第12話 風狂

 ひとしきり泣いた後にフロリンダをおそったのは、魂が抜けたような放心状態だった。

 寝台に上半身を投げ出したまま、へたり込んだような姿で、いつも枕元にあるウサギのぬいぐるみを手でもてあそぶ。

 幼い頃からの、寂しい時のくせ

 女王からもらった、眠りの優しい友だち。

 もう覚悟を決めて動かなければと思いつつ、身体からだが動かない。

 プリムラがお茶を持ってくる前に、気を取り直さなければならない。

 これから続く長い時間を、独りで生きていくと決めたのだから—―――。

 フロリンダは何とか手を動かして、スカートのポケットを探った。

 何か動き出す取っかりになるものを求めて、指先が魔法でつなげた空間を彷徨さまよう。

 角張かくばった感触の何かが、手に触れる。

 取り出すと、美惟那ミイナから受け取ったアラベスクの小箱だった。

 朝の柔らかな光を受けて、緑を基調きちょうにした装飾に銀の艶を見せる小箱をベッドの上に置いて開けると、柔らかなシタールの旋律せんりつが流れ出てきた。

 心に染み入るような切ないその音に、フロリンダは目を閉じて聞き入る。

 微かな鈴のような音を立てて、羽が虹の光を放った。

 き立つように、徐々じょじょに気力が回復してくる。

 胸を震わせて心のささくれをいやかなでは、確実にフロリンダの気力を回復させる。

 —……美惟那姫の才は、やはり稀有けうなものだわ……。

 フロリンダは身を起こし、立ち上がった。

 アラベスクの箱を手に、階下直通かいかちょくつう通路つうろとなる満月模様の上に立つ。

 衣裳部屋に降り立ち、しかし着替きがえずに、フロリンダは飾りたなに収納してあった、エフォリアからおくられた薔薇の髪飾りをつけた。

 それは、レイを風の宮にかくまった日に、髪にかざっていたもの。

 アイスブルーの薔薇も、組み合わされた白いレースの細いリボンも、レイを思い出させる色だった。

 胸はまだ千切れるように痛むが、それもいいとフロリンダは思う。

 この胸の痛みさえ、彼を想ったあかしならば愛しい。

 この痛みと、共に生きるのだ。

 誰かを愛するということは、強い覚悟かくごともなううのだと、思い知った。

 フロリンダは軽く指を回し、髪飾りに術式じゅつしきを込める。

 —……リスクヘッジは、多いほどいいわ。

 白地に曲線的な意匠いしょうほどこしたふちを持つ、美しい全身鏡の前に立つ。

 高いえりそでふくらんだ純白のブラウスに、ラベンダー色のジャンパースカート。

 襟の中央には、氷の結晶を宿したブローチ。

 恋した人が残した心。

 それに、女王から授かった継承けいしょうあかしである剣ソラス・アリギド銀糸の光を、魔法でひもづけた。

「待ちの姿勢しせいは、私らしくないわ」

 み上げのパンプスを脱ぎ捨てて、アイボリーのニーハイブーツにき替え、より動きやすい足元にする。

 耳飾りを確認し、最後に自分の頬をぱちんと両手で軽く叩く。

「さあ、決着をつけるわよ」

 言って、赤くれたまぶたに手を当てて、いやす。

 次に鏡に映った自分は、いつもの姿だった。

「さあ、最高の一日の始まりよ」

※※※

『主人』の領域に戻ったレイは、これまでとは明らかに違う感覚を覚えた。

 捕らわれてより百二十年、常に付きまとっていた、ねっとり絡むような『視線』を感じない。

『主人』が深い眠りについている間は途絶えてもおかしくはないのだが、それとも違う。

 —……これは……何かに守られている……?

