第2話

 第二話『飢餓と本能』


 空腹だった。

 内臓がぎゅうっと捻じれるように疼き、喉の奥が焼けるように渇いていた。

 リオナは腹を押さえながら、ゆっくりと足を進めていた。

 

 研究施設は崩れかけていた。壁の一部は崩落し、床には瓦礫と黒ずんだ血痕が散らばっている。

 天井からは無数のケーブルが垂れ下がり、蛍光灯の一部はちらついていた。

 それでも、彼女は前へ進んだ。何か食べられるものがあるかもしれない。


 やがて、ひとつの部屋に辿り着く。床に散乱した紙束。焦げ跡、汚れ、破れ。

 明らかに誰かの手によって意図的に破壊された気配がある。

 机の上にはバインダーの一部が残っており、かろうじて読める文字が目に入った。


 


 《融合試験記録:魔獣個体No.Ω89 - 非検体少女No.35》


 


 「非検体少女……?」


 さらにページをめくる。そこに、ひときわ鮮明に貼られた写真があった。


 自分だ。

 中学校の制服姿で、身分証のように無表情で撮られた——竜ヶ峰リオナの顔。


 


 《龍型魔獣残骸との融合実験 成功。覚醒兆候あり。精神安定不安定。》


 


 その先の文章は、破れて読めない。けれど、隣の紙にかろうじて残っていた一文が目に飛び込んできた。


 


 《魔力を補給しないと、人格維持に深刻な支障が……》

 《魔力補給手段:魔獣・魔法少女の捕食》


 


 「……うそ……」


 喉の奥が、ひくりと震えた。

 嫌悪と絶望と、そしてなぜか涎が溢れそうになるような“欲求”が胸の奥でうごめいた。


 


 ——魔力を食べなきゃ、生きられない。


 


 その言葉が脳裏に浮かび、リオナは慌てて資料を閉じた。

 息が荒い。脈拍が速い。指先が冷えていく。


 こんなところにいたくない。ここから出ないと。


 カプセル室を後にし、リオナは施設内の探索を再開した。


 廊下を進むうち、異臭が鼻を突いた。

 腐敗、焦げ、薬品、鉄錆。それらが入り混じった重い空気。


 扉のひとつを開けた瞬間、彼女の呼吸が止まった。


 ——魔獣の死骸。

 すでに活動を停止した個体だろう。巨大な体躯の一部が千切れ、床に転がっていた。


 その姿を見た瞬間、リオナの腹が鳴った。

 こみ上げるような食欲。焼けるような喉の渇き。

 無意識に一歩、踏み出し——


「っ……!」


 慌てて後ずさる。生理的嫌悪が襲ってきた。

 爛れた肉。鋭くねじれた骨。鼓動を止めた巨大な眼球。


 とても“食べる”など、できそうになかった。

 けれど、体のどこかは欲していた。


 なんとかその部屋を抜け、別の扉を開ける。


 そこには——培養槽の中で、異形の何かが浮かんでいた。


 人間と、魔獣が、融合している。

 少女の顔が、蠢く肉の中に取り込まれ、ぐにゃりと歪んだ手足が魔獣の骨格に縫いつけられていた。


「う、うそ……こんなの……」


 叫ぶこともできず、扉を閉めた。手が震える。


 またひとつ扉を開けた。


 冷気と腐臭が押し寄せてくる。

 そこには、安置された少女たちの死体があった。

 冷凍保存などされていない。皮膚は黒ずみ、腹部は膨れ、顔は判別もできないほどに朽ちている。


 リオナは口を押さえた。吐き気が喉までせり上がる。


 どうして——どうしてこんなことを。

 何が、目的で。何のために——自分を、生き返らせた?


 ぐう、と腹が鳴った。


 もう限界だった。


 そのとき、非常用物資と書かれた棚が目に入った。

 中を漁ると、防災バッグがひとつ。中には発煙筒、簡易ライト、包帯やキット——そして。 


「……っ、食べ物……!」 


 カロリーバー。缶詰。栄養ゼリー。


 震える手で包装を破る。口に押し込む。


 


 ——次の瞬間。


 


「おぇ……っ!」


 猛烈な吐き気が襲った。

 甘さが毒のように感じる。口の中で広がった瞬間、拒絶反応が走った。


 喉を通る前に吐き出す。床にばらまかれる食糧。


 もう一度。こんどは無理やり押し込む。


「っ、ん……ぐっ……!」


 しかし、胃がそれを受け付けない。

 嘔吐、むせ返る咳、涙と涎で顔がぐしゃぐしゃになる。


 缶詰も、同じ。塩気すら毒のように感じられた。


「食べられない……私、なにを……どうすれば……」


 息を切らして、蹲るリオナ。


 そのときだった。


 遠く、空気の流れが変わる。

 何かが、動いている。


 “気配”だった。肌がざわつく。背骨が震える。


 ————近い。


 空腹が、一気に燃え上がる。

 体が熱い。脈打つ。

 

 勝手に————体が、変わり始めた。


 ドレスのような戦装束が、皮膚の上に現れる。

 爪が伸び、髪が風に靡く。喉の奥から、紅い吐息が漏れる。


「な、なにこれ……っ!? 身体が……勝手に……!?」

 意識とは裏腹に、まるで誰かに操られているかのように。

 手が熱い。爪が変形していくのが分かる。

 目が焼けるように熱くて、視界の端が赤く染まっていく。


「やだ、やだやだ……っ、なんで、止まってよ……!」

 息が上がる。叫びが喉に詰まる。

 けれど、内側から湧き上がる何かが、彼女の声を押し潰していく。


 理性が、崩れていく音がした。

 あの気配が呼んでいる。

 喰らえ。生きろ。満たせ。


 それが、この身体に刻まれた“本能”なのだと、告げるように。

 

 言葉は霞む。理性が霧の中に溶けていく。


 あの気配が欲しい。

 喰らえば、満たされる。

 満たされれば————生きられる。


 脚が自然に動き出す。


 意識が、遠ざかっていく。

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