あ、あれ……」


 自分の声がくぐもって響く。喉が乾いているのに、息は苦しくない。

 数秒遅れて、カプセルの蓋が「プシィィィ……」と音を立てて開いた。液体が排出され、下から冷たい空気が吹き上がってきた。


 力が入らない。腕が、足が、重い。

 なんとか身体を起こすと、自分の裸が保護布のようなものに包まれていることに気づく。皮膚がぬるりと濡れていて気持ちが悪い。


(なんで、こんなとこに……)


 喉の奥で言葉がつっかえた。


 思い出そうとした——が、霧がかかったように記憶が曖昧だった。


 いや、“曖昧”というより、“直前まで何をしていたかが完全に抜けている”。


 名前。私は……。


 

「……リオナ。竜ヶ峰……リオナ」


 

 自分の声に、奇妙な違和感を覚える。

 感情が伴っていない。まるで、機械が発声したような。


 だめだ、落ち着け。私は、確か、学校に……行って、いて……

 頭の中で何かがはじけた。視界が揺れる。






  ——朝だった。


 リオナの目覚めは、いつも通りだった。

 目覚ましが鳴る五分前に自然と目が覚め、寝ぼけた頭を抱えながら布団を抜け出す。

 洗面所で髪を整え、制服に着替え、リビングへ。


「あら、おはようリオナ。今日、英語の小テストでしょ? ちゃんと覚えてる?」


「……うん。たぶん」


 母の声。食卓には卵焼きと味噌汁と、ごはんの湯気。

 父はすでに出勤したらしく、テーブルの向かいは空席だった。


 弟が眠そうな顔でトーストをかじっている。

 テレビからは、どこかの街で発生した魔獣災害のニュースが流れていた。


『……魔法少女部隊による対応が行われ、午後八時には鎮圧されたとのことです——』


「またかー。最近、週に三回は見てる気がする」


「……最近、増えてるんだって。魔獣」


「やだなぁ……こっち来なきゃいいけど」


 そう呟いた弟の言葉が、やけに頭に残っていた。


 


 駅前で親友のユイと合流して、いつものようにくだらない話をして、昇降口で靴を履き替える。

 教室に入ると、担任の先生がいつもの調子で「はい席ついてー」と手を叩き、生徒たちがだらだらと席に着く。

 一時間目の数学は退屈で、黒板の文字が目に入らない。寝そうになって、ユイに肘でつつかれた。


 


 なんでもない日常。

 ——それは、唐突に終わりを告げる。


 


 ——警報が鳴り響く。


 


 耳をつんざくサイレン。教室の天井スピーカーから、緊急放送が流れた。


『全校生徒は教師の指示に従い、直ちに避難を開始してください。繰り返します——魔獣反応を確認——』


 机が揺れた。窓の外で、爆音が響いた。

 見上げた空が、真っ黒な瘴気に覆われていく。


 


 そして——それは、来た。


 


 体育館の屋根が、何かに喰い破られるように崩落した。

 校庭には異形の生物が蠢き、巨大な腕のような触手が地面を這っている。

 叫び声。ガラスの割れる音。教師の怒鳴り声と、生徒の悲鳴と、血飛沫の音が、全部混ざってぐちゃぐちゃになった。


 魔獣だ。

 こんな距離で見るのは、初めてだった。


 皮膚がただれており、眼球が全身に散らばっていた。牙のような突起が脈動し、舌のような何かが誰かを巻き上げ、噛み砕く。

 宙に浮かんだ生徒の片足が、ゴトン、と床に転がる。


「逃げろぉぉッ!!」


 崩れかけた階段を走る。

 すでに何人も、廊下に倒れていた。返り血、焦げた制服、ちぎれた腕。

 心臓が悲鳴を上げていた。頭が回らない。ただ、逃げなきゃ——


 そう思っていた、そのときだった。


「……う、うあ……っ……たす……け、て……」


 がれきの隙間に、小さな手が伸びていた。


「……ユイ……!?」


 見覚えのあるカーディガン。血まみれの制服。

 ユイが、倒れた本棚と崩れた壁の間に挟まれて動けなくなっていた。


「ちょ、ちょっと待って、今、今助けるから!」


 膝をついてがれきを掴む。震える手で、少しずつ退かす。

 腕に力が入らない。手のひらが擦れて血が滲む。でも、諦められるわけがなかった。


「リオ……な、だめ、にげ……て……」


「だめじゃない! あんた置いてけるわけないでしょっ!」


 


 その瞬間、視界の端が赤く染まった。


 


 空から、魔獣が降ってきた。


 


 魔法少女の攻撃に吹き飛ばされたのだろう。

 まるで彗星のように、燃え上がりながら落下してくる巨体。

 声を出す間もなく、それはリオナたちの頭上へと落ち——


 



 ——意識が、真っ白になった。

 





 思い出した。


 はっきりと——自分が死んだことを。


 リオナの意識は、研究施設の廃墟に戻っていた。

 膝をついたまま、息を整えることもできず、ただ呆然とそこに座り込む。


(私……死んだんだ)


 あの魔獣が落ちてきたときの、地響きのような衝撃。

 全身が潰れ、焼けるような痛み。

 脳がその瞬間を“記憶”したまま、意識は途切れた。


 でも今、私はこうして——生きている。

 指が動く。目が見える。声が、出せる。


「なんで……?」


 誰が、私をこんな場所に?

 何のために? 私は、誰かに“助けられた”のか?

 

 ガラス片のひとつを拾って、そっと自分の顔を映す。

 ぼやけた輪郭の中で、赤い瞳がじっとこちらを睨んでいた。


 


 ——赤?


 


「……私の目、黒だった……よね?」


 何かが、違う。


 その瞬間、胃の奥から、かつて感じたことのない“飢え”が全身を突き上げてきた。


 喉が焼けるように渇き、胸が締め付けられる。

 視界がぐらりと揺れ、思わず床に手をつく。金属の冷たさが、掌から伝わる。

 心臓が異常な速さで脈打っている。内臓が裏返るような不快感。全身の筋肉がぎちぎちと軋み、皮膚の下を何かが這っている感覚。


(た、たべたい……)


 何かを。

 渇いている。足りない。足りない。足りない。


 そして、ふと気づいた。


 この研究施設に、他の“人間の気配”は——一つも、なかった。


(何か……誰でも……)


 ——食べれば、満たされるのだろうか?


 その思考に至ったとき、自分の中の“人間だった何か”が、静かに悲鳴を上げた。

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