 柔らかなまゆに包まれるような、安心感。

 この変化はなんだと考えた時、行きついたのは髪を結ったフロリンダの白いリボンタイだった。

 最初の邂逅かいこうでフロリンダが傷に巻いてくれた時、手にしたまま帰還してしまった時は何の意味も持たなかったそれが、今は違う。

 彼女の細い首元を飾っていたそれは、エーテルの姫君が織ったものだという。

『きっとあなたを守ってくれる』

 そうフロリンダが願いを込めて髪に巻いた時に、それは自分を守る護符ごふになったのだと、レイは気づいた。

 彼女のひたむきな愛情がリボンに織り込まれたエーテルの力と共鳴し、波動となって身を包んだのだ。

 どこまでも純粋であたたかなその想いに、改めてレイの胸がつぶれるように痛む。

 何も返してやれなかった。

 守りたいのに、追いつめる真似だけをした。

 レイが唇を切れるほどにみ締めた刹那、空気がどろりと動いた。

『主人』の目覚めが来たのだ。

「あ~あ……」

 気だるげに身を起こし、いつものソファに『主人』が腰を下ろす。

 レイは気を引き締めて、『主人』が気づくその時を待つ。

 自分に起こった変化を、敏感びんかんな『主人』が察知しないわけはない。

 前回、フロリンダの移り香をぎつけた時は、自らそそのかしての結果だから、思惑おもわく通りに進んだことを喜びこそすれ、とがめはしなかったのだろう。

 だが、今回は違う。

 レイは自分の意志で、フロリンダに会いに行った。

 そして、心を開き、時間の許す限り寄りい、フロリンダと互いの情報をり合わせた時から、進むべき道は見えていた。

「この、香り……?」

『主人』がひとちた瞬間、強く室内の気が張りつめる。

 続けて、ぶつぶつと呟く『主人』の姿を隠すソファの背もたれを、レイはだまって見つめた。

「どうしてここまで強く……?まさか……、いや、それしかないか……。

 なるほど、僕も大概たいがいめられたもんだな」

 くらく引きったような、自虐的じぎゃくてきな笑いが響いた。

『主人』が香りからフロリンダを特定するだろうことは、予想していた。

 しかし、えて彼女の移り香を消さなかったのは、感傷でもあり、覚悟でもあった。

 終わりの始まりを、レイは覚悟したのだ。

「……僕が眠っている間、楽しいお出かけをしていたんだね。言わなくてもわかるよ」

 寝起ねおきでかすれた『主人』の声に呼応こおうして、玩具がんぐと言う名のガラクタが、一斉いっせいに動き出す。

「良い香りだ。以前、君が帰還きかんした時よりも、なおく香っている。春の花畑にいるようなってのは、今、君に移った香りに包まれた時に言うんだろうね」

 ガラクタ共が耳障みみざわりな笑い声を上げ、室内に目障めざわりな極彩色ごくさいしょく明滅めいめつが起きる。

「僕はさぁ……思い違いをしてたようだ」

 くるりとソファが回転し、主人がレイの方へ向き直る。

 精和界せいわかいを映す巨大な明るい鏡を背にしたその顔は、百二十年を共にしてなお、ハッキリと見えたことがない。

「君は、誰に対しても公平だ。君にとって親愛しんあいという感情も、義務の一部なのかと思えるくらいに」

「特に不都合は感じませんので。悪しからず…」

 主人はふん、と鼻を鳴らした。

「君は特別を作らない。きっと僕がこっちにご招待しなけりゃ、氷の精霊の長を継いで、親や周りのすすめで立場に相応しい相手と婚姻こんいんを結び、波風のない時を過ごしただろうさ。

 だけど僕はさ、そんな君だから、きっと『特別な存在』ができた時の激情げきじょう欲望よくぼうは、すさまじいだろうなと見込みこんだんだ。だから僕は、君を特に可愛がってあげた。ひざを折ってくっした時、君はきっとこれまでにないくらい素晴らしく僕を楽しませる、優秀で愉快ゆかいなオモチャになるだろうってね」

 楽し気に喋りながら、不意に『主人』は声のトーンを落とした。

「それなのにさ」

 周囲の玩具がんぐたちが、すさまじいいきおいで破裂はれつする。

 ガラクタの様相ようそうていしていながら、それらは生々しい赤い血を周囲にまき散らして、ただの塵芥ちりあくたになった。

「絶対に君は苦手だろうなってタイプの相手に、持っていかれるなんてね」

「何の話でしょう?」

「実際苦手だったよね?あの妖精さんのことを、不快に思っていたよね?

