第21話 柿崎邸の惨劇の夜
老婆は、玄関の前でくるりとこちらを振り返った。
「さぁ、存分に暴れてこい」
干からびた唇から漏れたその声は、まるで呪詛のように冷たく響いた。次の瞬間、老婆の身体はふわりと空気に溶けるようにして、目の前からすうっと消えてしまった。残されたのは、夜の冷気と、胸の奥に広がる不気味な静けさだけだった。
僕はその場でしばらく立ち尽くし、息を潜めたまま玄関を見据えた。
真夜中の豪邸。外壁は白亜のタイル張りで、夜の街灯に照らされて淡く輝いている。周囲の家々と比べてもひときわ大きく、塀の高さも二メートルはあった。植木は精密に刈り込まれ、庭の芝生は手入れが行き届いている。こんな家に、あの柿崎俊が住んでいる。
──僕のすべてを壊した男が。
手首のない左腕がじくじくと疼き、皿の一部が欠けた頭には重たい痛みが鈍く残る。だがそれすら、今の僕には関係がなかった。ただ一心に、目の前の屋敷を睨みつけていた。
復讐の刃は、今、喉元に届こうとしている。
僕は足を引きずりながら、屋敷の庭へと回り込んだ。防犯カメラなど気にする余裕はなかった。獣のように荒く息を吐きながら、腰を低くして茂みの影に潜み、窓の一つを見つけると、爪を振り下ろした。
──ガシャンッ!!
鋭く砕け散るガラス。静寂を切り裂く音と同時に、屋内からけたたましいアラームが鳴り響いた。
「侵入者を検知しました。警備会社に通報します」
機械的な女の声が、冷たい室内に反響する。
僕はその声にも動じず、砕けた窓からひと跳びにリビングへと躍り込んだ。室内は暗い。だが、芳香剤の甘ったるい香りと新築の木材の匂いが鼻を刺す。鼻腔を満たすその匂いすら、今は嫌悪を呼び起こすだけだった。
階上から足音。軽やかで急ぎ足──二人分。
次の瞬間、階段からパジャマ姿の男女が飛び出してきた。柿崎の父親と母親。
「な、なんだお前はっ! 警察を──っ!」
父親が怒鳴り、母親は青ざめた顔で悲鳴を上げた。
「きゃあっ……! 誰かっ、助けて……!!」
彼女は震える手で壁際のインターホンに手を伸ばそうとした。
僕は黙ったまま、彼らを見た。
薄暗いリビングの中、彼らの目にはまだ僕の姿ははっきりとは映っていない。だが、その輪郭は異様だったはずだ。
皿の欠けた頭部、泥と血に塗れた身体、獣のように爛々と光る目──
僕は一歩、前に出た。
「……ダレ……も、こな……ィ。タス……け……ムリ……」
どもり、濁り、崩壊したその言葉は、もはや人間のものではなかった。だが意味は、確かに彼らに伝わった。
父親と母親が僕の姿を認識した瞬間、彼らの表情が凍りついた。まるで、夢の中で怪物に遭遇した子供のような顔。
「う、うわあああああ!!」
母親の絶叫が夜の静寂を破る。父親が手近な花瓶を手に取って投げつけようとしたが、僕はすでに動いていた。
──殺戮の幕が、今まさに開かれようとしていた。
■
──何かが弾けた音がした。
頭の内側、脳のどこか深くに、破裂音が響いた。
柿崎俊の姿を見た瞬間、僕の視界は赤黒く染まり、呼吸が浅く、熱く、暴力的なリズムで身体を揺さぶった。
その前──僕はすでに柿崎の父親に飛びかかっていた。
男が反応するよりも速く、僕の右手が喉元を掴み、リビングの床に叩きつける。
「が……っ!?」
父親の目が見開かれ、苦しげに痙攣する。僕はその顔面を、何度も、何度も床に叩きつけた。
骨が砕ける音。鼻から、口から、血と何か白いもの──恐らくは砕けた歯か、脳漿の欠片か──が溢れ出し、やがて男はピクリとも動かなくなった。
その様子を見ていた母親が、ついに腰を抜かした。
「いや……いやあ……っ」
