第2話 できるだけ山のほうに。

*このお話は、東京都内で不動産会社に勤務する私が経験した本当の話です。

よって、作中に登場する人物・会社名・地名などは仮名や仮のものだったり、

別の物に変更したりしている場合があります。

また、作中の描写から会社名や具体的な人物などを特定することはおやめください。個人などに関するするご質問にもお答えできませんので、あらかじめご了承ください*



 姉が離婚して長野に移住してから2か月ほどが立ちました。姉はああ見えてしっかりしているので、さっそく長野で服飾雑貨店の店員として働き始めました。また姉の娘、キッカちゃんも長野の保育園に預けることが出来たようです。

 姉との電話やSNSのやり取りの中で、姉が友人・知人も居ない、まったく新しい土地でそれなりに上手くやっていることが分かりました。シングルマザーとなった姉には、自治体からの給付金といった手当てもあるようです。案外、長野での新生活は楽しそうです。


 私はというと、日々変わらない不動産屋での勤務を黙々とこなしています。第1話で私が不動産業に身を置いていることは触れましたが、より詳しく書くと、不動産屋には大きく分けて二種類あります。


 ひとつは賃貸物件を取り扱うもの。ふたつめは売買を取り扱うものの二種類です。前者は、誰しもが身近に感じる不動産屋です。大家さんが所有するマンションやアパートなどを借主に紹介して、仲介手数料をもらうタイプの不動産業ですね。


 後者は土地・建物を売りたい・買いたいという所有者と買い手をマッチングさせて、その売買の際の仲介手数料をいただいくタイプの不動産業です。実際には、賃貸だけ・売買だけ、という訳ではなく、両方やっていたりしますが、私の勤める不動産会社は後者の、売買を専門とする会社です。


 ふつう賃貸マンションやアパートの契約は、数日とか数週間とかの期間で、結構早く決まります。とりわけ転勤、入学などが多い2月から3月がもっとも忙しいのは、皆さんも感覚的にお分かりかと思います。しかし、自分の持っている土地や建物を売りたい。あるいは土地や建物を買いたい、というお客様は、季節を問わず年中いらっしゃいます。


 土地・建物の売買は、月額賃料数万円の賃貸とは違って少なくとも数百万円、一般的には数千万円の金額が動きますから、物件の案内から契約の完了まで短くても数か月から半年、長ければ1年近くかかる場合もあります。もっと長く、2年・3年という場合も少なくありません。


 ですから私のような売買専門の不動産屋は1年中、あっちこっちに行ったりして、売主様、買主様、双方と密接にお会いする必要があるのです。

 不動産の売買業というのは、お客様と付き合う期間がとにかく長いので、それだけお客様の生活や人生に密着する頻度も増えるということになります。


 私の勤めている不動産会社は都内某所にあります。とりわけ私が担当するエリアは再開発があまり進んでいない、昔ながらの住宅地が広がる区域です。ここ数年、特に東京都内の不動産の価格は値上がり気味です。そのような情報はお客様もご存じでして、この際、値段が高いうちに自宅を売ってしまおう、という方からの問い合わせが非常に多くなってきました。


 これがニュータウンなどの新興住宅地だと、買ったばかりの自宅を売ろうという方はあまりおりません。お年を召して、土地の価格が上がり気味ないま、自宅を売却してまとまった現金が欲しい。そのお金で便利なマンションに引っ越したり、中には体調の関係で、養老施設に入るための支度金したくきんにするなど、自宅を手放すお客様の理由は様々ですが、とにかく自宅を売りたい。ついては物件の査定をお願いしたいという問い合わせは、毎日のようにございます。


 このとき私は、ご自宅を売却したいという武藤さんご夫妻(仮名です)からの問い合わせを受けて、現地に向かっていました。季節は暦の上では秋になりましたが、東京はまだ30度を超える残暑です。時刻は平日の昼間でした。


 最寄駅から徒歩15分ほど。閑静な住宅街の中に、その家はありました。大体私たち不動産屋は、現地の物件を見なくとも、土地の面積と立地で、物件のおおよその価値というのは事前に把握できるものです。


 ですが現実のところ、不動産の売買というのは人と人とが相対して行う、すごくアナログの世界です。不動産はテレビや車やパソコンと違って、その場所に「ひとつしか」無い、唯一無二の物です。同じものは世界に存在しません。


 ですから実際のところ、自宅を売りたいという売主様の人柄を対面して知るということは、不動産売買をスムーズに行うためには必須のことです。

 いくら人工知能が発達しても、売主様・買主様の人格を知らなければ、取引をつつがなく行うことはできません。数字上いくら価値があっても、住んでいる人の使い方やご事情で、不動産価格は変動するからです。


 例えば「借金返済などの都合で早く売りたい」というお客様のご自宅は、相場よりも安い値段で仲介しなければなりませんが、そうでない場合は強気の値段で仲介して、買主の方を募集することが出来ます。

 そのような事情はお客様に会って、お話を聞かないとわかりません。データや数字だけに頼ると上手くいかないのが不動産業界です。逆にそれが不動産屋の面白さでもあります。


 さて話を戻しますと、このとき私が向かった武藤さんご夫妻の自宅は、小さな庭に松やソテツなどといった植栽しょくさいが生い茂った、二階建ての一戸建てでした。そのお宅を見た瞬間、私は「これは高く売れる」と思ったほどでした。


