第8話 優しい檻
白い扉は、これまでで最も静かに、そして優しく開いた。
軋む音ひとつなく、まるで風に誘われるように。
その先に広がっていたのは――“日常”だった。
小さな木造の部屋。
窓からは淡い光が差し込み、カーテンがふわりと揺れる。
木のテーブル、白いカップ。焼き立てのパンの匂い。
どこかで小鳥の声さえ聞こえてくる。
……現実よりも現実らしい、幻のような空間。
「……ここは……」
ミレアは、思わず息を呑んだ。
見覚えがあった。
これは、かつて彼女が住んでいた、郊外の小さなアパートの一室。
まだ感覚を捨てる前――
すべてを“ちゃんと感じて”生きていた頃の、生活の記憶。
けれど、どこかが違う。
ソファの位置がわずかにずれている。
本棚にあるはずの本が、一冊もない。
そして、そこに“彼”がいた。
背を向けて、台所に立つ男の後ろ姿。
見覚えがあるはずなのに、顔がどうしても思い出せない。
「おはよう、ミレア」
声だけが、鮮やかに響いた。
優しくて、柔らかくて、どこか支配的な声。
彼は振り返らないまま、コーヒーをミレアの前に差し出した。
「ねえ、もう忘れてしまったの? ここでの生活が、どれだけ“気持ちよかった”か」
その言葉に、ミレアの背筋がすっと冷えた。
“気持ちよかった”。
確かに、そうだった。
彼と過ごす日々は、やさしくて、ぬくもりがあって、何も考えなくて済んだ。
けれど、それは同時に――“自分を手放すこと”でもあった。
彼はミレアの代わりに決めてくれた。
食べるもの、着る服、観る映画、寝る時間……すべてを。
だからこそ、彼の手の中はあたたかくて、気持ちよくて、そして――
「檻だったのよ」
ミレアの口から漏れたのは、自分でも予想していなかった言葉だった。
男が静かに振り返る。
その顔は、ぼやけていた。
輪郭はあるのに、目鼻のすべてが霞がかって見えない。
でも、微笑んでいるのはわかった。
その笑みは、“おまえは何も考えなくていいんだよ”と語るようだった。
「ここにいれば、ずっと気持ちよくいられるよ。何も、考えなくていい」
ミレアの心が揺れる。
疲れ果てた体が、その言葉に縋りたがる。
でも、足元に目をやったとき、彼女は気づいてしまった。
床に、赤い蔦が、再び伸びていることに。
それはさっきの“熱”を持った蔦ではなかった。
今度は、冷たく、静かに、彼女の足首を絡め取ろうとしていた。
「……うそ。これは……“感覚を奪う”罠だ……」
ミレアが一歩、後ずさる。
男の笑みは変わらなかった。
ただ、ひとこと。
「君は、感じすぎるから、壊れてしまうんだよ。だから、もう感じなくていい」
その言葉に、ミレアの全身が震えた。
“感じすぎると壊れる”――それこそが、彼女がかつて感覚を捨てた理由だった。
誰かを愛して、失った。
世界の優しさと、残酷さを同時に知って、壊れた。
だから、もう感じないように、鈍くなるように、自分を閉じ込めた。
でも――
「それでも、私は感じたいの。ちゃんと、自分の意思で。痛くても、熱くても、それが“私”だから」
ミレアが叫ぶと、蔦は一瞬だけビクリと震えた。
そして、男の輪郭が、急激に崩れていく。
霞がかった顔が割れ、空気のように解けていく。
「やめておけばよかったのに。君がまた壊れても、僕は知らないよ」
その声だけを残して、男は消えた。
蔦も溶け、部屋の中の“ぬくもり”もすべて、風にさらわれるように消えていく。
残されたのは、無垢な白い空間。
そこに、新たな道が浮かび上がる。
足元に、誰かの足跡があった。
それは、小さな女の子のものだった。
ミレアは、ハッとする。
「……これは、私の……“過去”?」
足跡の先には、白い霧が立ちこめていた。
そこに、ミレアは一歩踏み出す。
今度は、“自分自身の記憶”に触れるために。
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