第6話
深夜。
ソファの上で目を覚ました妃都美は、まず水を飲みにキッチンへと移動した。
冷蔵庫を開けて、無遠慮に中身を物色する。
手に入れたペットボトルの水を歩きながら開けて飲んで、二度寝しようと向かった先はふかふかベッドのある寝室だった。
しかし、当たり前のようにそこには先客が居た。
自分がソファで寝てしまったばかりに、ふかふかベッドで寝る権利を自動的に得てしまった愛莉の静かな寝顔を覗き込んで、どうしようかと頭の後ろを掻く。
幸い、ベッドのサイズは大きく、ふたりくらいなら余裕で寝転べるスペースの広さはあった。
だから迷わず、妃都美は愛莉の眠る毛布に潜り込んだ。
ついでに「あったかそう」という理由だけで抱きついて目を閉じてから、数時間。
「ん……ん、なに…」
息苦しさから目を覚ました愛莉が瞼を上げて下を見たら、自分の胸元に顔をうずめる妃都美の姿が視界に入って息を止めた。
状況を理解できなくて、混乱した頭で意味もなく周りを見回す。
当然、今この部屋にいるのは愛莉と妃都美のふたりのみで、他に人は居ない。
「え、どうして…」
一緒に寝てるの?
驚きすぎて声にも出せない中、昨日の夜に彼女がリビングで寝てしまったことだけはかろうじて記憶にあった。
…途中で起きて、移動した?
それにしても、わざわざ抱きついて寝る意味が分からなくて、考えれば考えるほどに思考は停止していく。
どうしよう……しばらく硬直して、とりあえずこんな事になるとは思ってもおらず、下着をつけてなかったことを思い出して体を離そうと試みた。
が、やんわり体を押してみても、より強く抱き締められるだけで終わってしまった。
「お…起きて、斑さん」
控えめに肩を叩いてみるものの、よほど深い眠りなのか目覚める気配もない。
「うぅ……どうしよ…」
トイレにも行きたいし、なにより…
「あ、だめ……スリスリ…しないで」
落ち着くのか、寝ながらも無意識的に頬を寄せられると、何にとは言わないが擦れて慣れない感覚に肩を竦ませる。
くすぐったくてもどかしいような刺激が色々と辛くて、漏れ出そうになる吐息を堪えるため口元に手の甲を当てた。
「ね、ぇ……起きて?お願いだから…」
困り果てる中でも諦めず声をかければ、うっすらと意識が呼び覚まされたのか妃都美の瞼が浅く持ち上がる。
よかった、これで離れてくれる…と、完全に愛莉が油断したところで、
「めし…」
まだ夢でも見てるらしい妃都美の唇が開いて、目の前の肉を口に含んだ。
予想外の行動に、愛莉は目を見開いて呼吸を止める。
服ごと咥え込んで、もぐもぐと甘噛みしだした妃都美をただただ見下ろして、真っ白になった頭で固まった。
「え……ち、ちょっと、やだ…なにして」
数秒してようやく理解が追いついて、慌てて引き剥がそうとしたタイミングで、がぶり、と。
「いっ……た…!」
思いきり噛まれたことで、愛莉の表情が痛みに歪んだ。
あまりに容赦ない噛みつきを受けて、考えるよりも先に防衛本能的な何かの影響で咄嗟に手が出る。
「い…って!なんだよ…」
寝てるところに平手打ちを食らった妃都美は、頬を押さえながらイラついた顔で体を起こした。
「おい、寝てるとこ殴るなんて卑怯だぞ」
「っ……ば、ばか!斑さんが悪いんでしょ!」
「は?なんでそんな怒ってんだよ」
「う、う…うるさい!何でもかんでも赤ちゃんみたいに口に入れないの!信じられない、何歳よあなた!」
寝起きから早々に怒られて、意味も分からずポカンとする妃都美めがけて枕を投げ付けた愛莉は、腕の中から開放されたこともあり勢いよくベッドを降りて、そのまま寝室を出ていった。
残された妃都美は無駄にキョロキョロとして、とりあえず…とまた眠りにつくための巣作りを始める。
部屋を出た愛莉は真っ先に脱衣所へ向かって、噛まれた胸元の確認をするため服を脱いだ。
「あぁ〜……もう。勘違いされたらどうしよう…」
痣になりそうな跡を見て、切望した気持ちで頭を抱える。
不定期で行われる父との面会が、次にいつ行われるか分からないから怖い。その際にバレたら殺されるかもしれない。
たとえ殺されずに済んでも、学校以外での男との接触を完全に断ち切る代わりに手に入れた自由は失ってしまう。これは確定事項だ。
そうなれば……せっかく飼った妃都美との日々も、終わる。
「……それだけは、絶対だめ…」
なんとしてでも、今ある自由だけは守り抜かねば。
強い意思を持って、とりあえず歯磨きなんかを済ませた愛莉は寝室へと戻った。
ベッドの上では、毛布の巣を完成させた妃都美が相変わらず胎児のように丸まって眠っている。
