第七話「無音の煙」

「……う、うぅ……っ!」


 派手な指輪で飾られた男の手からがつん、と私のスマホが滑り落ちた。

 彼は頭を抱えてぶつぶつと「何故だ」「うまくいっていたのに」と呟き始める。……何故も何も、あなたが裁かれるようなことをするからだと思うのだけれど。


「緊急申請が承認されれば、 近隣の特例処罰執行官達に殺害依頼の通知が入ります。……あなたが殺されることはありませんけど、裁きから逃げられるとは思わないでくださいね。」


 『緊急登録申請』は、申請を行う端末の現在地が逆探知されるシステムになっている。そして対象者の登録が確定すれば、特例処罰執行組織の関係者達にその位置情報と対象者の情報が共有される。これは、今の私のように窮地に陥った特例処罰執行補佐官が、近くの特例処罰執行官に助けを求めるためのシステムとしての役割も担っているからだ。

 宮坂さんも林道さんも、私達がここで動いていること自体は知っている。申請が通りさえすれば状況を察してすぐに駆けつけてくれるだろう。そうすれば、美友さんは無事に自宅へ帰れるし、……小野里さんだって、生きてさえいれば助けられるはず。根津さんは当然として、刈谷さんもセキュリティルームにあった証拠を元に裁かれることになるだろう。……自力で解決できないのは悔しいけれど、優先すべきは私のちっぽけな意地なんかじゃない。

 だからと言って、こちらが追い詰められている状況であることは変わらない。それでもせめて、少しでも動揺して隙を見せてくれたら……。そう思って発した言葉だったが、返ってきたのは想定とは異なる反応だった。


「だ、だったら……だったら今すぐそいつらを呼んでくれ!私は――っ!!」


 怒るわけでも、逃げようとするわけでもなく、がしっと私の肩を掴み必死の形相で訴えてくる。しかしその言葉を最後まで紡ぐよりも先に、彼はなにかに気づいたように目を見開き、私から手を離してじりじりと後ずさる。


「あ、あぁ、ああぁあぁぁあぁああぁぁ……」


 尋常ではない様子で震えだした彼は、私が何か言う間もなく弾かれたように走りだし……叫びながら、全身で激突した。そして、まるでそこに扉があるかのように、どんどんと壁を叩き始める。


「い、嫌だ!私はまだ、死にたくない!開けろ!開けてくれぇぇぇ!!」

「うるせェなァ……契約を破ったのはテメェだろォが……」


 ドスの効いた低い声が、先程からずっと黙りこくって立ち尽くしていた殺人鬼の口から漏れだした。完全に優位でいた時の愉しげな声とはまるで異なる、おぞましさを感じさせる声。ゆっくりと顔を上げたその男の視線は、私達ではなく刈谷さんのほうに注がれていた。恐らく彼に異能を使って、そこに逃げ場があるように見せているのだろう。……さっき、私と美友さんにやってみせたように。


「俺はテメェの邪魔者を『ついでに』殺してやる。その代わりテメェは整えるって契約だったろ。俺がノーリスクで殺せる環境をよォ……」


 苛立ちのにじむその声で語りかけながら、彼はゆっくりと刈谷さんの方へ足を進める。……私や美友さんをあっさりと視界から外して。

 ――今しかない。

 私は後ろで固まっている美友さんに目配せし、できるだけ物音を立てないように恐る恐る、彼の後ろへ回り込むように出口の方へ近づいていく。


「なのに、この状況はなんだァ!?この俺が!逮捕どころか、賞金首だァ!?話が違ェだろォがァ!!」


 ダンッと足を踏み鳴らして怒鳴り始める根津さん。その剣幕にひぃっ、とか細い悲鳴をあげ、壁際で崩れ落ちるようにして縮こまる契約主の姿には、最初に私たちの前に現れた時の余裕や威厳は欠片もなかった。

