第2話
「雨なんだけど、最悪」
曇りきった窓の向こう、灰色の空から降る細かな雨が、アスファルトに落ちては淡く広がる。湿度を含んだ空気が室内にもじんわりと染み込んできて、どこまでも静かな空間が広がっていた。
なのに、つい口をついて出た文句に、周りの視線が一斉に集まり、あたしは思わず口元を押さえて俯いた。やっちゃった、と心の中で呟きながらそうっとその場を抜け出す。
昇降口に向かって歩きながら、数分のうちに止んでくれれば……という淡い期待を抱いていたけど、窓ガラス越しに見える雨脚はむしろ強くなっていた。
そして、今日に限って傘を忘れたことに気づき、あたしは小さくため息をついた。
友達はもうとっくに帰ってしまったのか、あたりには誰の姿もない。
濡れて帰るのは嫌だ。
メイクも髪も台無しになるし、そもそも濡れるのが不快すぎる。悩んだ末に、昇降口の片隅に置かれたビニール傘に目を止めた。
「こんだけあるんだから、ひとつくらい……使ってないのあるでしょ」
そんな軽い気持ちで、そのうちの一本を手に取った。名前も書かれていないし、忘れ物かもしれないし、と自分に言い訳を重ねながら。
だけど、翌日。
「あ。」
よりにもよって適当に選んだその一本に、使用者がいたらしい。朝、元あった場所に返しに来たところで、一枚のシールが貼られていることに気が付いた。
――
「あちゃー……そっちに名前あるパターン」
傘に名前が無かったからと油断していた。傘置きに書くタイプかと、肩を落とす。
謝ろうにも本人は不在で、何年生なのか何組なのかも分からない。得られたのは、名前からして女の子であることくらいだ。
「ごめんなさい…!」
見えない、知らない相手に謝って、傘を戻した。
そのタイミングで仲良くしてる友達と会えたからそのまま合流して、何人かで教室へと足を運ぶ。
数分後には記憶にも残らないような会話で教師が入ってくるギリギリまで盛り上がって、ただ聞き流すだけのホームルーム中。
「今日は、えー……あぁ。葉山が休みか」
気になる名前が耳に入ってきて、視線を窓の外から黒板の方へと向けた。
「体調不良な……みんなも、風邪には気を付けるように。今は梅雨だからな」
何気なく、ほぼ独り言みたいに呟いた教師の発言から、“葉山”という女の子が風邪で休んだ情報が手に入る。
もしかして――点と点が、線で繋がった瞬間。
「誰か、葉山にプリント…」
「っは……はい!あたし行きます」
反射的に手を挙げていた。
幸い他に名乗りを上げる人も居なくて、放課後に教師からプリントやら何やらを受け取って、住所も教えてもらえた。
その時に「仲良かったのか?」と怪訝な目を向けられたけど、それに対しては曖昧な笑みで誤魔化した。
葉山の家は、どこにでもある普通の一軒家って感じの所だった。同じような建物が並ぶ住宅地の中にあって、対応してくれた母親であろう女の人も気さくで良い人そうだった。
ただひとつ、気になることがあって。
「お友達?」
「あー……はい。まぁ、そんな感じです」
「ふふ、嘘つかなくていいのよ。文乃にこんな可愛い友達がいるわけないんだから。わざわざありがとうね。文乃なんかのために…」
「いえいえ」
過剰に娘を下げる人だなぁ……なんて。
まぁ、あたしの家も似たようなもんだし、どこの家もそうなのかな?自慢の娘です!って紹介する方が珍しいか。
湧いた疑問はすぐに消え、案内された2階の部屋に着くと、葉山母はノックも無しに扉を開けて招き入れてくれた。
突然の来客に驚いた少女がベッドの上で毛布に包まるのを見て、なんとなく胸が痛む。
まるで、人間に怯えた小動物みたいで。
「ほら、文乃。お友達がプリント持ってきてくれたよ」
「あ……うん…」
「ありがとうくらい言いなさい」
「あ、ありがとう、ございます…」
震えたお礼に対してどう反応したらいいのか迷い、口角を引きつらせた。
空気を読んでか葉山母は部屋を出て行って、ふたりきりになった空間で痛いほどの沈黙が耳を劈く。
「あー……元気?」
気まずさを消そうと声を掛けてみたら、相手は一瞬、何かを飲み込むようにして黙っていた。そのまま頷くことも返事をすることもなく、あたしの目をじっと見つめてきた。
その瞳の奥に、かすかな揺れがあった。潤んでいるように見えたのは、気のせいじゃない。
「え…」
今にも溢れそうな水滴は限界まで溜まり、泣く寸前にしか見えない女の子を前に、困惑と罪悪感の狭間で言葉を失いかけた。
「ねえ、大丈夫?どうしたの。あたしでよかったら、話聞くけど…」
できるだけ優しく、声を和らげて、そっと手を伸ばす。けど、それが裏目に出た。彼女は小さく肩を震わせると、あたしから一歩後ずさり、そのまま頭まで毛布を被ってしまった。
なんで泣くの……?
あたし、なんかした?
一連の会話で自分の何がいけなかったのか、考えてみても答えは見つからない。そりゃそうだ、だって彼女とは一往復も会話が成立してないんだから。
意味不明な涙に、正直イラつきもした。何も悪いことしてないのにって。
でも、
「大丈夫。…何も怖くないよ」
悲しいことに、あたしは知ってる。
「おいで、文乃ちゃん」
意味もなく流れる涙が、どれだけ苦しいのかを。
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