 ああ、誰にでも平等だからこそ、苦手って気持ちも、特に意識したからこそ芽生えたものか。まったく、大失敗だよ。とんだ計画ミスだ。まさか君がさ」

 周囲のけばけばしい光の明滅めいめつが大きくなり、視覚しかくに不快感を覚えてレイは目を細める。

「僕が君と同じくらいに特に目を付けた、綺麗で可愛い銀色の妖精に心をうばわれるなんてさ!」

『主人』が立ち上がり、無駄むだに大きな音を立ててソファが真後ろにすっ飛ぶように倒れた。

 その時、レイは初めて—―加護によって—―主人の姿を鮮明せんめいに捉えた。

 漆黒しっこく紫苑色しおんいろまだらに入り交じる、つやのない髪。

 桔梗色のその瞳は、四角い瞳孔どうこうを持つヤギのようだ。

「しかも、妖精さんまで君を好きになっちゃったんだね。誰よりも、何よりも。見ればわかるよ!君を包んでるその気配を見ればさ!!

 あの妖精さんは、みーんな大好き。誰にでも全力で好意を注ぐ。それがどれほど残酷ざんこくなことかも知らずに。

 だって、全部好きってのは、全部嫌いってのと同義どうぎじゃないか。特別なんていないんだ!

 ああ、そうか。真逆にいながら、同質だったんだね、君たちは!まるで1つの魂を半分こしたように!」

 小柄な少年の姿をした『主人』は、言い終えると哄笑こうしょうした。

「ああ、腹が立つ……そらとぼけたってわかるんだよ。

 抱いたの?あの可愛い妖精さんを。めちゃくちゃ気が交わってるじゃないか。僕が命令しても、女の相手なんか嫌々してた風だったのに、本命には手が早いんだね?」

 感情を押し殺しても、レイの下瞼したまぶたかすかに痙攣けいれんした。

 下衆げす勘繰かんぐりに、腹の底から嫌悪感けんおかんが込み上げる。

「別にヤッてなくても、そこまで気が交わってるってことは、よほどあの妖精さんと想い合ってるんだね」

 言いながら『主人』は手を一閃いっせんさせ、それより早くレイは動いた。

 か黒い衝撃波しょうげきはが、かざられた一族に迫るのを、一足先にその前に立ちはだかって氷壁を生み出して防ぐ。

「あああああああああああああ!!!」

 親指の爪をみながら癇性かんしょうに放たれた『主人』の奇声きせいと共に、空間がかしいだ。

「いったいどこから持ってきた、その『まもり』!!忌々いまいましい、ほんっと忌々しいね!!せっかく飼いならせてきたのに!!あと一歩だったのに!!」

『主人』の声質こえしつがぶれる。

 子どもの声に、しゃがれ声が重なったような、耳障みみざわりで気味の悪いそれにレイは眉をしかめた。

「おっかしい!!久しぶりにこんなに頭にきたよ!!たっぷり楽しませてもらうとするよ!!」

 足元が浮き上がり、レイは咄嗟とっさに自身に結界を張る。

 サイズの合わない色のスーツを着こんだ『主人』が、宙に身をおどらせた。

 その足は、ひづめを持つけもののものだった。

※※※

 フロリンダは身をひるがえして衣裳部屋を出て、足音を立てずにらせん状の階段を駆け下りた。

 執務室に入り、耳飾りから秘密裏ひみつりにシャルロットとプリムラに緊急招集きんきゅうしょうしゅうをかける。

「フロリンダさま、モーニングティー……」

 茶器が乗ったトレイをカチャカチャ言わせながら現れたプリムラに、フロリンダは小さく笑う。

「ありがとう。いただくわ」

 立ったまま優雅ゆうがにティーカップを取り、一口すすってフロリンダは一度、息を吐いた。

「二人には急な大仕事を頼みます。シャルロット、夜が明けきらぬ間に、早急に風の宮に居る全員を退去させて。私が引き取った子どもたち以外。あの子たちに気づかれぬようにね。亜仁玖アニクの手も借りてちょうだい」

