第3話
緊張から、早鐘が鳴っていた。
思いがけない来訪者に怯懦して、緊急の避難場所に選んだのは毛布の中だった。
顔だけ覗かせて様子を伺っていたら、相手はまず少しおどけた口調で挨拶を伝え、困り眉で気さくに微笑んだ。
頭の中では、たくさんの文字が流れ続けていた。
――お礼を言わなきゃ。1軍女子怖い。なんで彼女が私の家に?お母さんにまた怒られる。変なやつって思われたかな。早く、なんか。なんて言えばいい?何を話せばいい?何か言わなきゃ。なんでもいいから、なにか。
滝のように降ってくる言葉達は喉奥で止まり、吐き出したいのに吐き出せない気持ち悪さと息苦しさが首を絞める。
とめどない波が押し寄せて、足元から凄まじい勢いで溜まっていく。
振動しない声帯と震え上がる体が与える不快感や自分への不甲斐なさ。ありとあらゆる感情が内側で轟いて、最後には涙となって外へ出た。
「えっ……大丈夫だよ。泣かないで〜。大丈夫」
泣き出した私に彼女はギョッと驚いて、慌てながらも優しく声をかけてくれた。
毛布ごと包んでくれた腕の体温は伝わらない。だけど、皮膚の上には確かに抱かれている感覚があった。
風邪の熱と久しぶりの温かみでのぼせたように、頭の芯がふわふわしていた。
心地よさから、自然と瞼が落ちる。
毛布の中で緩い瞬きを繰り返して、彼女の声を聞き取ろうとする。音は届いているのに、意味がすぐに掴めない。ぼんやりとした視界の向こうで、毛布が捲られるのを見ていた。
目が合うと、金色の髪を耳にかけ、彼女は照れた笑顔を見せた。
「泣きやんだ?」
しまった。
弱みを見せたこと、そして何より子供みたいな対応をされたことを突きつけられた瞬間、情けなさと恥ずかしさが喉の奥をついた。
「ご、ごめん、なさい……」
搾り出すように出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。ほとんど聞き取れなかったはずなのに、相手は「ううん」とすぐに首を横に振って笑ってくれた。
「大丈夫。いきなりびっくりさせたよね、ごめんね」
こんなに優しく、どうして私に……?
頭のどこかでそんな疑問が浮かんでは消えた。それを問う勇気も、持ち合わせていなかったから。
落ち着きを取り戻した私の様子を見てか、小悪魔な見た目に反して女神みたいな包容力のある一軍ギャルは、体を離してベッドを降りた。
鞄から取り出したファイル一式を勉強机の上にそっと乗せて、振り向きざまにこちらへ声をかける。
「プリント、ここ置いとくね。あと、なんか欲しいものある?水とか…」
いらない、という意思表示として必死に首を横に振った。本当は声に出して「大丈夫」と言いたかったけど、それさえ言葉にできなかった。
だけど不思議なことに、彼女はそれでも、嫌な顔一つせずしばらくそばにいてくれた。
小さな椅子に腰を下ろして、「ちょっとだけ、ここにいてもいい?」と尋ねてきた時も、私はまた言葉に詰まった。今度は、首を縦に動かすこともできなかった。
それなのに、
「ありがと」
読心術でも使えるのか、察した彼女はお礼を伝えて腰を下ろした。
一瞬見せた寂しいような、影のある笑顔を目に、私の中の何かが静かに溶けた気がした。
それからしばらく、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
ギャルは手持ち無沙汰に自分の制服の袖をいじっていたり、部屋に積まれた本の背表紙を眺めたりしていたけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ、誰かが“そのままでいてくれる”ということが、こんなにも心を軽くするのかと、初めて知った気がした。
たとえ何も喋らなくても、ここにいていいんだと。逃げなくていいんだと。
涙が乾いていくのを、感じていた。
やがて時間が来て、「じゃあ、またね」と立ち上がったとき――私は反射的に、毛布の中から手を伸ばしていた。
彼女の腕の裾を、ちょんとつまむ。
驚いて振り返る相手と、視線が絡む。
体内から、また言葉がせり上がってくる。
言え、言って。
せっかく、伝えたいと思ったのに。今、逃したら、もう二度と――
「……あ、の」
しぼり出すような声が、やっと漏れた。
彼女が、目を見開いたまま、見下ろした。
「…………ありが、と……」
しっかりとした声じゃなかった。
「……うん!」
それでも、満面の笑みを返してくれた。
なぜだか、また涙が出そうになる。
でも今度の涙は、苦しさとは少し違った。たぶん、ほんの少しだけ、温かいものだった。
彼女が去って、部屋に静寂が戻る。
毛布の中、熱が少し引いた額に手を当てると、少し前までの混乱が嘘のように、気持ちは落ち着いていた。
さっきのことを、何度も思い返す。
声をかけてくれたこと、傍にいてくれたこと。
そして、最後に見せてくれた、あの――。
「?……なんだろ」
思い返すだけで、胸のどこかがざわついた。
これは、なんだろう。
分からない。分からないけれど、でも。
今度会ったときは、もっとちゃんと、目を見て話せたらいいなって……そう思った。
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