 ヒートアップしている今なら多少の物音は気づかれないはず。美友さんの背中を軽く押して部屋から出るように促せば、彼女は数歩駆け出して……しかし部屋を出る直前で足を止め、心配そうにこちらを振り返る。大丈夫、と私が頷いてみせれば、今度こそ廊下の先へと姿を消した。後は私もこのまま走り去ってしまえば、身の安全を確保できる。だけど……

 未だなお喚き続けている彼の方に視線を戻す。その手に握られたサバイバルナイフは、刈谷さんへの殺意を込めて握られていた。


「テメェのせいだ!テメェのせいで俺は『正体不明アンノウン』じゃなくなる!殺し屋共にこぞって命を狙われる!!テメェに関わりさえしなきゃこんな事にはならなかったってのによォ!!」

「――違いますよ。」

「……あ゛?」


 怒声と共に振り上げられたナイフがぴたりと止まり、彼の威圧的な目がじろりとこちらを向いた。

 その向こうでは顔面蒼白になった刈谷さんが助けを求めるように私を見ている。小野里さんなら、「ほっとけばいいじゃん」と面倒そうに言うのだろう。確かに彼は、このままこの殺人鬼に殺されたって自業自得だと言えるほどの罪を重ねている。ここで殺されなかったとしても、死刑に処される可能性だってある。

 ――だとしても、彼に罰を下すのは決してこの人なんかじゃない。


「あなたが罪を犯したことも、その罪に対する罰が下されることも全て、他でもないあなたの責任です。……他の誰かに、責任転嫁していい事じゃありません!」


 そう叫んだ途端――この部屋に満ちる全ての悪意が、私一人に矛先を変えた。ぎょろり、と血走った目が私を睨む。


「テメェ、この俺に舐めた口聞きやがって……!元はと言うと、テメェが……!!」


 途端に奔る違和感と、全身に鳥肌が立つ感覚。咄嗟に身を引けば、ナイフの切っ先が風切り音を立てて目の前を掠めていった。……もし一瞬でも遅ければ、首を裂かれて死んでいた。現実として迫っていた死の恐怖に思わず息を飲む。

 少しよろけながらも踏ん張って耐えた私を見て、彼の顔がますます怒りに染まった。


「なんッで動けんだァ!動いてんじゃねェよ!!一発で殺せねェだろォが!!」


 恐らく彼は、異能で私を『動かないように』仕向けたつもりだったのだろう。

 しかし彼のような、個人の感情や感覚などに干渉するタイプの異能……俗に『知覚タイプ』と分類される異能なら、一度『痕読み』で視てしまえばもう私には効かなくなる。身を引く直前の違和感は、誰かの異能が私に届く前に霧散する、あの瞬間に感じるものと同じだった。

 このまま彼の攻撃を躱して、逃げて、時間を稼ぐ。それが私に出来る最善の――これ以上この男の思い通りにさせない為の手段だった。


「……あ?待てよ……そォか……」


 しかし不意に、根津さんが何かに気づいたように呟いた。

 徐々に吊り上がる彼の口角に比例して、膨らんでいく嫌な予感。最大限に警戒したいのに、先程使った異能の反動で滲む視界が煩わしい。


「なんだよ……くくっ。もう『アンノウン』の模倣に、こだわる必要なんかねェンじゃねェか……。」

「? 何を、言って……」


 喉を鳴らすようにして笑いながら語る声が、徐々に狂気と興奮に満ちたトーンに変わっていく。その雰囲気に気圧されて一歩下がろうとした瞬間。


「――ッあ、っぐ……!?」


 突然伸びてきた手にガッと胸倉を掴まれ、反応する間もなく部屋の奥側の壁へと投げるように突き飛ばされた。受け身も取れずに転がり、コンクリートの床と壁に激しく体を打ち付ける。