 息を呑むプリムラの隣で、シャルロットは即座に低頭ていとうした。

「プリムラ。あなたも秘密裏ひみつりに、東の薔薇園、西の庭園のすべての植物に結界を」

 生きて呼吸しているのは、植物も同じだ。

 これから起こるだろうことに、巻き込むわけにいかない。

「……はいな」

 プリムラは事態じたいさっしたらしく、まなじりけっしてうなずいた。

「二人ともに、巻き込まれるもののないように、避難優先ひなんゆうせん。その後は、周辺に決して被害ひがいが出ないよう、結界の強化に集中して。私のことは捨て置きなさい。これは、命令です」

「……はい」

 二人同時に答え、即座にその場を後にした。

 フロリンダは白い執務用のソファに身を沈め、プリムラがれてくれた紅茶に改めて口をつける。

 ひとり、またひとりと、次々に風の宮から気配が消えていく。

 それは音もなく吹き過ぎる風のように軽やかで、仕えていた者たちの特性を物語っている。

 —……何ひとつとして、犠牲にはしないわ。

 フロリンダは最後の気配が消えたのを確かめると、祈りの間に足を向けた。

 今日も世界は、不穏ふおんな声をフロリンダに届ける。

 けれど、どんなに自身を非難ひなんする声をいても、もはや心は痛まなかった。

 魂が千切ちぎれるような哀しみを経験したフロリンダには、それらはただの雑音でしかない。

 生まれて初めて心から愛した人と別れなければならなかった悲しさを思えば、それ以上に辛いことなどない。

「……さて、私の声は、みんなに届いたわね」

 司守つかさもりを担う仲間たちから返ってくるのは、あいわらず簡素かんそな了承だ。

 けれどそこには揺るぎない信頼しんらいがあることを確信かくしんして、フロリンダはひとり笑みを浮かべた。

 そのまま庭に足を向け、朝日を浴びる。

 き通るような冷たい空気を胸に入れて、フロリンダは時を待った。

 レイが心を残してくれたブローチを、両手で包み込む。

 いつもいる。

 これから先、何があっても。

 背後から、気配が近づいてくる。

 笑顔を作って、フロリンダは朝日を背に振り返った。

「ママ」

「おはよう、ニコラ」

 小走りで近寄る幼い姿は、どう見ても無邪気だ。

「ママ、どこに行ってたの?」

「あら、なぜ?」

 フロリンダが首をかしげて問い返すと、二コラは口をへの字に曲げた。

「いっしょに眠ったのに、朝起きたら僕、一人だったもの」

 寂しそうな顔をされると、心が痛む。

 フロリンダはいつものように、ニコラを抱き上げた。

「ちょっと傷を癒しに出かけていたわ。それだけよ」

 言いながら西塔までの道を戻る

 ニコラはフロリンダの首元に、だまって抱きついた。

 —―やはり、愛おしい。

 この小さな体は、自分をどれほどなぐさめてくれたことか……。

 すべてが思い違いであればいい。

 フロリンダは振り切れないじょうに流されまいと、こみ上げる涙を隠して固く目を閉じた。

「……朝食を一緒にとりましょう」

 声が震えないように努めながら、塔の方へと足を向ける。

 西塔玄関前まで来ると、フロリンダが扉に触れる前に、両開きの片方が開いた。

 そこから、体半分だけ見せたカタリーナが、じっとフロリンダを見つめている。

「おはよう。カタリーナ。二人ともお腹すいたかな?すぐに朝ごはんの支度するわね」

