第9話 小さな足跡

白い霧が、静かに揺れていた。


 その中を、ミレアはゆっくりと歩いていた。足元には、小さな裸足の足跡が続いている。霧の底に飲み込まれそうなその足跡は、まるで「思い出して」と囁くように先へ先へと導いていた。


 感覚が、すこしずつ戻ってくる。


 空気の温度、衣擦れの音、肌に当たる微かな風。


 霧が薄れていくにつれ、目の前に小さな空間が現れた。


 それは、幼い子どもたちの教室だった。


 小さな椅子と机。壁にはカラフルな画用紙と、手形の並んだ貼り紙。淡いオレンジ色の陽が、カーテン越しに差し込んでいる。


「……ここ……知ってる」


 口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


 その一角、誰もいない机の陰に、白いワンピースを着た少女が座っていた。両膝を抱え、顔を伏せて、ひとりぼっちで。


 ——それは、紛れもなく幼い頃のミレアだった。


 彼女に声をかけようとしたときだった。霧がざわめくように揺れ、少女がゆっくりと顔を上げた。


 無表情。無感情。

 瞳は空っぽで、どこも見ていない。


「来ないで」


 その声は、鋭い針のように空間を震わせた。


「どうして、今さら?」


 ミレアは立ち尽くす。呼吸が浅くなる。少女の言葉が、刺すように胸に突き刺さった。


「あなたは、わたしを捨てた。感じることを、全部やめたの。痛いから、怖いから、寂しいからって、わたしをここに置いていったんでしょ?」


「……そう、かもしれない。でも……わたしは——」


「やめて!」


 少女の叫びが、空気を切り裂いた。


 教室が震える。窓が軋み、紙が舞い上がる。


「感じることなんて、しんどいだけ。誰かの声も、誰かの手も、優しさも……全部、偽物かもしれないじゃない」


 その叫びに、ミレアはただ立ち尽くすことしかできなかった。


 ——そうだ。

 彼女は、守るために“感じること”を捨てたのだ。

 優しさに裏切られたことが、確かにあった。

 泣いても誰も来なかった夜、絵を破られても誰も気づかなかった昼。


「わたしはね、あなたの代わりに全部引き受けたんだよ。だから、怖くなくなったんでしょ?」


「……ありがとう」


 ミレアの声は震えていた。


「ほんとうに、ありがとう。あなたがいたから、わたしはここまで来られた。でも——」


 ミレアは、そっと膝をつき、少女と同じ目線に座る。


「もう、一人で背負わなくていい。感じるのが怖いなら、わたしも一緒に怖がる。痛いなら、痛がる。一緒に泣いて、怒って、……そして笑おう」


 少女は、黙ってミレアを見ていた。


 その瞳に、ほんのわずかに揺れるものが見えた。


「……信じられる?」


「今すぐじゃなくていい。でも、もう一度……一緒に歩いてみない?」


 ミレアは、ゆっくりと手を差し出した。


 少女は、その手をじっと見つめる。


 その指が、わずかに震えながら——そっと触れた。


 けれど、それは“和解”ではなかった。

 触れたのは、ほんの指先だけ。すぐに手は引かれてしまう。


「……まだ、こわい。戻るのは……こわいの」


「……うん。いいよ。それでいい。だから、また来る。いつかまた迎えに来る。何度でも」


 ミレアは、微笑んだ。

 少女もまた、ほんのわずかに口元を動かした気がした。


 その瞬間、教室の風景が淡く滲み、白い霧へと還っていく。


 ミレアの胸の奥に、小さな温もりが残った。

 “痛みごと、受け入れる”という感覚。


 ——それが、癒しではなく、始まりであることを知っていた。


 やがて、霧が完全に晴れた先に、今度は深い青の光が広がっていた。


 そこには、ひとつの扉がある。


 その表面には、美しい文字でこう刻まれていた。


《共鳴》


 それは、他者と“感覚を重ねる”部屋。


 ミレアはその言葉を、そっと指先でなぞった。


「……誰かと、感じる……」


 独りごちたその声は、霧の名残を震わせながら、深く、迷宮に染み込んでいった。

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