高校2年、梅雨

第1話







 雨雲がたなびく。


 湿度の高い、静寂の温度が保たれる室内でも、雨粒が木の葉に落ちては細い枝をしならせる心地のいい音が鼓膜を触った。


「雨なんだけど、最悪」


 誰かが呟く声は耳から耳へと流れ、バタついた足音が遠ざかっては、反響している。


 ひとり、またひとりと気配が消えていく中、眼下に広がる文字列の世界を見下ろし、自分の心音や呼吸さえ届かないほど意識をのめり込ませた。


 放課後の図書室。


 あるのは、本と私だけ。


 ひとりきりなはずのに、孤独を薄れさせてくれる壮大な物語に、感情移入の言葉はない。なぜなら主人公は勇敢で、ひたむきで、人望も厚い――とにかく、私とは正反対の人物だからだ。


 それでも、主人公の行動を追っていくうちに周りが見えなくなっていく。“私もこうなりたかった”から“まるで自分のようだ”と感じるまで、そう長くはかからなかった。


 現実の自分は、誰からも相手にされない空気のような人間だ。透明人間の特殊能力でも備わってない限り納得できないほど、影が薄い。


 内なる想いや湧き上がってくる感情、脳に浮かぶ言葉は山ほどあるのに、悲しいことに口が連動しない。


 故に、根暗で無口な陰キャのレッテルを貼られ、地味な見た目も相まって高校生になってからも友達はゼロ。


 消えることない寂しさと飢え続ける欲求から目を逸らすため、こうして創作の世界に逃げているというわけだ。


「あのー、もう閉めるんで」


 それさえも、雨水よりも冷たい声色によって引き戻されたが。


「す、すみ、すみませ……すぐ」


 謝罪ひとつ吃りながら、「早く出てけよ」と言わんばかりの視線から逃れるため、そそくさと本をしまい、鞄を肩にかけた。


 足早に出て行って、恥ずかしさと心苦しさに打ちひしがれつつ廊下を小走りで進む。その途中でふと冷静になり、「私、悪くないんじゃ…?」と思い始めるまでがセットである。


 図書委員の、あの迷惑そうな眼差し。そもそも図書室というのは本を読むために設置されているんであって、私は何も悪いことはしていない。


 時間も、放送が鳴ってないのに出て行けと言われるのはおかしい。だって、本来なら放送が鳴るまでは放課後に何をするのも許されているはずだ。彼はきっと、自分が早く帰りたいから私を追い出したんだ。


 くぅ、腹立つ。


 今からでも戻って文句のひとつでもぶつけてやろうか、などと威勢のいい思惑が頭を過ぎるが、これまでの人生で実行できたことはない。ただでさえ感情を言葉にするのが苦手なのに、できるはずもない。


 だから、我慢。グッと、堪えるしかできないのだ。


「あれ…」


 そしてこういう嫌なことがあった日に限って、さらに続くものである。


 モヤモヤを抱えた私が昇降口に着くと、あるはずの物が無かった。


「……誰か、持って行っちゃった…?」


 傘である。


 今朝のニュースで降水確率80%と、かなり高い数字を見かけたから持ってきたはずなのに、無い。絶対朝ここに置いたって場所に、無い。


 もはや、焦燥すらない。こんな私が濡れたところで、心配する相手もいない。


 空を仰げば、どんよりとした灰色が普段見える青色を覆い隠していた。隙間すらないことから、しばらく降り続けることは、容易に想像できた。


 ぬかるんだ土と、雨特有の匂いの中に、妙に鼻孔をくすぐる香りが残されていた。


 初めに感じたのはジャスミンのような甘美さで、後からムスクが抜けるような、甘すぎるのに不快ではない不思議な感覚がした。


 学校に香水を付けてくるなんて、おそらく1軍の陽キャ達しかいない。もしかしたら、雨が降っていたから留まってしばらく談笑していたのかもしれない。


 それにしても、嗅いだ覚えがあるようなないような…?


 既視感、この場合は既嗅感とでも表現した方が正しいだろうか。そんな日本語ないけど。


 一瞬だけ感じた違和に気が向くことなく、私は絶え間なく雨が降り注ぐ地面へと踏み出した。


 肌寒さが、水を吸った布と一緒にまとわりついてくる。今はただ、帰ってお風呂に入ることだけが望みだ。


「ただいまー…」


 玄関を開け、小さく喉を鳴らした。反応が返ってくることはなく、廊下を濡らさない努力を足の先に集中させて、忍び足で脱衣所へ向かった。


「あ。姉ちゃん」


 最悪だ、と。思わず顔をしかめてしまった。


「びしょ濡れじゃん。なに、傘持ってってなかったの」

「あー……うん」

「そっか。悪いけど俺が先に入るから、姉ちゃん後ね」

「う、うん」


 ふたつ年の離れた弟――大輝の言いなりになって、タオルだけ拝借して二階の自室へ戻った。


「私の方が濡れてたんだから、譲ってくれても……そもそも姉に対する態度がでかすぎない?弟のくせに…」


 とかなんとか。ブツブツ呟くものの、もちろん本人には言えない。だからこうして部屋にひとりになってから、誰に言うわけでもなく心の声を吐露している。


 制服から部屋着に着替え、本の続きに没頭した。逃げ道があるのは良い。こうしていれば大丈夫、脅かされない、安心。


 大きな感情の波が押し寄せると、うまく言語化できなくて溺れそうになってしまうから、なるべく穏やかな方がいい。問題も争いもない日常で、深く妄想や幻想に浸かり込むのがたまらなく落ち着く。


 だからなるべくなら、ひとりでいたい。誰にも侵食されない世界で、ひとり――。


「大丈夫。何も怖くないよ」


 翌日、密かな願いは見事に崩れ去る。


「おいで、文乃ちゃん」


 花の香りと、気さくな声。


 そして、心配げな優しい瞳が胸を貫いた。


 クラスでも目立つ1軍女子――御堂みどうさんとの接触によって。 






 

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