 カタリーナは何も言わず、見える片方だけの目でじっとフロリンダを凝視ぎょうししている。

 明らかに不穏ふおんな様子だが、フロリンダは動揺どうようせずに向き合った。

「……どうして?」

 カタリーナが、うめくように呟く。

「どうして、あなたからレイの香りが……気配がするの?」

 フロリンダは答えない。

 カタリーナが扉から出て、一歩、フロリンダに近づいた。

「レイに会ったの?どうして?なぜ私をよんでくださらなかったの?」

 フロリンダはなおも無言をつらぬいた。

 何も答える必要はない。

 自分とレイの時間は、二人だけのものであればいい。

 誰に何を言わずとも、二人の胸にあればいいのだ。

「なぜ無視するの!?私が、私にはレイしかいないってわかってるくせに!なんて強欲ごうよくなひとなの!?自慢気じまんげに持ってるものを見せびらかして、その上、レイまで独り占めしようとするなんて…!!」

「見せびらかしているというのは、あなたの一方的な見方よ。私を鏡にして、自分自身を……自分のねたそねみを見ているだけ」

 カタリーナの呼気こきがどんどん上がっていく。

「なんて高慢こうまんちきなのかしら……」

 フロリンダをなじる声にこわれた笛のようなおかしな息がれ交じり、フロリンダはニコラを下ろしてカタリーナに近づいた。

「ゆっくり息をして…、できたら、少し息を止めて」

 背をでようと伸ばしたフロリンダの手を振り払い、カタリーナは胸のブローチに手を伸ばしてきた。

 素早くフロリンダは後退し、カタリーナは前につんのめって転ぶ。

「あなたなんか……あなたなんかに私の気持ちはわからない!!」

「ええ、わからないわ。私じゃなくても、あなたの気持ちは誰にもわからないし、私の気持ちもあなたにはわからない。レイの気持ちもよ。あなたはレイの気持ちを考えたことはあって?」

 カタリーナは地面に這いつくばったまま、フロリンダを睨み上げ、両手で瑞々しいしばにぎりこんだ。

「あーぁ」

 ぎすぎすと張りつめた空気に、ニコラのあきれたようなつぶやききがひびく。

 それは、無邪気ないつものニコラからは想像できない、老成ろうせいした、どこか小馬鹿こばかにした感のある声音だった。

「ママは、僕をいちばん好きになってくれるはずだったのに」

 ニコラの声だが、いつものあどけなさがない。

 れた、投げやりなものだった。

 カタリーナが、いぶかし気にニコラを見遣みやる。

 フロリンダは静かな眼差しをニコラに向けた。

「ニコラのことも大好きよ。でも……あなたは……誰なの?」

 ニコラはわけがわからないという風に、肩をすくめた。

「私の可愛いニコラは、本当にいるのかしら」

 カタリーナが、何を言っているのかといった顔で、フロリンダと

ニコラを交互に見る。

「いるよ。ちゃんと」

 ニコラはれくさそうに笑って首をかしげた。

 その仕草しぐさ幼児ようじそのもので、とても愛くるしい。

「親に愛されず、邪魔にされ、八つ当たりの道具にされ続けて死にかけた人間の子どもは、祈ったんだ。最後の最後、自分たちの欲得よくとくのために自分を生贄いけにえにしたやから、僕を殺そうとしているあいつらを、やっつけてください。僕を楽にしてください。僕をいじめない、素敵なママをくださいってね。

