第8話「リティアの怒り」

 ヨルト、アルベルト、そしてルーシーと別れてから、数日が経った。


 静かすぎる森の中、二人だけの足音が地面に淡く響く。


 会話はなかった。


 リティアは口を開こうとしなかったし、ダランはもともと寡黙だった。


 だが、その沈黙には不安や後悔ではなく、何かを噛み締めているような“重さ”があった。


 ふたりはただ、前を向いて歩いていた。



 やがて木々の隙間から、かすかに開けた土地が見えてくる。


 遠くに、煙のようなものが上がっていた。人の気配。民家の屋根。畑の跡らしき区画。


「……村だ」


 リティアが小さく呟いた。


 その瞬間、彼女の顔が一変する。


「やっと……やっとベッドがある生活に戻れるのね……!」


 その目は真剣だった。まるで魔王を見据える時のような気迫さえ漂う。


「久しぶりのベッド! 久しぶりのお風呂! 久しぶりに! 人間としての尊厳が! 戻ってくるのよ!」


 内心は完全に“駆け足”だったが、外見は優雅な聖女を保ったまま村へと歩みを進めていく。



 しかし、村に足を踏み入れた瞬間――リティアの表情は凍った。


 そこには“生活の気配”はあっても、“活気”はなかった。


 農具を抱えた老人が一人、畑をいじっている。軒下で子どもが無言で石を並べている。

 店らしき建物はあるが、扉は固く閉ざされ、掲げられた看板の文字はすでにかすれて読めなかった。


「……これは」


「荒れておるな」


 リティアはゆっくりと歩を進めながら、家の窓からちらと覗く視線とすれ違う。


 目が合うと、すぐに隠れる。


 まるで、“誰かを恐れている”かのようだった。


「これは、ただの田舎の寂れ方じゃないわね……何かある」


 彼女は近くの農夫に声をかけた。


「こんにちは。旅の者です。この村、なにか……困っていることは?」


 老人は最初、目を合わせなかったが、しばらくして口を開いた。


「……あんたら、旅の者かね。なら、あんまり深入りせんほうがいい」


「理由を聞かせてくれるかしら?」


 リティアの声は柔らかいが、どこか毅然としていた。


「近くの山に……魔王軍の野営地があるんじゃよ。ここからそう遠くない場所に、やつらが陣を張っていてな。数は多くないが……時折、村に降りてきて……」


 老人の目が曇る。


「“人狩り”をして楽しんどる。娯楽だそうですわ。特に、子どもや若い娘を……」


 その言葉を聞いた瞬間、リティアの背中がビクリと震えた。


 そして、次の瞬間――彼女の“怒り”が炸裂した。


「……は?」


 目が見開かれ、口元がひくりと笑みを浮かべている。


 だが、その笑みは冷たい。


「ベッドも、お風呂も……! 人間としての生活も! 全部奪われて!? 何が“娯楽”よ、ふざけるんじゃないわよッ!!」


 近くにいた小鳥が、その声に驚いて飛び立つ。


「わたしの……わたしの、癒しの時間を! あの穢れた魔族どもがッ!」


 彼女の杖が、地面に「コツ」と音を立てる。


 その仕草すら、怒りに満ちていた。


「落ち着け、リティア。怒りたい気持ちは分かるが、あくまで慎重に――」


 ダランが口を開くが、リティアは振り返りもせずに言った。


「慎重? わたし、いま冷静よ?」


 完全に冷静ではない声だった。


「……ま、怒りの動機はともかくとしてだな」


 ダランは腕を組みながら、老人に向き直る。


「魔王軍がこの村に危害を加えているなら、見過ごすわけにはいかん。一肌脱ごうではないか」


 リティアは頷く。


「どうせ、放っておいても眠れそうにないわ。ベッドがないんだから」


 彼女の杖が軽く一回転した。


 それは、彼女なりの“戦いの覚悟”だった。


 村人たちがぽつぽつと集まってくる。

 何かを期待するような、不安を混ぜたような顔。


「本当に……助けてくれるのかね?」


「ええ。条件があるけど」


 リティアは目を細めた。


「この村に帰ったら、わたしに最高級のベッドとお風呂を用意して。最低でも三日、ぐっすりできる空間をお願いね」


