第3話 キャンセルの理由。

*このお話は、東京都内で不動産会社に勤務する私が経験した本当の話です。

よって、作中に登場する人物・会社名・地名などは仮名や仮のものだったり、

別の物に変更したりしている場合があります。

また、作中の描写から会社名や具体的な人物などを特定することはおやめください。個人などに関するするご質問にもお答えできませんので、あらかじめご了承ください*



 突然の姉の離婚と長野への移住。第2話でお話ししたご夫妻の売却理由。共通して「東京に居ると、嫌な予感がする」というものですが、私はこの時まで、これは単なる偶然と思っていました。


 しかしこの第3話でお話しするお客様の事例で、私はこれが偶然とは思えなくなってしまったのです。


 第2話でお話したお客様の物件売却の直後、以前から物件購入の問い合わせをいただいていた松浦さん(仮名です)の希望に沿った、都内の中古マンションが弊社で扱っていた物件として出てきたのです。


 ふつう、不動産屋が売りに出されている物件を仲介する場合には、専任媒介せんにんばいかい一般媒介いっぱんばいかいという大きく二つに分かれます。

 専任は弊社だけが独占して取り扱う物件で、一般は弊社の他に複数の不動産会社が同時に取り扱っている物件です。本当はより専門的な解説が必要ですが、長くなるのでここではこれ以上書きません。。どちらにせよ弊社が関与している物件、とお考え下さい。


 このお客様―、松浦さんは、30代半ばの女性でしたが、以前から弊社に「都内駅近、5階以上で1LDKくらいの中古マンション、予算3500万円くらいまで」という条件で問い合わせをいただいていました。


 すぐさま松浦さんにメールでご連絡しました。するとその日のうちに、是非内見ないけん(実際に物件を現地で見学すること)したいというお返事をいただきましたので、その週の土曜日に現地で待ち合わせをして、実際に内見することにしました。


 その物件は、都内の某駅から徒歩8分、地上6階建ての5階部分の1LDK、約42平米で、売主様の売却金額のご希望は3480万円でした。どれも松浦さんのご希望に沿った条件です。


 松浦さんは一度、弊社のオフィスに来店いただいています。マスコミ業界にお勤めということで、年収的には5000万円くらいの物件まで余裕で買えると思いますが、そこは堅実で、中古マンションで良いものがあれば新築でなくてもよい、ということでした。


 松浦さんはご結婚相手の理想が高いせいか、これまで独身を貫いてバリバリ働いてきたいわゆるキャリアウーマンです。現在は神奈川県に住んで都心に通勤しておられます。将来ご結婚されるにしても、そろそろ自分のマンションを都内に買ったほうが何かと便利で安心だから、というご希望だったのです。


 そのマンションは築こそ30年以上が経過していましたが、数年前に大規模リフォームを行っており、外観的にはかなり綺麗です。管理組合もしっかりしており、共用部分きょうようぶぶん、つまりエレベータやホール、郵便ボックスなどにもそこまで古さを感じさせません。

 部屋は15畳のリビングに6畳半の寝室がついています。タワーマンションほどではないにせよ眺望がよく、遠くには富士山の稜線りょうせんもうっすらと見えます。


 松浦さんはこの物件を気に入ってくださいました。正直私は、この物件は松浦さんが買わなくてもすぐに売れるほど良い物件だと思っていました。しかし、せっかくご希望にぴったりの物件があるのですから、不動産屋としてはぜひご縁のある松浦さんに買ってきいただきたいなと思います。


「すごくいい!ここに決めたいです!」


 松浦さんはすぐにそう仰いました。


「それでは、この物件は弊社のほうで抑えるので、他のお客様には紹介いたしません」


 という話になりました。すぐに売主様にもご連絡をし、売主様希望額ぴったりの3480万円ということで値段が確定し、売買契約までとんとん拍子で進んだのです。


 売りに出されているマンションを買いたいお客様がいる場合、その物件をほかの方にご紹介しない見返りとして、売買契約のとき、内金うちきんという手付金をお客様に払っていただきます。

 通常、内金は売買価格の約1割前後が相場です。このとき、松浦さんがマンションの所有者である売主様に払う内金は、300万円ということで決まりました。


 この内金は、マンションを買いたいというお客様が購入金額の一部を事前に売主様に払うことによって、一方的なキャンセルを防ぐという意味合いが含まれています。


 売買契約の後に、買い手の都合で一方的に契約がキャンセルとなると、売主様も、それを仲介する不動産屋も、それまで数か月かけてきた時間や労力がムダになってしまいます。そうするとせっかくの不動産の価値も下がるかもしれません。そうした不都合を防ぐために、内金という慣習があります。