 祈りは通じたんだよ」

 胸がえぐられるような真実の暴露ばくろに、フロリンダは息をめる。

「……誰に祈りは通じたの……?」

「さあ?」

 ニコラは可愛らしく口元を両手でおおい、含み笑いをした。

「神様ってヤツじゃなかったことだけは、確かだね」

 言い終わらぬうちに、ニコラは両手を伸ばして獣のような敏捷びしょうさでフロリンダに四肢ししでしがみついてきた。

 かわしきれず、力任せに耳飾りが外され、鋭い痛みにフロリンダは小さく悲鳴を上げる。

 しまった、と思った時には、渦巻うずま瘴気しょうきがみるみる辺りに立ち込めた。

 魔力を、心身しんしんを毒するそれに対し、常ならば強い防御を持つフロリンダだが、今はしがみついたニコラがそれを妨害ぼうがいしている。

 おぞましい毒気どくけが身のうちを汚染していく苦しさに、フロリンダはあえいだ。

「ママ、綺麗きれいで可愛い、素敵なママ。ずっと一緒にいようよ」

 引きがそうにも、ニコラはすさまじい力でフロリンダを締め上げる。

 二コラの話に心を痛め、すきを作ってしまったことがやまれるが、もう遅い。

 フロリンダの背が、締め付けにみしりと音を立てた時、不意に空を切る熱風が鼻先をかすめた。

「ぐがっ」

 うめきを上げて腕がゆるみ、げた煙と髪が焼ける嫌な臭いを立ち上げながら、ニコラはフロリンダからがれ落ちた。

 同時に自身を守る大気の防御を正常化させ、フロリンダは大きく息をく。

 顔を巡らせると、こちらに向かってまっすぐ人差し指を向けた亜仁玖アニクいさましい鎧姿よろいすがたがあった。

 亜仁玖の放つ火矢ひやが、ニコラのこめかみをつらぬいたのだとフロリンダはさとった。

「亜仁玖!どうして…避難者ひなんしゃと、周辺の保護を頼んだはずよ!」

「私がちゅうささげるのは、迦楼羅王かるらおうさまおひとりです」

 亜仁玖は腕を下ろし、なおも身構みがまえながらげんいだ。

「我が君は、その子どもの魔性ましょう見抜みぬきながらも、確信かくしんまでは至らなかった。正義の名のもとであれ、不確ふたしかな状態で攻撃するは、そ奴らと同じ蛮行ばんこうとなる。

