第7話
学生の本分は、勉強である。
もう少しで学生にとっては喜ばしい大型連休、夏休みに突入する時期だが、その前に待ち構えているのは期末テストだ。
これまでに優等生という立ち位置を築き上げ、これから先も維持し続けられる愛莉は、なに一つとして問題も、危惧することもなかった。
ただ、妃都美の方は……というと。
「…はい、じゃあノート開いて?あと教科書も」
「なんで?」
「勉強するからに決まってるじゃない」
「……教科書、無い」
「は?どうして…」
「わからん。どこやったかも覚えてない」
この通り、絶望的であった。
「てか、お前が金払って退学しないようにしてくれてんなら、別に勉強しなくてよくね?」
「……あなた、お金が湯水のように溢れ出てくるとでも思ってる?」
「?」
危機感すら抱いておらず、呑気に首を傾げた妃都美を見て呆れ果てた愛莉は、とりあえず自分の使っている参考書を開いた。
いくら裏金でなんとかするにしても、さすがに限界はある。
となれば、妃都美本人にも多少の努力をしてもらわなければならず、勉強はその努力のうちのひとつなのだが……
「方程式と不等式とか、そこら辺は知ってる?」
「なんだそれ」
「…関数くらいは分かる?」
「?…わかんない」
「……中学基礎から始めよっか」
高校どころか中学の知識も危ういことを悟って、早々にテスト勉強は諦めた。
棚の奥から中学一年の時に使用していた教科書を引っ張り出してきて、リビングのローテーブルに顔を預けてだるそうにする妃都美の頭をついでに叩いた。
「いて……なにすんだよ」
「…ちゃんと勉強したら、ご褒美にお肉あげる」
「……わかったよ、やるよ」
食べ物で釣ることでなんとかやる気を出させることに成功して、シャーペンを持たせる。
「じゃあまずは、正負の数から始めてみよう?」
「せいふ……政治家のやつか」
「……そっちじゃない。正しいの正と、負けの負って書いて、正負。これは分かるでしょ?」
「ピンとこない」
「分からないのね…」
想像以上の知識の無さに辟易としつつ、根気よく教えていくことに決めて、分かりやすく伝わるようノートの端に走るポーズの棒人間を書いた。
その行動からお絵かきでも始めたのかと勘違いした妃都美は、意外にも可愛らしいタッチでシンプルなデフォルメうさぎを書く。
子供の絵にも見えるそれを目にして、今はそういう時間じゃないんだけど……と思いながらも愛莉は眉を垂らして笑った。
「絵…得意なんだね」
「おう。…猫も書くか」
「うん、それは後にしてくれる?今は勉強する時間だから」
「ちょっとまて、今いいとこなんだよ」
一生懸命に書くのは可愛いが、これでは勉強が進まない。
ここは心を鬼にして、書いてる途中だとしても関係なくペンを動かす手を止めさせた。
「おい!あとちょっとで…」
「今は、勉強する、時間です」
低い声を出して威圧してみれば、ムッとはするものの何も言い返せないのか妃都美はおとなしく話を聞く姿勢に入った。
「そんなに難しいことじゃないから、きっとすぐ覚えられるよ」
「……おう」
ふてくされた顔で返事をした妃都美に文句を言うのは一旦後にして、愛莉は説明を続けるため走るポーズの棒人間の下に横線を引いた。
そして定規のように等間隔で短い縦線を書いて、その下に数字を付け足す。
「数字には、プラスとマイナスがあるの。プラスは正の数、マイナスは負の数ね」
「おう。…で、この棒人間は?」
「この子は、プラスで前に進んで、マイナスで後ろに下がるロボットだとでも思って」
「わかった。ロボちゃんだな」
「そう、ロボちゃん。……このロボちゃんに、プラス3って伝えると…」
言いながら棒人間を消し、3の縦線の位置にまた書き出す。
「このように、3の位置まで動いてくれます」
「おぉ…!ってことは、マイナス2って言ったら、ロボちゃんはここに行くんだな?」
たった一回の説明で理解した妃都美は、−2の縦線の上に棒人間⸺通称ロボちゃんを書いた。
「大正解。これが正負の数の性質なの」
「なるほどな」
「で、そのプラスマイナスのついた数字を使って、今度は足し算や引き算をしていくんだけど…」
もはや小学生に教える要領でふたりの勉強は進んでいき、思いのほか妃都美の理解力も高かったことから、途中まではスムーズに解いていった。
しかし、引き算を教えている途中で、妃都美はとある問題につまづく。
「なんでマイナスをマイナスしてるのに、プラスになるんだ?」
負の数同士の引き算で、疑問を抱いてしまったようだ。
そうなることも想定に入れていた愛莉は、焦ることなくまたロボちゃんを書いた。
「おっ、ロボちゃん」
「…実はね、ロボちゃんは後ろ向きにも歩けるの」
「危なくねえか、それ。転ぶぞ」
「大丈夫。ロボットだから」
適当な理由でも納得してくれた妃都美の様子を見ながら、説明を続ける。
「例えばこのロボちゃんに、後ろを向いた状態で、さらにそのまま後ろに歩いて…ってお願いしたら、どうなると思う?ちなみにこの場合の前方向は、プラスの方向ね」
