第6話 黒い扉の向こう

その扉だけは、他と明らかに異なっていた。


 黒く、重々しく、そして“熱”を帯びていた。

 ミレアは、ほんのわずかに指先を近づけただけで、扉の表面からじんわりと温かさが伝わってくるのを感じた。


 まるで、誰かが扉の向こうで、彼女を待っているかのような。


 いや、“実際に”待っているのだ。

 さっき聞こえた、あの声――「待ってる、ミレア」。


「……どうして……?」


 自分に問いかけるように、声が漏れる。


 この迷宮に来たのは自分ひとりのはずだった。誰にも話していない。

 それでも、誰かが自分の名を呼ぶ。

 それが“彼”なのだとしたら――なぜ、今ここに?


 けれど、扉を前にした今、引き返す理由もまた存在しなかった。


 ミレアはそっと、扉に触れた。


 ……熱い。


 けれど、火傷するほどではない。

 むしろ、それは“ぬくもり”だった。


 扉は、音もなく、ゆっくりと開いた。


 中は、柔らかな光に満ちていた。

 白と黒が混ざったような、曖昧な色。

 視界がぼやけて、境界線が曖昧になる。


 その中心に、ひとりの青年が立っていた。


 長身で、少し猫背。

 黒髪はやや伸びていて、眼差しはどこか疲れている。

 でも、彼の目がミレアを捉えた瞬間だけ、ほんの少し微笑んだ。


「……やっぱり、君だったんだな」


 その声を聞いた瞬間、ミレアの中の“記憶”が弾けた。


「リオ……?」


 呟いた名前は、自分でも驚くほど自然に口をついて出た。


 彼――リオは、かつてミレアの恋人だった。


 けれど、別れた。

 理由も、きっかけも、あいまいなまま。

 ただ、お互いに“触れたくない場所”がありすぎて、距離ができてしまった。


 なのに、なぜ今、彼がここにいるのか。


「驚いたよ。……君が、この迷宮に入ったって知った時は」


「どうして、ここに……?」


 ミレアは一歩、リオに近づいた。

 けれど彼の姿は、どこか“本物”ではないようにも見えた。


 熱を持っているはずなのに、触れられないような。

 言葉を交わせるのに、距離が埋まらないような。


「君の中にある、強い“感覚”が、俺を呼んだんだと思う」


「……感覚が?」


 リオは頷いた。


「君の中に残っていた、俺との記憶。温度。音。……それが、この迷宮の中で、形を持ったんだろうな」


 つまり、目の前にいるリオは――彼女の“感覚”が生み出した存在。

 記憶の残滓。心のどこかに焼きついた、未練と、温もり。


 ミレアはふと、涙が出そうになるのを感じた。


 忘れたはずだった。

 忘れたかった。


 けれど、“体”は忘れていなかったのだ。


 リオの手の温度。

 名前を呼ばれたときの安心感。

 唇が触れた瞬間に感じた、“全てを許されるような感覚”。


「……私、まだ……あなたに、触れたかったのかな」


 震える声で、ミレアがそう言うと、リオはただ一言だけ返した。


「それが、答えだよ」


 彼の姿が、徐々に淡くなっていく。


「次の扉は、“最後の感覚”に繋がっている。君が、それでも進むなら――」


 そこまで言いかけて、リオの姿は霧のように消えた。


 部屋には、再びミレアひとりが残された。


 けれど今、彼女の胸には、はっきりとした熱があった。


 “感じたい”という、強くて、正直な衝動。


 そしてその前に、新たな扉が現れる。


 真っ赤な扉。

 “熱”の奥にある、“痛み”を連想させる色。


 ミレアは、静かに息を吐いた。


「行くよ、リオ……。ちゃんと、全部感じる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る