第20話 復讐の時

 職員室を出たあと、僕は足を止めた。




 昇降口へ向かう途中、教室の前を通ったときだった。闇に沈んだガラス越しに、微かに人の気配がした気がした。いや、違う。人の匂いだった。




 腐肉の僕には分かる。あれは誰かが最近までそこにいたという匂い。新しい汗と、洗剤と柔軟剤の混ざった制服の臭い。嗅覚が進化した今なら、性別も年齢も識別できる。




 女。二十代後半。恐らく、教師か警察の残り香だ。




 その瞬間、僕の心臓——いや、もはや鼓動を忘れた器官——が強く脈を打ったような錯覚を覚えた。危険だ。これは罠かもしれない。思えば市川の机にファイルが無防備に置かれていたのも不自然すぎる。




 教室の床には、まだ市川の乾ききった血の跡が残っていた。黒褐色に染まった木の床。その上を僕は這い、徘徊し、あいつの死体を飾ったのだ。




 指先にこびりついた血は、もはや僕の血と混じっていた。皮膚の裂け目からは黄色い膿と、乾ききらない組織液が垂れていた。指の一部は骨が露出し、指紋などとうに失われている。




 それでも、紙をめくることはできた。柿崎の名前を見つけたとき、胃の奥で異音がした。腹の中に蠢く腐敗ガスが鳴ったのか、あるいは本能的に唾液が出たのか分からないが、僕は涎を垂らした。




 「柿崎……」




 喉の奥で掠れた声が洩れた。




 その名を口にした瞬間、脳裏に浮かんだのは、あの雨の日のこと。




 傘も持っていなかった僕に、水たまりを蹴りつけてきた柿崎の笑顔。教室で机に詰められたゴミ。トイレに押し込まれ、便器の中に顔を突っ込まれた感触と、そこから立ち上がったときの教壇の上の市川の笑い。




 ——思い出すな。




 だが、思い出すことが、僕を河童にした。忘れることは、死ぬことだった。




 僕は急ぎ足で階段を下り、夜の体育館裏へと逃げ込んだ。誰にも見られていないはずだ。でも、確信は持てなかった。




 地面に腰を下ろし、黒いファイルを胸に抱く。紙の匂いの中に、あいつらの名前が潜んでいる。柿崎。三輪。渡瀬。長谷川。僕を殺した人間たち。




 震える肩の奥で、皮膚が剥がれた部分が冷たい風にさらされ、ひりつく。だがその痛みが、僕を現実に引き戻す。




 「……生きて、食ってやる」




 もはや言葉を話す口内は崩れかけていたが、それでも言葉は形になった。




 僕は決めた。今晩、最初の一人に会いに行こう。




 この腐った身体が崩れ落ちる前に。




 それまでに、誰にも見つかってはいけない。




 それが地獄の始まりになるとしても——もう、迷いはない。




 体育館の暗がりに身を潜め、僕は黒いファイルを膝の上に広げていた。夜風が吹き込む隙間から、虫の羽音が微かに聞こえる。朽ちかけた手で震えながらページをめくると、柿崎俊の住所が再び目に入った。




 その文字列をじっと見つめていると、ある既視感が胸を打った。




 ……近い。




 信じられなかった。僕がまだ人間だった頃、両親と一緒に暮らしていた家から、ほんの数ブロックしか離れていない場所だったのだ。




 あの家——父が無理をしてでも子供のためにと買った、一軒家。


 決して大きくはなかったが、思い出の詰まった場所だった。




 記憶の中の町並みが一瞬、脳裏に蘇る。あの狭いリビング、窓際の鉢植え、母が焼いた焦げ臭いホットケーキの匂い。父の煙草の煙とテレビの音。どこにでもある、何の変哲もない家庭だった。




 だが、河童になってからの僕は、そんな日常を思い出すことすら避けていた。




 今の僕にはもう、帰る家も、迎えてくれる人もいない。




 それでも——




 なぜか、どうしても見たくなった。




 せめて、家だけでも。あの家が、まだそこにあるかどうか。家族は元気で暮らしているのか、電気は点いているのか、ポストには誰宛ての手紙が入っているのか。




 確認したい。見届けたい。




 それは復讐とはまったく別の欲望だった。生への執着か、死の間際の郷愁か。




 そして、僕は静かに立ち上がった。




 足音を殺し、夜の校舎の裏手を抜ける。腐敗した足の関節はきしみ、左手の無いバランスの悪い体は何度もつまずきそうになる。それでも、僕はひたすらに気配を消すことに集中した。