「前に進む。……あ、そっか。ロボちゃんが後ろ向きで後ろに歩くとプラスの方に行くんだな…!」
「そういうこと。だからマイナス引くマイナスは、プラスになるの。後ろの後ろは前だからね」
「へぇ…!ロボちゃんすげえな!」
凄いのはそいつではなく、数学である……という野暮なことは言わないでおいた。
これもまた一度教えたら後は早く、正負の数の四則演算はわりとすぐに覚えた。…掛け算割り算に関しては元から苦手なのか、少し手こずってはいたが。
「次は文字式ね。…ここまで覚えたら、一回休憩を挟んで、実力を図るためにテストしてみよっか」
「わかった!」
問題が解けたら楽しい、ということに気付けたのか、乗り気な様子で頷いた妃都美に安堵して、その後も勉強を続けていった。
休憩後も、やる気なくなっちゃうかな…?と不安に思っていた愛莉の心配とは裏腹に、自ら進んでノートを開いて妃都美は一足先に待機したりと、やる気は萎えることなく継続されていた。
その姿を微笑ましく眺めて、きっと今まではただこうして親身に付き添って教えてくれる人がいなかったり、機会に恵まれなかっただけなんだろうことを察する。
彼女の知識は小学生で止まっていて、中学の頃にはすでに人生に諦め始めていたことも同時に分かって、愛莉は密かに胸を痛めた。
「……よし、プリント終わった!」
「うん、おつかれさま。まるつけするから、見せてごらん?」
「ん!」
まるで幼児みたいに腕を伸ばして差し出された、愛莉の印刷したプリント用紙を受け取って、赤ペンで丸をつけていく。
その結果に、驚いて目を大きく開いた。
「すごい……斑さん、満点だよ」
「おっ…!まじか!」
「ふふ。がんばったね。すごいよ」
満点と伝えた途端に目をぱっちりさせて喜んだ、見た目は大柄なのに中身は子供のような妃都美の頭を撫でる。
どこまでも優しく微笑んだ愛莉に、なんともむず痒いような胸の感覚を覚えた妃都美は、照れ隠しに相手の手首を掴んで離した。
「……頭使ったら腹減った。肉さっさとよこせ」
気まずい空気が流れる前に、自分から高圧的な態度を取れば、愛莉も呆れた吐息を漏らす。
「作ってもらうのに、その態度はなに?私はあなたの奴隷じゃないんだけど」
「いいから作れよ」
「…首輪でも付けないとわからない?」
首筋に指の先を当てて、その流れで胸ぐらを掴んだ愛莉はにっこりと笑いかけた。
「あなたは、私のペットなの。ご主人に逆らうなんて許されると思ってるの?」
「……あたしは人間だ。ペットじゃない」
「そう思うのはいいけど…生かすも殺すも私次第ってこと、忘れないでね」
「お前に生かされるくらいなら、今すぐ死んだ方がマシだ」
親しげだった雰囲気は一変して、険悪なものへと変わる。
バチバチにお互いを睨み合ったふたりは、ほぼ同じタイミングで顔を逸らして立ち上がった。
「…外で飯食ってくる」
「好きにすれば」
売り言葉に買い言葉で、出ていく妃都美を冷たく突き放してしまったものの……「帰ってきてくれるかな?」とすぐ不安を抱えてソファの上でうずくまった。
死んだほうがマシ、という言葉も引っかかって、まさか本当に死んだりしないよね…?大丈夫だよね…?と心配になる。
かと言って連絡手段も何もない。…こんなことならスマホを買い与えておけばよかったと後悔した。
結果その日、愛莉は食事をする精神の余裕もなく過ごして、気が付けばソファで眠っていた。
外食と、ついでにパチスロでいくらか儲けてきた妃都美が夜遅く帰宅した頃には、すっかり深い眠りに落ちていて、
「……風邪ひくぞ、クソ女」
見かねた妃都美は投げるようにタオルケットをかけ、手短に風呂を済ませてから寝室へと入っていった。
翌日の朝。
「お……起きたか。おはよ」
「…帰ってたの?」
「おう。パチンコ勝ったから、お前にも景品のお菓子やるよ。冷蔵庫に入れといた」
「あ、ありがとう…」
お互いに謝りこそしなかったものの、後に引きずらない妃都美のあっけらかんとした性格のおかげでいつも通り過ごせたことに、愛莉は心底安堵した。
「色んな駄菓子あんだろ?うまいんだよ、これとか。お前お菓子好き?」
「好きだけど……パチンコはだめ」
「なんでだよ」
「まだやっていい年齢じゃないでしょ。だからだめ」
「……やっていい年齢があんのか」
「ある。成人になるまではだめって決まってるの」
「成人になったら、やっていいの?」
「うん。後は個人の自由だもの」
「じゃあ、それまでは我慢するかぁ…」
理由までちゃんと話せば、思いのほか納得してくれるらしいことを、ここで知った。
無知、もしくは純粋故の危険さはあれど、学んでいけば案外ちゃんとまともになってくれそうだ…とひとまず安心する。
愛莉が妃都美をそばに置く理由はいくつかあって、そのうちのひとつには、“私がいなくなってもひとりで生きていけるように”という願いにも似たものも含まれている。
そのことを、妃都美自身は知らない。
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