第3話 香りの記憶
次の扉は、ひときわ重たく、ゆっくりと開いた。
そこに満ちていたのは、甘くて、どこか切ない香りだった。
焼けた砂糖のような匂いと、濡れた草のような湿気――懐かしさと羞恥が入り混じるような、不思議な香り。
ミレアは、部屋に足を踏み入れると同時に、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
どこかで、嗅いだことがある。いや、誰かに抱かれた時に、香ったような……。
「“嗅覚”の部屋よ」
アリュシアが、すぐ後ろで囁いた。
「香りはね、記憶を引きずり出す鍵になるの。とても個人的で、だからこそ……えぐるのよ」
部屋の中心に、小さな噴霧器のような装置があった。
そこから断続的に、さまざまな香りが放たれ、空気に溶けていく。
甘い香り、すっぱい香り、焦げたような香り。
ミレアは、そのたびに感情の波が押し寄せてくるのを感じた。
ふいに、ある香りが鼻先をかすめた瞬間――
脚が震え、腰が抜けそうになる。
それは、幼い頃、母の胸に顔をうずめた時の香りだった。
優しい柔軟剤の匂いと、あたたかな肌の匂いが混じっていて、涙がこぼれそうになる。
でも、それは同時に、失われた時間の香りでもあった。
自分がそれを“嗅げない”存在になったことを、痛みとして突きつけてくる。
ミレアは膝をつき、顔を手で覆った。
「思い出したくないのに、体が覚えてる……」
「感覚は、理性よりも先に、“わたし”を引っ張り出すからね」
アリュシアが静かに言う。
「大丈夫。ミレアは、ちゃんと“感じられてる”。それだけで、前に進んでるのよ」
そう言って、彼女はミレアの背中に手を添える。
するとまた、別の香りが漂った。今度は、ほんの少し甘くて、湿った――
「なに、これ……」
思わず、ミレアの頬が赤くなる。
それは、自分の肌が火照ったときの匂い。
羞恥や高揚が混じった、誰にも言えない“熱”の香りだった。
ミレアはそっと目を伏せ、震える指先で装置の中心に手を伸ばす。
この香りの奥に、自分の何があるのかを知りたかった。
部屋が微かにうねるように、呼吸を始めた。
香りが、感情を揺らし、感覚を呼び起こし、
ミレアの“わたし”を、また少しだけ取り戻していく。
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