 見つかってはいけない。




 誰かに姿を見られたら、僕はその人を——殺してしまうだろう。もう、そういう身体になってしまった。




 でも、今だけは。どうか、誰にも会いませんように。




 僕の中にわずかに残った“人”としての良心が、そう願っていた。




 夜の街へと向かうその背中に、体育館の暗がりから出た。もうここには戻ることはないだろう。




 腐った足の筋肉が軋む音を響かせながら、僕は学校を後にした。夜の風はぬるく、土と汗の混ざったような匂いが鼻をつく。月は雲の切れ間に覗き、周囲を銀色に照らしていた。




 僕は地面の感触を頼りに歩を進める。朽ちた肉が擦れ、指の間に小石が刺さる。以前よりも痛覚は鈍っているはずなのに、なぜか今夜の痛みは妙に鮮明だった。




 途中、何度も物陰に身を潜めながら、僕は裏路地を選んで進んだ。野良猫が一瞬、僕の姿に反応して毛を逆立てたが、すぐに逃げていった。人の気配はなかった。




 ……いや、僕が感じ取っていないだけかもしれない。月の位置や、空気の湿度。地面を這う虫の動き。そういったものが今の僕には“時間”を教えてくれる。




 おそらく、日付が変わるか変わらない頃だろう。




 ようやく辿り着いたその場所は、あまりにも静かだった。住宅街の一角。かつての我が家が、ひっそりと、そこにあった。




 だが、どこか違和感があった。




 玄関の前で足を止め、目を凝らす。




 ……そこには、張り紙があった。




「売物件」




 僕の喉から、息が漏れた。風に揺れる紙の端が、今や誰のものでもない家の無言の証のように思えた。




 この家には、もう僕の家族はいないのだ。




 胸の奥がじわりと痛む。だが、それは人間だった頃の心が訴えているだけだ。河童の僕には、もう痛む心臓すらないのだから。




 それでも、僕はしばらくその場を動けなかった。




 売り物件の張り紙を見たとき、僕は一瞬、胸の奥が冷えた。




「……何があった?」




 思わず呟いた声が、夜気に溶けていった。




 無理もない。あの家は父が、僕と姉のために無理をして手に入れた一軒家だった。決して大きくはなかったが、思い出が詰まった家だった。そう簡単に手放すはずがない。だが、今はもう誰も住んでいない。そう思った僕は、もしかしたら家族が去った痕跡が何か残っているかもしれないという、捨てきれない希望を抱いて、小さな庭へと回り込んだ。




 かつて母が鉢植えを並べていた庭は、今では雑草が好き勝手に生い茂り、放置された年月を物語っていた。




 僕は腐った手で、一番小さな窓を狙って鋭く尖った爪を振り下ろした。




 ぱきん、という鈍く乾いた音とともに、ガラスが砕けた。夜の冷たい空気が室内へと流れ込み、僕はその隙間からゆっくりと、這い入るようにして家の中へ足を踏み入れた。




 そこはリビングだった。




 だが、僕の記憶にある温かな空間はどこにもなかった。テレビも、ソファも、ちゃぶ台もない。壁際に並んでいた本棚も姿を消していた。代わりに広がっていたのは、ただがらんとした無機質な部屋だった。




 足音が響くたび、空虚な反響が耳に刺さる。




「……全部、持って行かれたんだな」




 ぽつりと漏れた言葉は、寂寥とともに空気に吸い込まれて消えた。




 僕は足を引きずりながら階段を上がり、かつての自室へ向かった。壁に貼ったポスター、棚に積まれていた懐かしい漫画の単行本、勉強机に置いたままのペン立て──そんな記憶の残滓は何ひとつ残っていなかった。




 そこには、まるで誰も住んでいなかったかのような、白い壁とフローリングだけがあった。




 僕の存在そのものが、最初からなかったかのように——。




 その瞬間、リビングからカタリ……という微かな音がした。




 僕は息を止め、耳を澄ませた。




 人間であれば、その存在を気配で感じ取れるはず。足音、衣擦れ、呼吸。




 だが、それらは一切なかった。ただ、唐突な物音だけが響いた。




 僕は静かに階段を下り、リビングへと戻った。




 そして、そこに——




 あの老婆がいた。




 夢の中で、尻子玉のことを僕に教えてくれたあの老婆が。




 闇の中、壁際にぬうっと立ち、嫌悪感すら催すほどに口角を吊り上げて、僕を見つめていた。




 その姿は、もはや人間のそれではなかった。


 干からびた皮膚は黒ずみ、ところどころが裂けて内側の筋肉が露出していた。眼球は濁り、まるで煮詰まったゼラチンのように光を放ち、鼻は陥没し、口は裂けたように大きく開いていた。黄色く変色した歯が、歪んだ笑みに沿ってのぞいている。