 慈愛豊じあいゆたかなあなたは、きっときばかれてもためらうだろうから、用心して守れと命じられています。私は王の命に従ったまで」

 どこまでもフロリンダを気遣ってくれる璃守リシュ配慮はいりょに、胸が熱くなった。

 しかし次の瞬間、亜仁玖は何かに腹部を打ちぬかれたようにして、後方へ吹き飛んだ。

「亜仁玖!!」

 フロリンダは咄嗟とっさに風を送り、亜仁玖が受けた衝撃を緩和かんわさせて宮の外へはじき出す。

 同時に自らを風圧で守り、後方へ飛びのいた。

「甘いのはママだけじゃない。どいつもこいつも、精和界せいわかいの連中は甘いんだよ」

 焦げた頭部から声が聞こえ、ニコラが……ニコラだったモノが、ゆらりと立ち上がった。

 と、背後からフロリンダの風の守りをものともせず、手を伸ばしてきた何かに羽交はがめにされる。

 身体からだばかりではなく、魔力の発動はつどうふうじられた。

「きゃあ!!」

 同時にカタリーナも叫び、何かに四肢ししいましめられてちゅうに浮いた。

「な……!?」

 彼女を捕縛ほばくしていたのは、胸が焼けるような甘ったるい香りを放つ、毒々しい色の伸びたあめだった。

 カタリーナを巻き込み、それは蔓薔薇つるばらした飴細工のように見える。

 さらに首をめぐらし、フロリンダは愕然がくぜんとした。

 自分をいましめたのは、ベッドに置いている、長く眠りの友としていたウサギのぬいぐるみが巨大化したものだった。

「愛しいもの、心を許したものには、防御ぼうぎょさえ素通りさせてしまう。ママは本当に優しいね」

 ぷすぷすと黒い煙を吐きながら、ニコラだったモノがしゃべる。

「ガワなんかダメになったところで、どうってことないんだよ。しょせん、使い捨ての依代よりしろだ」

 風の宮を、完全に瘴気しょうきおおかくした。

 ソレがくすぶるニコラの身体からだを脱ぐようにして姿を見せるのと、風の宮の景色が一変するのは同時だった。

 フロリンダは目をり上げる。

 目まぐるしく明滅めいめつする、極彩色ごくさいしきの光。

 愛らしいのに、邪悪な気配のもった踊り狂う人形や、ぬいぐるみ。

 空間のあちこちに雑多ざったかざられた、奇妙きみょうなモノ。

 そんな光景の一角に、静かな光に照らされた清らかな等身大の人形の姿があった。

 輝く青銀せいぎんの髪に、澄んだアイスブルーの瞳のそれらは、恐らく氷精の長一族。

 そして、その前には—―――レイの姿があった。

「やっと僕の手の内に、ご招待できた」

 桔梗色ききょういろの瞳は山羊やぎのそれ。

 濡れぬれば色の大きめのスーツに、紫紺しこんのジャボを首元に飾った少年の姿をしているが、異様に大きな口と細く尖ったあごに、狡猾こうかつさがにじみ出ている。

 そして、スラックスから出ている爪先はひづめ

「こんな嬉しくないエスコート、レディに対して失礼よ」

「大好きなウサちゃんに抱っこされてるんだよ。素晴らしい歓待かんたいじゃないか。ああ、それとも」

 ソレは長方形の瞳をぎょろりと動かして、レイの方を見てからフロリンダに視線を戻した。

「レイにお姫さまだっこされて、来たかった?」

 フロリンダは何とかあごらし、不敵な笑みを浮かべる。

「そうね。彼にお姫さまだっこされるなら、悪くないわ。あなたじゃお断りだけど」

 ふん、とソレは鼻を鳴らし、ねたと思った時にはフロリンダの目の前にいた。

 濃密のうみつな甘ったるい匂いが押し寄せ、息がまる。

「断ろうとも、君はもう僕のモノだよ。大切に丁寧に可愛がってあげるよ。綺麗で可愛い、優しいママ」

 大きな口から長い舌が伸びて、フロリンダの首筋をめ上げる。

 おぞましい感触に怖気おぞけが走ったが、羽交はがめにされた身体はピクリとも動かない。

 視界の隅で、レイが身じろぎするのが見えた。

「おっと、レイ、そこで黙って見ていなよ?でないと、君の可愛い子が本当に飴細工の一部になるよ」

 捕らわれたカタリーナに、より飴が食い込み、引きった悲鳴がれる。

 飴のつるは鈍い音を立てながら、カタリーナの首に食い込んでいく。

「僕の機嫌が直ったら、君にもちょっと味見させてあげるさ。だから良い子で待っててよ」

 言いながら、舌は耳飾りをむしり取られて傷つき、血を流すフロリンダの耳に移動した。

 痛みと嫌悪で、フロリンダは必死に顔を背けるが叶わない。

「甘い。とっても甘いな、ママは。花のみつのよう…、グッ…」

 下卑げひた言葉は、しかし語尾がつぶれるようにして途切れた。

 不快ふかいな甘い匂いが、涼やかな香気こうきに追いやられる。

 フロリンダの視界に、白い結晶と雪が冷気をまとって舞い散った。

 いつの間にか間合いをつめたレイが、一振りの剣を手に、目の前に立っていた。

