第19話 厳戒態勢の街
夜の河川敷には、張り詰めた空気が漂っていた。上空では、けたたましいプロペラ音を立ててヘリコプターが旋回している。その音はまるで地を這う者への断罪の鐘のように、僕の腐った鼓膜にまで鋭く刺さった。
ただの報道ヘリではない。照明こそ灯されていないが、一定の間隔で軌道を変えながら、周囲を徹底的に見下ろしている。その動きには明らかに監視の意図があった。街全体を上空から睨みつけるような、その眼差しが痛いほどに感じられる。
その下では、街を走るパトロールカーのスピーカーが、風に乗って河川敷まで響いてきていた。
「こちらは市役所です。現在、重大事件発生中につき、住民の皆様は不要不急の外出をお控えください。外出中の方は速やかに帰宅し、戸締まりを徹底してください。事件が解決するまで、地域の小中学校は休校となります」
ひっきりなしに流されるその声は、どこかの国の非常事態宣言にも似た響きで、この街が今まさに“異常”に包まれていることを如実に示していた。
ここまでされる理由は、僕自身が一番よくわかっていた。
復讐に関係のない者を殺した。
黒沢──あいつは別だ。姉を、僕を壊した張本人。だが、動画配信者の男は……おそらくただの偶然だった。そして、警察官──あれは明らかに殺意に任せた殺害だった。
あの日、黒沢の家にいた少女。
動画配信者の連れ。
そしてやり逃がした、あの警察官。
僕が河童という化け物になった姿を、確かに見た人間たちだ。
もう、ただの妄想や都市伝説ではない。あの目で、現実として、僕という存在を知っている者たちがいる。彼らの証言があれば、僕の正体はすぐにでも白日の下にさらされてしまうだろう。
とくに、警官を殺した。
これは国家への反逆と同義だ。彼らが本気で血眼になって追ってくるのは当然だろう。仲間を殺されたこともある。だが、それ以上に“見せしめ”が必要なのだ。
僕が見つかり、引きずり出され、殺されるまで──この街の厳戒態勢は解かれない。
そしてその未来が、遠くないことも、腐った僕の体は薄々感じていた。
だが、それでも逃げなければならない。
生き延びなければならない。
なぜなら──柿崎の尻子玉だけは、どうしても食わねばならないからだ。
あいつだけは、許されてはならない。
あいつこそが、僕が河童になった理由そのものなのだから。
復讐は、まだ終わっていない。
河川敷には、重たい湿気と腐臭が漂っていた。僕の身体から発する異臭は、既に空気に染みついている。皮膚の一部はめくれ、膿が滲み、腐敗がじわじわと進んでいるのが自分でも分かる。だが今、そんなことに構っていられる状況ではなかった。
ふと脳裏に浮かんだのは、人間たちが野生動物に対して下す「裁き」だった。
野犬にしろ、日本なら熊、海外ならトラ。
人を襲ったり殺めたりした動物が辿る末路は、たった一つしかない。
──駆除。
人間に背いた報いとしての死だ。
餌に毒を混ぜたり、麻酔銃で眠らせて檻に入れた後、殺処分。あるいは猟友会のベテランが山奥でライフルを構えて始末する。方法はいくつもあるが、どれも「人間のために」動物の命を終わらせるものだった。
だったら、河童になった僕は?
──考えるだけ無駄だ。
僕が人間でないことは、もう誰の目にも明らかだった。黒沢の家にいた少女、あの動画配信者の男の仲間、そして……あの日、腰を抜かして逃げた警察官。
彼らの証言だけで、僕は“化け物”として扱われるには十分すぎた。
そして、化け物の末路もまた、野犬や熊と同じだ。
殺される。
それだけだ。
上空ではプロペラ音が響いている。街を見下ろすヘリの光はないが、確実に監視の目が張られていると本能が告げていた。
今はまだ、河川敷の寝床が追っ手から逃れる最後の砦となっている。けれど、そんな安息も長くは続かない。
夜を越えれば、明日が来る。
明日が来れば、人間はさらに「効率的な殺し方」を考える。
毒、罠、火炎、銃。
手段はいくらでもある。
僕の時間は、限られている。
生き延びるには、先に動くしかない。
喰らうべきものを喰らい、目的を果たしてからでなければ、朽ちていく身体に意味すら持たせられない。
腐るだけの屍として消えるか。
それとも、最後の目的を果たして終わるか。
どちらかしか、ない。
そして、僕にはまだ……やることがある。
湿った草むらの上に身を横たえながら、僕は腐敗した自分の足をじっと見つめていた。皮膚はただれ、筋肉の線も曖昧になっている。立ち上がるたびに足の関節がギシギシと軋み、時に脱臼したように動かなくなる。左手首はもうない。骨ごと食い千切られたその痕跡には黒く乾いた血と腐った肉がこびりついていた。
──これが、満身創痍ってやつか。
昔、アニメか何かでそんな言葉を聞いた記憶がある。今の僕はその言葉通りの姿だろう。満身創痍、心身ともに限界を超えた化け物。自分で自分の身体を見るたび、滑稽でさえあった。
もし、近いうちに駆除されるなら、僕の死体はどこかの検査室で白衣の人間たちに解剖されるのだろう。肋骨を鋸で切り開かれ、内臓を摘出され、脳を取り出される。
「この異形の存在は何だ?」
きっとそんな声が飛び交う。警察は今頃、黒沢のクリニックでの証拠と、失踪した動画配信者の仲間の証言、黒沢邸で遭遇したあの少女の話を総合して、何かしらのストーリーを組み立てているはずだ。