 その笑みには、警告も、慈愛もなかった。




 ただそこにあったのは、悪意そのものだった。




 リビングの薄闇に、不気味な老婆の笑みが浮かび上がっていた。




 皺だらけの皮膚は干からびたように張り付いており、口元は裂けたように吊り上がっていた。白濁した眼球は濁った水晶のようで、そこには人間的な温度はなかった。




 僕は反射的に後退った。けれど、背中が壁にぶつかり、逃げ場はなかった。




「……なんで、ここに」




 唇が乾いて動かしにくかった。だが老婆は僕の疑問など無視して、まるで母親が叱るような口調で、こう言い放った。




「こんなところで油を売ってる場合かえ、河童」




 声は枯れていながらも、空間を切り裂くような鋭さを孕んでいた。




「お前には、時間がない。あの柿崎の尻子玉を、早く食わねば、お前の皿は欠けたまま、腕も生えぬまま朽ち果てていくだけじゃ」




 老婆の言葉は、怒りとも、哀れみともつかぬ口調で続いた。




「尻子玉を喰えば……? 再生するって……本当なのか」




 思わず僕が問うと、老婆はカラカラと喉の奥で笑った。




「尻子玉を喰らえば、皿は満たされ、腕は生え、不老不死となる。そんなことも忘れたか。お前が望んだのは……復讐だけじゃろう?」




 言葉が、骨の髄まで染み込んできた。だが、次に老婆が語った内容は、僕の心臓を掴んで引き裂くようなもので──




「それにしても哀れなものじゃな……お前の家族が出ていったのは、ただの引っ越しじゃない。柿崎が、姉のあの動画のことを、あることないこと同級生に言いふらしたせいじゃよ」




 老婆の声が、ぐしゃぐしゃになった記憶の奥底を引っ掻いた。




「黒沢との関係や、整形や、下世話な話ばかりをな。瞬く間に噂が広まり、姉は学校に通えなくなり、母親は買い物にも出られぬようになった……姉は両親に無断で借金までしていたようでな。それが原因で家の中は喧嘩が絶えず、家庭は崩壊していった。そして、最後の決定打がお前の失踪じゃ……家族は完全に壊れてしもうた」




 僕の喉から、乾いた音が漏れた。




「嘘だ……」




「ならば、真実を見に行けばよい。柿崎の家に。今からでも遅くはない」




 老婆の口元が、さらに裂けるように笑った。




 僕はその笑みの裏に、恐ろしいことに気づいた。




 ──この老婆は、もはやこの世の者ではない。




 僕の頭の中の幻覚か、それとも闇の底からやってきた何かか。




 だが今の僕には、それを否定する余力も、正気もなかった。




 老婆はその干からびた唇をくくくと吊り上げ、喉の奥で笑いながらこう言った。




「さぁ、わしが柿崎の家まで、水先案内人になってやろうかの」




 その瞬間、部屋の空気が冷たく張りつめた。僕は反射的に一歩退いたが、老婆は滑るように前へ進んだ。


 ──否、歩いてなどいない。老婆の足は、床からわずかに浮いていた。




 わずか数センチ。だが、その違和感は致命的だった。


 老婆は音もなく、埃の積もるリビングを通り過ぎ、割られた窓から闇夜へと滲み出るように滑り出した。




「おい、待て……!」




 僕は咄嗟に後を追った。身体の傷は疼き、失った左腕の付け根からは時折熱が湧くように痛んだが、不思議と動けた。




 老婆は振り返りもせず、地を滑るように住宅街の夜道を進む。


 その背中は月明かりに透けて見えるほど淡く、しかし確かにそこに在った。




 通い慣れたはずの道。だが今はすっかり様変わりしている。夜間の巡回車両が道を走り、上空ではヘリの音が耳を軋ませるように響いている。




 老婆は一度も足を止めなかった。驚いたことに、すべての監視の目をすり抜けるように、僕らは誰にも見つからずに進んでいく。




 やがて、曲がり角を抜けた先に、柿崎の家が現れた。


 それは近隣の家々と比べて明らかに大きく、塀の高さも門構えも豪奢だった。敷地の奥に佇む二階建ての家屋は、洒落た外壁に囲まれ、夜でも防犯灯に照らされて静かに威容を放っていた。




 鉄製の門扉の隙間からのぞく玄関アプローチには、高級感のある石畳が敷かれ、手入れの行き届いた植栽が等間隔に並んでいる。明らかに一般家庭のレベルを超えていた。




 ──柿崎俊の家は、金持ちの家だった。




 僕は無意識に喉を鳴らした。その家の中に、あいつがいるのだ。僕の人生を狂わせ、家族を壊した張本人が、今もこの豪邸でぬくぬくと眠っている。




 皮肉だった。僕の家族は、あいつの中傷によってこの街から追い出され、僕は化け物になり、家も家族も未来もすべて失ったのに──あいつはまだ、すべてを持っているのだ。




 老婆は玄関前でぴたりと止まった。背を向けたまま、ささやくように言う。




「さぁ、お前の“理由”を取り戻すといい。すべてはここから始まり、ここで終えるのじゃ」




 僕は、その扉の向こうにいるであろう柿崎俊の顔を思い浮かべながら、息を呑んだ。




 冷たい夜風が頬を撫で、傷口がきしむ。




 それでも──この瞬間だけは、僕の心臓はしっかりと鼓動していた。




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