彼女は座り込んだまま、後ずさりながら壁に背を預け、声にならない悲鳴を繰り返す。
そのときだった。
「お、お母さん──っ!」
柿崎の叫びがリビングに木霊する。
階段を駆け下りてきた少年は、床に倒れ込むようにして立ちすくんでいた。目の前には、血の海の中で沈黙する父親の屍と、膝をついて震える母親の姿。
その場の空気は、凍りついていた。
柿崎の目が、僕を見た。
泥と血にまみれ、皿の欠けた頭を光らせる異形の姿──。
だが、柿崎の目に映ったのは、怪物などではなかった。
「……水島……?」
確信のような声だった。
その名を呼ばれた瞬間、僕の内側に残っていた最後の理性が崩れ落ちた。
「……か……き……ざき……」
口の中で言葉が泡のように崩れる。
しかし、その名前を発したことで、すべてが堰を切ったようにあふれ出す。
僕は、柿崎の母親の背後に立ち、震える彼女の肩に手をかけた。
悲鳴にもならない声が彼女の口から漏れる。
「お母さんっ! やめろ!! やめてくれ!!!」
柿崎が叫ぶ。だが、その声はもはや届かない。
僕の中で、怒りと哀しみと、果てしない虚無が混じり合い、殺意という名の奔流となって全身を突き動かしていた。
──柿崎、お前のせいで家族は壊れた。
──お前のせいで、僕は人間をやめた。
「……み……せ……て……やる……」
母親の喉に爪を立てる。その温かさ、柔らかさ、血が噴き出す感触。
僕の爪は肉を裂き、気管を断ち、咳き込むように泡立った血が彼女の口元から吹き出した。
「ひ……い、や……が、かっ……がぼ……っ」
目を見開き、何かを言おうとする母親の顔が、しだいに紫色に染まり、痙攣と共に力を失っていく。
その一部始終を、柿崎は見ていた。
彼の絶叫が、何度も、何度も夜に響く。
「うわああああああああああっ!!!」
僕はただ、笑っていた。
お前の家族が、僕の家族を壊した。
今度は、お前の番だ。
──地獄の始まりを、見せてやる。
赤黒く染まるリビングの中心で、殺意の頂点に達した僕は、静かに次の獲物へと顔を向けた。
──僕は、何のためにここまで来たのか。
その答えは、今この瞬間、目の前で泣き叫ぶ柿崎俊の姿にあった。
僕は迷わなかった。柿崎の父を叩き殺した時も、母を殺した時も。
それは決して衝動でも暴走でもない。冷たいほどの確信に満ちた意思だった。
なぜなら、この泣き叫ぶ少年──柿崎俊こそが、僕を河童に変えた元凶だったからだ。
「か……っ、き……ざき……」
口の中で呟いたその名は、腐った喉から溢れた呻きのような声となって響いた。
目の前で、柿崎は母親の死に叫び声を上げている。だが、僕にはその声が、何よりも心地よかった。
──そう、これでやっと、ほんの少しだけ、報われる気がした。
両親を殺すことに、迷いはなかった。
それは、彼らが柿崎俊という悪魔を育てた張本人だったからだ。
柿崎を生み、育て、何一つその残虐性に気づかず、あるいは見て見ぬふりをして育て上げたその罪。
親としての責任を果たさず、見下すような笑みを浮かべていたあの男。
怯えて泣き叫ぶだけの女。
その命を奪うことに、もはや躊躇など存在しなかった。
思い出すのは、あの放課後のことだった。
「おい水島、また一人で弁当食ってんのかよ」
「キモくね? カッパみたいな顔してんじゃん」
「おい、川にでも返してやるか〜!」
笑い声がこだました教室。誰も止めようとしない。先生でさえ、僕の訴えには曖昧な返事を返すだけだった。
その中心にいたのが、柿崎俊だった。
いつも最初に言い出すのは彼で、取り巻きたちは彼に合わせて笑い、僕を蹴り、殴り、物を奪い、破壊した。
