第5話 名前の記憶

――ミレア……そこにいるのか?


 聞き覚えのある、けれどすぐには思い出せない声だった。


 心の奥に爪を立てるようにして、その声は入り込んでくる。

 身体が一瞬、拒否反応のように強張り、次の瞬間には、胸がちくりと疼いた。


 誰?


 誰なの……?


 ミレアはゆっくりと立ち上がり、足音のする方へと振り返った。

 でも扉は開いていない。誰の姿も見えない。


 それでも、確かに“そこ”に誰かがいた。


「ミレア……」


 今度は、もっとはっきりと名前を呼ばれる。

 不意に、首筋がぞわりとした。


 鼓動が速まる。けれど、なぜか怖くはなかった。

 むしろ、その声に呼ばれることが、どこか懐かしく、許されるような気さえした。


 ミレアはそっと扉に手をかける。

 その瞬間、背後に気配が現れた。


「立ち止まらないで。まだ、あなたの“感覚”は終わっていない」


 アリュシアの声だ。けれど、それはやけに冷たく、張り詰めていた。


「……誰かが、入ってきたの?」


「ええ。でも、それはあなたにとって“答え”ではなく、“試練”になるわ」


 ミレアは言葉を飲み込んだ。

 今の彼女には、アリュシアの言葉が、まるで“予言”のように重く響いた。


 そして次の部屋――そこは、これまでのどの部屋よりも異質だった。


 壁も床も、まるで白紙のように真っ白で、無音。

 そして空気が、異様なほど“なめらか”だった。まるで触れているのに触れていないような、感覚の宙ぶらりん。


 足を踏み入れると、急に“音”が跳ね返る。


 自分の息遣い、足音、心拍音、それらがすべて、遅れて反響してくる。

 そして、不意に――


『ミレア』


 またあの声がした。


 今度は、はっきりと。まるで耳元で囁かれるように。


「……っ」


 ミレアの身体が跳ねる。


 音と気配が交錯し、彼女の感覚がまた激しく揺さぶられていく。


 そしてその声に導かれるようにして、ミレアの中に、ひとつの記憶が蘇ってきた。


 あの日、何もかもが壊れた日のこと。

 雨が降っていて、彼と喧嘩をして、最後に呼び止められて、でも振り返れなかった。


 そのとき呼ばれた“名前”。


 それが今、再びこの迷宮の中で、ミレアを追いかけてくる。


 あのときの声と、今の声が重なっている。


 ――彼なの?

 でも、どうしてここに……?


 心の奥が、じわじわと熱を帯びていく。


 彼女はゆっくりと、手を伸ばした。


 何かが変わりはじめている。

 “名前”が、ただの記号ではなく、自分を取り戻す鍵になりつつあった。


 その瞬間、部屋の奥に、新たな扉が現れる。


 けれどその扉は、今までのどの扉とも違っていた。


 黒い。重い。気配がある。

 そして――微かに、彼の声が漏れ聞こえていた。


「――待ってる、ミレア」

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