その横でクローゼットから制服を取り出して、まず先に家を出る準備を進めていった。
着替えが終わると、今度はまた寝室を出て行き、キッチンで朝食作りを始める。妃都美が居ても居なくても、ここまでの流れは今までと変わらない。
「…斑さん、朝だよ」
全て終えてから、最近の大きな変化である“起こしに行く”という作業を開始するため、ベッド脇に膝をつけた。
「起きて?学校行く時間だから」
「んー……うるせえ…」
肩を叩けば、不機嫌な声を返された。
それさえも微笑ましく思う愛莉にとって、この時間は何物にも代えがたいもので……昨日同様、寝てるのをいいことに顔を近付ける。
「またキスしちゃうよ…?」
「……てんぷら…」
「ふふ。そっちのキスじゃないよ」
寝ていても食欲は旺盛なんだ、と笑って、無防備な唇を指の腹でなぞった。
今日は昨日よりも眠りが浅そうだから、やめといたほうがいいかな……ぼんやり寝顔を眺めながら悩んで、今は穏やかに髪を撫でるだけに留めた。
夢の中で何を食べてるのか、むにゃむにゃ動く口が可愛くて、愛莉の笑みは増していくばかりだった。
しばらくの間、頬に唇を軽く当ててみたり、耳たぶをつまんでみたりしながら、起きるのを待つ。
一方で妃都美は、うつらうつらとした意識の中、誰かに愛でられている気配だけは感じていた。
これが懐かしい過去のひと時を見せる夢なのか現実なのか分からず、視界を閉じた暗闇の世界で、暖かな手のひらの体温に身を委ねる。
幼い頃、優しく頭を撫でてくれた母の姿が脳裏に浮かんだ。
「…かあさん」
記憶にある顔は、逆光の眩しさに遮られているせいで黒く染まり、はっきり見えない。
そのことに寂しさを抱えるものの、頬に当てられた体温ははっきりと伝わって、そのおかげで心に平穏を取り戻した。
意識も曖昧だったところから次第に鮮明さを増して、眠気もなくなって軽くなってきた瞼が自然と上がる。
「……あ。おはよう」
視界が開けてすぐ見えたのは、ふわりとした柔らかな雰囲気をまとった清楚な笑顔だった。
眩いほどの美しさを前に、何かを求めた手が伸びる。
触れてみれば、綺麗な瞳はキョトンと開かれた後で、ほんの僅かな照れを混ぜて細まる。
「…お前って、かわいいんだな」
突然の褒め言葉に、愛莉は驚いて口をきゅっと閉じた。
妃都美からすればたいしたことない、顔の造形を褒めただけに過ぎないが、胸の内を知らない愛莉からすれば口説きにも聞こえた褒め方に、動揺しまくって落ち着かない体を起こした。
「ご、ご飯できてるから。先食べてるね」
心臓が激しく脈打つのを感じながら、逃げるように寝室を飛び出す。
部屋を出てすぐ、疼きだした胸元の傷跡を服越しに押さえて、熱を持った全身からじんわりと汗が滲むのを感じた。
かわいい、と。ただひとこと言われただけなのに、嬉しくて胸がつらい。
「こんな調子で、隠し通せるかな…」
体の力が抜けて、その場にしゃがみ込みそうになったが、なんとか耐えた。
いつか絶対に勘付かれそうで、怖い。
腑抜けて油断して、悟られるわけにはいかない。
彼女と、自分の未来のために。
頬を一度叩いて、正気を取り戻した。
「……よし」
次は何があっても動揺しない、と心に決めて、テーブル椅子に腰を下ろす。
その後すぐ妃都美もキッチンへやってきて、何食わぬ顔で会話もないふたりきりの朝食を済ませてからは、いつでも家を出られるように鞄を持って待機した。
「斑さん、準備できた?」
「ねむい」
「あ……もう。ボタンかけ違えてるよ」
制服に着替えてきたらいいものの、雑すぎてだらしのない格好で現れた妃都美を見て、仕方ないな…と制服のボタンに手をかける。
一度ボタンを外して、またかけていきながら……ふと無防備な首筋に目が行って、手が止まった。
よく食べるわりに細身というか、がっしりしたように見えてちゃんと女性らしい線の細さに、胸をときめかせてしまう。
胸元も控えめだけどちゃんとあるし…と、思いかけて邪な思考回路を遮断させた。
「?……じっと見て、なんだよ。なんかあった?」
そのタイミングで顔を覗きこまれて、近い距離にある瞳が目が合った瞬間に表情が綻ぶ。
まだ飼い始めて……否、一緒に暮らし始めて数日も経っていないというのに。
愛莉はじわじわと、危機感を覚えていた。
このままでは、バレてしまう。
そばに置いておきたい一番の理由が、
「せ…制服くらい、ちゃんと自分で着て」
今、目の前にいる妃都美のことを好きだからだ、と。
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