 この内金が300万円だったとすると、物件の引き渡しの時には3480万円から内金300万円が差し引かれて、残りの3180万円を払うという仕組みになっています。ですので内金は売買価格の中に含まれる一時金のようなものなのです。


 しかし万が一、買主のお客様が契約をキャンセルすると、既に支払った300万円は売り主に没収されて返却されないルールになっているのです。

 つまり内金という慣習は、「不動産を買うという行為には、それだけの責任が伴う」ということを可視化かしかしたものでもあると言えるといえます。ですので内金を払った以上、もう後戻りはでききないのが普通です。


 松浦さんはすぐに300万円の内金を支払い、翌々月には物件の引き渡しが行われるという順調な契約の流れになりました。

 なぜ売買契約から物件の引き渡しに2か月以上もかかるのかと言えば、すべて法律的な理由です。そのマンションを持っていた所有者様から、新しい購入者の方に所有権などを移転する法的手続き(これを登記とうき移転手続きと言います)には、法務局とのやり取りなど、どんなに急いでも1か月半以上かかるからです。


 さていよいよ物件の引き渡し日まで2週間となったある日、松浦さんから私にお電話がありました。


「あのう、板花さん。たいへん申し訳ないんですけど、板橋のマンション。あれ、なしにできませんか」

「え・・・なし、と言うのは?」

「キャンセルということでお願いしたいんです」


 私は混乱しました。売買手続きが進んでいる以上、これがキャンセルとなると、すでに松浦さんが支払った300万円は放棄、つまり戻ってこないということになるからです。


「え、ちょっと待ってください。あのマンション、契約破棄にしたいということなんですか?」

「はい、申し訳ないですけど、契約をキャンセルしたいんです。もちろん、内金の300万円は返ってこないということは分かっています」


 私にとっては青天の霹靂です。ふつう、内金を支払った段階で、そのお金を捨ててまで、契約をキャンセルされるお客様は滅多めったにいません。何度も言いますが、売買契約後にキャンセルされると、その内金はすべて没収されるからです。


「松浦さん、何でここまで進んだご契約をキャンセルされるのですか。お考え直しはできませんか」


 私は焦りました。20代で宅建(宅地建物取引主任者)を取って不動産業界に入った私は、これまで数多くの売買を担当してきましたが、300万円もの内金を捨ててでも、契約をキャンセルしたいというお役様に出会ったのは、このとき初めての経験だったのです。


 松浦さんはキャンセルの理由については、「モゴモゴ」と言った感じで、要領を得ない感じでした。いったん電話を切ったあと、私はこのことを上司に報告しないといけません。


「あの、板橋のマンションの件で契約が進んでいます松浦様の件なんですが・・・」


 私は上司の宮部(仮名です)に言いました。


「内金放棄でキャンセルしたいという電話をいただいたのですが・・・」


 宮部は途端に飲んでいたコーヒーカップを落としそうになりました。


「はあ?契約後のキャンセルってどういうことだよ」

「いやそれが、私にも分からないんです。ただ、キャンセルしたいという強いご希望でして・・・」

「いやいや、この段階になって契約解除とか、ありえないだろ。なんだよ、融資の問題か?」


 宮部の言う「融資の問題」というのは、マンションを買うにあたって、多くの人が銀行などからの住宅ローンを組んでいることを指します。よほどの大富豪なら現金一括で支払うことができますが、そうでない限り、数千万円の不動産を買うお客様のほとんどは住宅ローンを組みます。


 この場合、松浦さんも頭金として支払う数百万円を差し引いた、残った金額の数千万円に関しては、銀行で住宅ローンを組んで、毎月数万円という金額を数十年に渡って支払う契約をします。


 ところがこの銀行などでの住宅ローンを通す際、ローンが通らないという人が少なからず居ます。それは年収が低かったり、過去にクレジットカードの支払を複数回滞納していたりなどの履歴が存在するなどの事情が原因です。


 しかし今回の松浦さんは、誰もが知るマスコミ業界の某社に勤めていますので年収的にはなんの問題もありません。クレジットカードの支払いも滞納していませんし、破産などの金融事故(いわゆる、ブラックリストに入るような借金の滞納や踏み倒しなど)も一切ありません。