 村人たちは一瞬、きょとんとしたが――すぐに、ほっとしたように笑い出す。


「ありがたや……ありがたや! 勇者様と聖女様が!」


「いえ、ただの“ベッドにうるさい旅人”よ。今回は、ね」


 リティアは小さく笑いながら、ダランと並び立つ。


 彼女の笑みの奥には――ちゃんと、“怒りの本当の理由”があった。


 守りたかったのだ。この村の静けさと、誰かの平穏を。


 それが失われたことに、彼女は腹を立てていた。


 だからこそ――戦うのだ。


村人たちの見送りを背に、リティアとダランは山道を進んでいた。


 風は冷たく、空は曇りがち。険しい斜面に足を取られそうになりながらも、二人の足取りは迷いなかった。


「野営地があるのはこの山の北側……この先に抜ける谷がちょうど監視に適してるわ」


 リティアがそう口にすると、ダランは小さく頷いた。


「魔王軍がその場に野営陣を構えるということは、何らかの拠点化の兆しかもしれんな」


 その時だった。


 前方の茂みがガサリと揺れ、数人の兵が姿を現した。軽装、だが動きは俊敏。偵察部隊だ。


 ダランが声をかけた。


「貴殿らはここで何をしておる?」


 兵のひとりが一瞬ぎょっとした顔をしたかと思えば、次の瞬間、目を見開いて叫んだ。


「ん?……ダ、ダラン様⁉︎覇剣の騎士グラン様‼︎‼︎‼︎それに……聖女リティアさま?」


「……何よ? 私だけリアクション薄いじゃない」


 リティアが小さく頬をふくらませ、不満げに唇を尖らせる。


 そのやりとりに、隊員たちは戸惑いながらも敬礼した。


 やがて、奥からひとりの男が駆け寄ってくる。やや年配の、目つきの鋭い軍人だ。


「申し遅れました。我々は王国軍・第二軍団所属の偵察部隊であります。軍団長グラデル様の命により、魔王軍六将・大地の《テラモン》の動向を監視しておりました」


 リティアの表情が引き締まる。


「テラモン……この山に“六将”がいるというの?」


「はい、間違いありません。数日間の監視で行動パターンも掴めてきております。現在は野営地の中心で待機しており、我々は援軍を要請するため――」


「第二軍団か! おお、グラデルの部下か!」


 ダランが急に声を張った。


「はっはっは、あいつは今も酒片手に剣を振り回しておるのか? 若い頃は訓練中に酔って剣を投げつけてきたものだ。無頼漢ではあるが、腕と度胸は本物だ。そちたちも苦労しとろう?」


 隊員たちは顔を見合わせて苦笑した。


「は、はあ……まあ、その、はい」


 困惑を隠せない部隊長の背後で、リティアが杖を地面に「コツ」と叩きつけた。


「ダラン、喋りすぎ。今は世間話をしている場合じゃないでしょ?」


「ふむ、そうだな。つい懐かしさでな」


 和やかだった空気が、一気に張り詰める。


「で、六将は本当にこの山に?」


「はい。テラモンの所在は確定しました。我々はただちに援軍要請を……」


「行くぞ、リティア!」


 ダランがその言葉を遮るように、剣の柄に手を添えて歩き出す。


「当然でしょ、ベッドのために……」


 リティアもすっと立ち上がり、ローブを翻して続いた。


「お、お待ちください! せめて援軍を……それに、勇者様たちはご一緒ではないのですか?」


 部隊長の声に、ダランは一瞬だけ足を止めた。


 そして、静かに振り返る。


「訳あって話せん。それに我らの強さを疑うか?」


 その目には、炎のような決意が宿っていた。


 部隊長は口をつぐみ、敬礼した。


「……否、我々も覚悟を決めます」


「よろしい。貴様らは周辺の魔族を押さえろ。六将は――我々が討つ」


 ダランが静かに言い放つと、偵察部隊の兵たちは一斉に剣を抜いた。


 風が吹き抜け、森の梢がざわめく。


「リティアよ、我らの強さを――取り戻すぞ」


「もちろん。全ては、ベッドとお風呂のために!」


 二人の足音が、戦場へ向けて加速する。

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