 素早くレイが剣を横一文字に一閃いっせんさせると、フロリンダをいましめていたぬいぐるみの手が綺麗に切り落とされ、みるみる凍てついて床に落ちた衝撃で砕け散った。

 フロリンダは、解放された反動で前にのめる。

 体制を整えようとして、足元に転がる『主人』にさらにつまづいたフロリンダを、レイは素早く抱き上げ、その場から離れた。

「レイ……」

 フロリンダは驚いてレイを見る。

 しかし彼が口を開くより早く、わざとらしいため息が響いた。

「何度も刺されたり、られたり……たまったもんじゃない」

 その声は、袈裟切けさぎりにされて凍てついた、床に転がる『主人』が発したものではない。

 捕縛の飴にいましめられた、カタリーナの口から出た言葉だった。

 つい先ほどまで恐怖に怯える表情をしていたカタリーナが、打って変わって憎々にくにくに舌打ちした。

 レイはフロリンダを素早く下ろすと、ためらわずカタリーナにりかかる。

 同時にカタリーナをとらえていたあめが、彼女を守る触手のように何本も伸びてレイにおそかった。

 その動きを察したフロリンダは、旋風せんぷうでレイを包む。

 飴の触手は弾かれて、うごめ尺取しゃくとり虫のように曲がって地に落ちていった。

 レイは一度後退し、無言でカタリーナと向かい合った。

「あーあ、おもしろくないったら。いつ、どうして気が付いちゃったの?」

 レイは冷たい面持ちのまま、口を開いた。

「我が一族がとららわれになったのと同時期にお前が現れたことを考えれば、すぐにでも気づくべきだった」

 カタリーナはつまらなそうに鼻を鳴らす。

「丁寧に丁寧に、薄皮うすかわを重ねるように思考制御しこうせいぎょをかけてあげたのに…あっという間にダメにしやがったわね」

 カタリーナは自身をいましめる飴から力づくで腕をはずすと、まとわりついた飴を口に入れて荒々しく咀嚼そしゃくし始めた。

 桔梗色ききょういろ双眸そうぼうが、憎々し気にフロリンダに当てられる。

「綺麗で可愛い、そこの愛されキャラの妖精さんとの接触のせいなのね。まさかあなたたちが、そんなに相性がイイなんて思わなかったわ。正反対でぶつかり合って面白いショーが見られるって、期待していたのに」

 カタリーナは軽やかに縛めから腕を外して、まとわりついた飴をなおも粗野そやな仕草で口に入れる。

「本体に戻らなきゃ、お仕置きできそうもないな」

 カタリーナはバリバリと咀嚼音そしゃくおんを上げながら、空中で足を組んだ。

 瘴気しょうき濃度のうどを増す気配にフロリンダの羽が震え、警戒けいかいうながす。

 咄嗟とっさに髪飾りを手に取って、レイの一族が飾られる一角いっかくに投げた。

 髪飾りは花吹雪となり、強い結界を構築こうちくして氷精の長一族を包み込む。

 それを見て、カタリーナはせせら笑った。

「考えたわね?まあ、呪いが解けない限り、その場しのぎだけど」

 床に転がった『主人』が黒い霧状きりじょうとなり、カタリーナに吸い込まれていく。

 それはか黒い球体となり、瘴気をまき散らしながら高速の回転を始めた。

 同時に、それまでかすかに残っていた風の宮の気配—―精和界の空気が、かき消される。

 その感覚を、フロリンダは知っていた。

 以前、ティル・ナ・ノグ常若の国おそった災厄さいやく—―パズズが行使したしき大技。

 次元の異なる魔獄界まごくかい精和界せいわかいを繋ぎ、支配領域を構築して幻術げんじゅつの結界で包囲する、幾重にも魔法を重ねた高度な術。


『どちらもえらく高度だ。魔王のひとりってのは伊達だてじゃねぇ。こっちで言ったら神格レベルだろ』


 あの日のアルスの言葉が耳奥みみおくよみがえる。

「まさか……魔王、なの……?」

 フロリンダの呟きに、かたわらのレイがいや、と答えた。

「魔王クラスの力を持ちながら、遊びたいがためにそれを放棄ほうきし続ける……邪悪な子どもだ」

『主人』を包んだ球体が弾け、ソレが姿を見せた時。

 フロリンダは、完全に敵の支配領域に閉じ込められたことを知った。

「これからが本番だよ。僕の可愛くて素敵なオモチャたち」

 あちこちから、一斉いっせいにでたらめな曲が暴力的な音量で鳴り響く。

 不協和音ふきょうわおんに、フロリンダもレイも、眉をしかめた。

 渦を巻く角、黒と紫苑色のまだらの髪。

 声は少年のものだが、上半身には乳房のふくらみがある。

 その下半身は、ひづめを持つ生き物のもの。

 四角い瞳の山羊の目を持つ強大な魔力を持った悪魔が、真の姿を持って二人の前に立った。

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