第4話 音に触れる

 第四の扉は、まるで深呼吸するようにゆっくりと開いた。


 静寂――そう思ったのは最初の一瞬だけだった。

 ミレアの耳に届いたのは、微細で、けれど確かに存在する“音”だった。


 水が一滴ずつ垂れるような音、薄布がこすれ合う音、誰かが遠くで息をするような音――

 それらが織り交ざりながら、空間そのものを震わせている。


「“音”は、体の内側まで入り込むの」


 アリュシアの声もまた、耳ではなく“心の奥”で響いてくる。


「触れなくても、感じられる。聞こえるだけで、震えてしまう。……そういう音があるのよ」


 ミレアは、半ば無意識に部屋の中心へと歩いていた。

 足音すら吸い込まれていくような静けさの中で、彼女の呼吸だけが、はっきりとしたリズムを刻む。


 そこにあったのは、ひとつの“椅子”。


 緋色のクッションが、まるで誰かを待っていたかのように、わずかにへこんでいた。


 ミレアが腰を下ろした瞬間、音が――変わった。


 服の擦れる音、髪の揺れる音、心臓の鼓動さえ、増幅されるように耳に届く。


 そして次に、部屋の天井から、透明な糸のようなスピーカーが降りてくる。


 ふと、耳に柔らかく入り込んできたのは、自分自身の“声”だった。


『やだ……恥ずかしい……そんなふうに、触れられたら……』


 それは、どこかで聞いたことのある、けれど確かに“彼女自身”の声だった。

 思わずミレアは立ち上がろうとしたが、椅子がぴたりと彼女の身体を包み、動きを封じた。


『もっと……ちゃんと、感じたいのに……』


 声が重なり、重なり、部屋全体が“彼女の感覚”で満たされていく。


「これは、“聴覚の記憶”を呼び出す装置よ」


 アリュシアがどこからか囁く。


「かつて言えなかった言葉。聞きたくなかった声。それを、自分の中から取り戻すの」


 ミレアは目をぎゅっと閉じた。

 でも、耳は塞げない。音は皮膚を通して、脳に直接届く。


 羞恥、恐れ、でも、どこか……安心感。


 “誰にも聞かれない場所”で、ようやく心がほどけていく。


 そして、唐突に音が止んだ。


 静寂の中にひとつだけ、異質な音が響く。


 それは――“誰かの足音”。


 ミレアははっと顔を上げた。

 扉の向こう。今しがたまで彼女が通ってきた通路から、確かに足音が近づいてくる。


 でも、そこにアリュシアの姿はなかった。


 誰かが、追ってきている。


 あるいは、誰かが、この迷宮に“後から”足を踏み入れた。


 音が止む。


 沈黙の向こうから、知らない声が、微かに呟いた。


「ミレア……そこにいるのか?」

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