 武藤さんご夫妻は共に70代の方です。お子様もとうの昔に独立し、現在は年金生活を送っているとのこと。室内も綺麗に使われていて、浴室やトイレ、キッチンなどの水回りも数年前にリフォームしたばかりとのことでした。


 住宅の中で最も劣化が激しいのは水回りです。水回りの配管は生活していれば必ずダメになっていきます。配管は住宅の土台や壁よりもはるかに早く劣化し、基本的には10年くらいの間隔で修繕しなければなりません。ですから、定期的に水回りを修繕=リフォームしているお宅は、それだけ不動産としての耐用年数が高いということになり、売却の査定にあってはプラスに働きます。


 武藤さんご夫妻は、本当に人柄の良い、穏やかな方でした。売却理由を聞くと、「この先の老後の生活を考えて、元気なうちに他県に移住して田舎暮らしをしたい」ということでした。


 東京から地方に移住される方は、ここ十数年で増え続けています。都会のごみごみした生活にうんざりしつつ、仕事があるうちは東京を離れることが出来なかったが、定年退職した後は自由気ままに過ごしたい。そうおっしゃるお客様は、珍しくありません。


 武藤さんご夫妻からお宅の売却依頼を正式に受けますと、ものの半月もしないで買い手が付きました。ご夫妻がお宅を買った時のお値段が約三千万円。ところが売却価格は約四千万円でした。二十数年このお宅に住んで、なおも約一千万円のおつりがくる計算です。

 もっともここから弊社の仲介手数料や諸経費を差し引く必要がありますが、それでもご夫妻にとって約数百万円の利益です。二十数年間、タダでこの家に住めた計算になります。


 物件の売買契約日、担当である私がご夫妻と新しい買主のお客様、それに法的関係を担当する司法書士の先生と同席し、めでたく売買契約完了となりました。ご夫妻は、想像よりも少し高くご自宅が売れたことを本当に喜んでいらっしゃいましたし、この家を買った買い手の方も、状態の良い中古の一戸建てを手に入れることが出来て、本当に良かったと言っておられました。

 売り手・買い手の双方が喜んでくださるのは、不動産屋としてはこれ以上ない幸せです。


 通常、売買物件の本契約は仲介する不動産会社のオフィスで行われます。ご自宅を売ったご夫妻は、そのまま自宅に帰られますが、私はご夫妻の年齢のこともあり、会社の車で送っていきます、とご提案しました。


「本当に良いお取引が出来て、重ね重ねありがとうございます」


 ハンドルを握る私は後部座席に座るご夫妻に申しました。


「いやほんとにねえ、板花いたはなさん(私の苗字です、仮名です)が、親身になっていただいたおかげですよ」


 と奥様は申されました。


「ところでお客様は、地方に移住されるとおっしゃってましたが、引っ越し先はどちらなんですか」


 なんの意図もなく私はそう奥様に聞きました。すると奥様は、


「長野なんです。もう物件も決めていて」


 と言うのです。私はこの時、きっとご夫妻が長野の別荘地などを買われるのかな、と思いました。ご存じの通り、長野には軽井沢を筆頭とした別荘地・保養地が数多くあります。


「そうですか。それは悠々自適の生活ですね」


 と私は笑いながら言いました。


「東京で暮らしていると、もう本当に毎日がせわしないっていうか。毎日ストレスが溜まってしょうがないですよねえ。私も田舎暮らしは憧れますが、なかなか東京から離れられませんよね」


 奥様は少し黙りました。旦那様も黙ったままです。・・・え?私は何か悪いことを聞いてしまったのかなと思いました。


「いえね。実は・・・」


 と奥様は言いました。


「私たちが家を売った本当の理由というのは、別に田舎暮らしに憧れているとか、そういうのじゃないんですよ。なんというか・・・。言葉にするのは難しいんだけど。このまま東京に住んでいると、すごく、悪いことが起こるような気がするの。それが毎日強くなってきて。だから、山で囲まれたところが安心だなって思って。それで東京から”出る”ことにしたのよ」


 旦那様も言います。


「いやね。女房がちょっと前から東京が怖い怖いっていうんだよ。私もね、そんなの気のせいだって思ってたんだよ。でもね、女房がどうしてもっていう内に、俺も怖くなっちゃってさ。なんか東京にいると、とんでもないことが起こるような気がするんだよね。そのとんでもないこと、っていうのが何なのかはわかんないんだけど。かなり悪い感じだよね。だから高く売れるんだったら、いっそのこと安心できるところに引っ越そうと思ってさ。だから売ったんだよ」


 ちょうど交差点の赤信号で停車した私は、途端に何も言えなくなりました。脳裏にはご夫婦とまったく同じ理由で長野への移住をした姉の姿が瞬時にフラッシュバックしました。


「悪いことが起きるような気がする、嫌な予感、って言うのは、いったい何ですか?」


 と私が問いただすわけにもいきません。そうなんですねえ、といって私はそのままご夫妻を送りました。しかし別れ際、奥様が私に言ったことが 記憶に焼き付いています。


「あなた。まだ若いんでしょ。独身?」

「ええ、はい。独り身ですが・・・」

「そう。だったら自由が利くでしょう。東京から逃げたほうがいいわよ。・・・今すぐにとは言わないけど。できるだけ山のほうにね」



(第3話に続く)

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