「何も一撃で終わらすこたァねェんだ……見た奴全員が恐怖でチビっちまうぐらい、思いっきり痛めつけて、刻んで、壊して……」


 ゆらり、と不気味に揺れながら彼が近づいてくる。倒れたままではいられない。痛む体に鞭を打ち、床に手をついて体を起こす。


「どいつもこいつも『見せもん』にしてやりゃァ、『俺』が最恐の殺人鬼になるはずだよなァ!!」

「ッ、い゛っ……!」


 その手を、革靴で容赦なく踏みにじられる。骨が折れそうなほどの痛みに顰めた顔を「痛いかァ?」と身をかがめて愉快そうに覗き込んでくる。その問いには答えないままキッと睨み返し、彼の思い描いた最低の未来を否定する。


「っ、そんな事、実現する前に捕まるのが関の山です……!」

「ハハッ、捕まらねェよ!その為に使える異能を俺は持ってんだからなァ。……お前に効かなくなったのはビビったけどよォ、あのデブには効くってこたァ……効かねェのはお前だけなんだろ?」


 私を嘲笑う彼に一瞥され、今にも泣きだしそうな顔の刈谷さんがびくっと肩を跳ねさせた。彼はどうにか立ち上がろうとするも、完全に腰が抜けているのか、何度もお尻を上げては再びぺたりと座り込んでしまうのを繰り返している。


「だったらお前を殺しちまえば、俺を止められる奴なんざ居ねェよなァ!?なんで俺は今まで気づかなかったんだァ……?殺すも逃げるもこの異能さえあれば俺の思いのままにできるってのによォ!」


 どうにか彼の靴の下から手を引き抜こうと必死に力を入れるが、体重をかけて踏まれた左手はびくともしない。ミシミシと骨が悲鳴をあげ、あまりの痛みに声も出せずに歯を食いしばる。


「なァ。お前……大戦犯だぜェ?お前の下らねぇヒーローごっこが、史上最悪の殺人鬼を世に送り出すことになるんだからなァ!!」


 どこまでも歪んだ悪意に満ちた、凶悪な笑みが私を見下ろしている。

 ――これは本当に、私達と同じ人間なんだろうか。どんな環境で、どんな経験を踏めばここまで醜悪に歪めるのだろう。……死ぬ事よりも何よりも、得体の知れないその歪みが、震える程に――怖い。


 ヴヴーッ。


 聞き慣れた振動音に、ハッと目が吸い寄せられた。ちょうど踏まれている手の近くに落ちている私のスマホ。その画面には、『根津 孝至』を正式に特例処罰執行対象者として登録した、という旨のメッセージ通知が表示されていた。

 これできっと宮坂さん達が助けに来てくれる。そう思った次の瞬間、再びスマホが振動を始めた。画面には『林道千智』の文字。電話だ。現状確認の為だろうか。慌てて右手を伸ばしてスマホをとろうとするも、左手を踏んでいた革靴がそれよりも早くスマホを踏みつける。そしてゴミを払いのけるかのように、部屋の真ん中のほうへと蹴り飛ばしてしまった。


 ゴッッ


 そうして振り上げたその足が、そのまま――容赦なく私の頭に叩き込まれた。一瞬、視界が白く爆ぜて、私は背後の壁にもたれるように倒れこむ。


「チッ。ありもしねェ希望にいつまでも縋りやがって……。」


 ヴ―ッ、ヴ―ッ、と着信を告げるバイブレーションが、スマホを少しずつ動かしている。


「お前はただ殺すだけじゃつまんねェよなァ……。まずは手の指を順番に一本ずつ落としていって、その次は足だ。テメェの体が先っぽから順番に、バラバラに分解されてくザマをよォく見せつけてやるよォ!!」


 ナイフの切っ先が私に向けられた。未だ鳴り続けるバイブレーション。男の哄笑。全身の痛み。――ああ、もう、だめかもしれない。私はぎゅっと目をつぶった。


 ヴ―ッ、ヴ―ッ、ヴ


 ……その時、不自然に音が途切れた。


 着信が切れた……のとも、何か違う。それよりももっと、こう……。

 恐る恐る目を開けてみる。勝利を確信した男は天を仰ぐようにしてげらげらと笑っていて――その向こうにある私のスマホは静かに振動していた。


(これ、って――)