 そもそも松浦さんのマンション購入にあたっては、大手の銀行からすでに住宅ローンの審査が終わって、無事に融資が決定しているのです。宮部の言う「融資の問題」は、松浦さんには起こりようもないのです。


「おい板花、すぐにお客さんのところに行って、理由を聞いてこい。絶対にキャンセルを阻止してこい」


 宮部は私にげきを飛ばしました。松浦さんが本当に契約をキャンセルするとなると、内金没収は当然ですが、弊社に入る仲介手数料がぜんぶ無くなることを意味します。不動産売買に関する弊社の手数料は、法律で売買価格の3% + 6万円+ 消費税と決まっています。


 つまり松浦さんがこの契約をキャンセルすると、売買価格の3480万円に対して、3%の104万4千円+6万円+消費税10%の、実に111万円の売り上げが無くなってしまうのです。


 実はこの金額は、マンションをお買い上げになる松浦さんだけでなく、マンションの所有者である売主様にも同じ金額をご請求できるのです。つまり、契約がキャンセルとなると、買主様、売主様双方から頂く111万円の倍、つまり222万円が弊社の利益ということになるのですが、これが丸々ゼロになるのです。


 私のような不動産屋としましては仲介手数料で利益を上げ、従業員がその利益から給料をもらって生活しているので、このような一方的なキャンセルは寝耳に水のことでして、絶対に阻止しなければならない案件でもあります。


 宮部からこう言われた私は、松浦さんと連絡を取り、すぐにお会いすることにしました。


「松浦さん、今回の契約をキャンセルしたいというお申し出ですが、再考することはできませんか」


 都内某所の喫茶店で対面した松浦さんは、キャンセルの意志は固いという雰囲気でした。


「本当にごめんなさい、でも、キャンセルでお願いしたいんです」

「しかし松浦さん、内金の300万円は戻ってきませんよ。300万円もの大金をお捨てなってよろしいんですか」


 松浦さんは意を決したように首を縦に振ります。


「何か弊社に不手際がございましたか。物件に気になるところがありましたか」

「いえ、全然ないです。あのマンションは本当に気に入っていたんです。私の希望にぴったりのマンションで、物件自体には何の問題も無いんです。それに板花さんにも熱心に契約まで担当してくれて、すごく感謝してるんです」


 飲みかけのアイスコーヒーのグラスに、水滴が溜まっています。


「じゃあ、一体どうしてですか。もしかして、会社をお辞めになるとか、そういう経済的な理由ですか」

「そんなんじゃないんです。お金の問題じゃありません」

「でしたら・・・」

「あのう、板花さん。正直に言いますけど、変に思われるかもしれませんが、本当のことなんですけど。・・・夢を、見たんです」

「夢?・・・というと、寝てるときに見るほうのですか?」

「はい、マンションの契約が終わってしばらくしてから、ときどきおかしな夢を見るようになったんです」

「といいますと・・・」

「東京でものすごく悪いことが起こる夢なんです。夢というよりは悪夢なんです。その夢の中で、私は契約した板橋のマンションに住んでいるんです。そこで私はリビングで紅茶を飲みながら、東京の街をぼーっと見ているんです。なぜか車の音とか、子供の遊ぶ声とか、ぜんぶの音が消えて無音になっていて、キーンっていう耳鳴りだけがどんどん高くなっていくんです。そうすると、毎回そこで目覚めるんです」

「・・・あの、それのどこが悪夢なんですかね・・・」

「・・・私にもよくわかりませんけど、すごくリアルで怖い感じがするんです。目が覚めるとこのまま東京に居たらいけない、東京から逃げないといけないって思って、汗びっしょりになってるんです。そんな夢が何回も続くんです」

「・・・そう、なんですね」

「はい、なので本当にごめんなさい。契約は無かったことにしてください」


 そこまで言われると、仲介する立場の私としては、それ以上説得することはできませんでした。


 宮部に松浦さんから伺ったことを話しますと、


「そんなふざけた理由でキャンセルだなんて、俺も不動産屋やってきてこのかた、聞いたことがないよ」


 と言われました。結局この物件は正式に契約キャンセルになったのですが、すぐに別のお客様がお買い上げになりましたので、弊社の損失は最小限で済んだのですが、私の中には、後味の悪い不気味な感覚だけが残ったのです。



(第4話に続く)

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