でも。
いじめられていた中学生が、自分の手で復讐を果たすため、自ら志願して河童にしてもらった──そんな異常な筋書きなんて、彼らの想像の外だ。
だって、それは狂気だ。
僕の頭は完全に狂ってる。だからこそ、そんな計画が成立した。誰も助けてくれなかった。教師も、大人も、家族も。だったら僕が、人間の姿を捨ててでも、自分のやり方で罰を与えるしかなかった。
そう考えると、喉の奥からこみ上げてくるものがあった。
──ククク。
──あは、あはははっ。
笑い声が漏れた。腐った声帯が振動して、どこか濁った、奇妙な音になる。ひとりきりの草むらに、狂気じみた笑いが響いた。
満月は雲に隠れていたが、笑い続ける僕の顔だけが、どこまでも明るかった。
薄暗い河川敷の寝床に、僕はうずくまっていた。痛みに耐え、体液の臭いと腐敗臭が染み付いたこの地で、僕はひとつのことに焦りを感じ始めていた。
──時間がない。
警官を殺し、犬を殺し、黒沢を殺した。市川も葬った。それでも、復讐の核である柿崎俊とその取り巻きには、指一本すら触れていない。なのに、警察は動き続け、ヘリが飛び、街にはスピーカーの注意喚起が響きわたる。
警官殺しは重い。その犯人が僕である限り、学校の再開など当面あり得ない。つまり、奴らはいまも安全な家の中でぬくぬくと生き延び、僕の命が腐り尽きるまで、何ひとつ傷つくことなく過ごすのだ。
──ふざけるな。
焦りが怒りに変わっていく。柿崎を、この手で殺すと決めたのに。なのに、それすら叶わず終わるのか。
──どうすれば。
学校が駄目なら……他の場所で? だが、僕はあいつらの家を知らない。友達じゃなかった。友達だったことなんて、一度もなかった。机を並べていたというだけの他人。それ以上でも、それ以下でもない。
そんなとき、不意に脳裏に浮かんだ。
市川のことを調べるために夜の学校に忍び込んだ、あの晩。教室に入った時、教壇の上に立てかけられていた黒いファイル──クラス名簿。教師用の住所録付き。確か、名簿の背には銀色のラベルが貼られていた。
僕はあのとき、市川の予定だけを見て文化祭前夜の当直を知り立ち去った。だが、もしあれがまだあの場所にあるのなら。
──柿崎の住所が分かる。
三輪、渡瀬、長谷川……あいつらの家も。
会えないなら、会いに行けばいい。
何も、学校で襲う必要なんてなかったんだ。むしろ、学校という舞台に縛られていたのは、復讐に値しない偽善のためだったのかもしれない。
殺すこと──尻子玉を抜くこと。それだけが、僕の存在理由。
腐った肉体が軋む音を立てながら、僕はゆっくりと身体を起こした。まだ、動ける。腐っていても、潰れていても、殺すまでは死ねない。
そうだ、あの名簿が──地獄の道標だ。
夜の街に、腐臭と湿り気を帯びた風が流れる。僕はその闇の中を、音も立てずに歩いていた。左手首はない。血はすでに乾き、断面からは膿と腐臭が混じった体液が垂れていた。痛みはもう感じなかった。麻痺か、怒りによる鎮痛か。どちらでもいい。もはや、そんな感覚に意味などなかった。
歩みを止める理由は、僕にはない。
目指す先は、かつて僕が晒し者にされた場所──あの学校。
そこに、僕が求める鍵がある。市川の机に置かれたクラス名簿。柿崎俊をはじめ、僕を壊した人間たちの住所が記された書類。それさえ手に入れれば、残された復讐は成し遂げられる。僕が河童になった理由。その核心に触れるために。
学校は封鎖され、正門には黄色い規制線が張られていた。ニュースで聞いた通り、殺された教師と関連づけられているせいだ。だが、驚くほどに警備は甘い。警察官殺しの凶悪犯が野放しだというのに、人間たちは本当に愚かだ。
裏門から校舎へ侵入する。誰もいない校舎。かつて学び舎だったはずの場所は、今や僕にとって呪いの祭壇だった。
廊下を進むたびに、僕の腐った肉が擦れる音が響く。すれ違う人影はなく、ただ蛍光灯の明滅だけが生きているように瞬いていた。そこに人間の温もりなど、もはやない。
目的の職員室に辿り着いた。
鍵はかかっていなかった。
職員室に足を踏み入れた瞬間、腐肉が反応するように震えた。誰もいないはずなのに、あの日の記憶が鼓膜を支配する。
こんな夜中に職員室を物色する理由。
──笑い声。
──机を蹴る音。
──「気持ち悪い」と囁く声。
市川の机は、一年担任溜まりの左。
足を引きずりながら近づき、引き出しを開ける。黒いファイルは、まるで待っていたかのように、そこに鎮座していた。
震える指でページを繰る。皮膚が剥がれ、血膿が滴る。それでも目を凝らして名前を探した。
──柿崎俊。
──三輪瑛士。
──渡瀬駿介。
──長谷川琴音。
全ての住所が、確かにそこに載っていた。
震える喉が、かすかに笑い声を漏らす。低く、濁った、腐肉の笑いだった。
僕はファイルを抱え、静かに職員室を出た。夜風が吹き抜け、廊下の窓を鳴らす。まるで戦場へ向かう戦士を送り出すように。
これで、会いに行ける。
殺すために。尻子玉を喰らうために。
もう後戻りはできない。
僕が、僕である理由──
柿崎俊。その尻子玉さえ食えば、何かが変わる気がしていた。
それが僕の確信であり、唯一残された希望だった。
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