 思わず異能を発動する。確かめるように、ほんの少しだけ。その直後、緑のラインが入ったスニーカーが音もなく私のスマホを跨いで現れ、黒い煙のような波紋をふわりと広げた。


 その人は、異質な空気を纏っていた。

 体の周りに真っ黒な煙――異能の残滓を漂わせて。

 見えているのに、そこに居ないかのような異様な気配で。

 一歩、また一歩と、死神のように、まだ何も気づかない男の背中に近づいてくる。バタフライナイフがくるりと展開。開閉する音の代わりに、また黒い煙が波紋のように広がった。

 『あの時』と同じ、不自然な静寂。その中心に立つ、その人の姿に目を見開く。だって――それは、あまりにも見慣れた姿だったから。


「――僕を越えるとか言うのは勝手だけど、それにしちゃお粗末なんじゃない?」


 小馬鹿にするような、半笑いの煽り声。根津さんにとって誰もいるはずのない場所から聞こえたそれに、彼はさっと表情を強ばらせ、振り向いて――


「見せてあげるよ。――『本物』のやり方を。」


 思考すら許さないその一瞬。その人が――小野里七華が、ナイフを一閃、振り抜いた。根津さんの首が鮮やかな血を吹き出して。膝が折れて、力無く地面に倒れ込み……そして、世界は音を取り戻す。

 その呆気ない終わりはまるで、『あの日』のデジャヴだった。


「あはっ、馬鹿だよねー。殺し方にあれこれこだわっちゃってさ。サクッと殺してさっさと逃げなきゃすぐ捕まるに決まってるじゃん。……ねぇ?」


 人を殺した直後とは思えない程軽い調子で笑う小野里さんが、刈谷さんの方に目を向ける。わなわなと動く彼の口元からは声にならない声がわずかに漏れ、双眸からは涙が零れている。

 彼女はくるりと踵を返すと、返り血のついた顔に凄惨な微笑みを浮かべ、彼の方に向かって歩いていく。


「っ、だめ、その人は――!」


 私が慌てて制止しようとした時には、小野里さんはもう彼の目の前にしゃがみこんでいた。

 そしてその喉元に血に濡れたナイフの切っ先を突きつけて――しかし、私が懸念したような事は怒らなかった。


「よかったねぇ、おじさん。……ここに来たのが昔の僕なら、今ごろ君も死んでたよ?」


 一瞬だけ、目を細めて、ワントーン低い声で。

 ついに刈谷さんはぐるりと白目を剝き、泡を吹いて倒れこんだ。それを見てあははっ、と声を上げて笑うといつものようにナイフをくるくる回し、パチンと閉じてズボンのポケットにしまう。そして、再びこちらを向いた彼女は私のスマホを拾い上げると、『あの日』と全く同じ構図で私にスマホを差し出した。


「通報は美友さんに頼んどいたよ。でも一応、千智くんにも電話しといたほうが良いんじゃない?」


 画面に表示されているのは、一一〇番の発信画面ではなく『不在着信 一件』の通知。きっと心配されている。彼女の言うとおり、折り返しはしておいた方がいいだろう。

 でも、それよりも……私はまず、もう答えなんてわかりきっている問いを、口にせずにはいられなかった。


「……あの、小野里さん。」

「ん?」

「まさか、あなたが……あなたが、『アンノウン』、だったんですか?」


 声が震え、泣きそうになる。だって、だって……それって、つまり。

 私の問いに、小野里さんはニヤッといたずらっぽい笑みを浮かべて、『答え』を返す。


「……『僕』のこと、信じてくれてありがとね。『アンノウン信者』さん?」

「~~っ!!!」


 今まで散々、『アンノウン』のことをこれでもかと言うほど褒め称え、どんなに立派な人だったかを繰り返し伝えてきた。宮坂さんに。林道さんに。そして……今までずっと、『指導』を繰り返してきた相手である、小野里さんアンノウンに。

 自分の顔に急速に熱が集まるのを自覚しながら、私は声にならない悲鳴をあげたのだった。

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