姉のこと──整形だの、黒沢の名前──
そんなものは僕が河童になったあと、老婆の口から初めて聞いた。あの頃の僕は、ただ“自分”が笑われているのだと思っていた。
でも、今ならわかる。
彼らが笑っていたのは、僕の過去や家庭、存在すべてだった。
「う……、うわあああああああっ!!」
柿崎が泣き叫ぶ。その顔は、無垢な少年の仮面を剥がされた地獄の亡者だった。
だが僕にはそれが、滑稽で、哀れで、そして最高に愉快だった。
「か……ざ……き……」
僕は、一歩ずつ、血塗れの床を踏みしめて彼に近づく。
そして、僕の右手が彼の背後へとまわる──。
──もうすぐだ。もうすぐ、柿崎俊の尻子玉を抜き取る。
この手で、すべてを終わらせるのだ。
夜の闇が柿崎邸の庭を包み、砕けた窓から流れ込むアラーム音が空気を切り裂くように響いていた。
僕は血と泥にまみれ、歪んだ姿のまま、奴の背を追っていた。柿崎俊──この名前を、何度脳内で繰り返したか分からない。今夜、すべてを終わらせる。
奴はリビングを転がるように逃げ出し、僕が侵入してきた割れた窓から外へ飛び出す。ガラスの破片が柿崎の足に突き刺さり、悲鳴が上がった。
「た、たすけ……誰か……!」
無駄だ。ここには誰も来ない。来たところで、もう止められはしない。
僕は跳ねるように奴の背後を取り、異様に伸びた腕でその細い身体を叩き伏せた。
「か……き、ざ……き」
喉から絞り出される声は、もはや音とも言えず、唸りのようだった。それでも、奴には僕の意図が伝わったようだった。
「ご、ごめん、ごめんなさいっ……! あれは、悪ふざけだったんだ、本気じゃ──」
言い訳。いつもそうだ。都合の悪いことはすべて「冗談」で済ませて、笑いながら人を壊す。
僕は柿崎の身体を地面に押さえつけ、裂ける音とともにパジャマを破り捨てた。
「ひっ、や、やめろ、なにする気だ……っ、やめろおおおっ!」
奴の絶叫が響く。けれど僕の耳には届かない。僕の頭の奥では、血のように赤黒い殺意が膨張し、全神経を支配していた。
僕は手を伸ばす。肛門の奥へと。尻子玉──僕にとって、それはただの臓器ではない。
それは、奪われた尊厳そのもの。魂の象徴。復讐の証。
指先が、ぬるりと柔らかく蠢く感触に触れる。
「や、やめてくれ……ほんとに、ごめ……っ」
その声に僕は微かに笑ったかもしれない。僕の表情筋はもはや制御が効かない。歪みきった頬が痙攣していた。
僕は力を込めて引き抜いた。柿崎の喉から叫びが迸り、身体が跳ねるように痙攣した。
尻子玉を引き抜いた瞬間、血の匂いとともに粘ついた臓腑の臭いが辺りに広がった。
僕はそれを見つめた。
ドロリとしたそれは、命の核そのものだった。
「これで……終わる」
そして、僕はそれを──喰らった。
柿崎の目が、恐怖のままに見開かれたまま、静止した。涙と涎に濡れたその顔が、凍りついた。
やっと……やっとだ。
奪われたものを、取り戻した。
僕の最低限の復讐は、ここに果たされたのだ。
後は取り巻きだった奴らのみ。
もうすぐ、尻子玉を喰らった僕の身体は再生され不老不死になるのだ。
だがその直後、邸宅の外から甲高いタイヤの音とブレーキの悲鳴が聞こえた。警備会社の車が到着したのだ。
僕は一瞬振り返り、素早く柿崎邸から抜け出す。防犯アラームが鳴り響く中、誰もいないことを確認して、自分の家──かつての自室だった場所へと足を運ぶ。
今は、誰もいない自宅の中。
僕は血に濡れた指を見つめながら、静かに警備会社をまいた。
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