第3話「宙に浮かぶ赤」

 夜の焚き火はとうに消え、森はまだ薄暗い静寂に包まれていた。

 空の端がほのかに白み始め、冷えた空気を吸い込むと、かすかに草の匂いがした。


 足元の草には朝露が宿り、一歩踏み出すたび、しっとりとした感触が靴越しに伝わってくる。

 風は静かで、どこか張り詰めたような空気が流れていた。


 ボクは湿った地面に腰を下ろし、まだ誰も言葉を発さない静かな朝を迎えていた。



 川辺では、ルーシーが焚き火に鍋をかけ、湯気を立たせている。

 薪がぱちりと音を立てて弾け、煮立つスープからはほんのりと野菜の香りが漂っていた。


 ルーシーの動きは一見いつも通り。

 だけど、時折ちらと後ろを振り返るその視線には、どこか落ち着かないものがあった。


 昨夜のあの会話――

 そのまま何も決めずに終わったはずなのに、全員が“何か”を待っている。



 やがて、ダランが剣を腰に提げたまま、朝露を踏んで近づいてきた。


「ヨルトよ。ちと頼みがある」


「……なに?」


「これから行う手合わせ、審判を務めてくれ」


 ボクは一瞬、言葉が出なかった。


 でも、ダランの視線の先――そこに立っていたのは、すでに杖を手にしたアルベルトだった。



「我と、お主の“腕比べ”だ。昨日の続きをな」


 その言葉に、アルベルトは小さく首を傾けた。


「理解しました。戦闘訓練として実施するのですね」


「その通り」


「ですが、時間効率を考えると、一対二での対応を推奨します」


 空気が、ぴたりと止まった。


「……は? なに言ってんの、あんた」


 リティアが一歩前に出る。眉間に皺を寄せ、冷たい声を放った。


「こっちは気を使って“一対一”て言ってるのに。あなたは私たちをバカにする気なの?」


「リティア、落ち着け」


 ダランが片手を上げて静止する。


「相手は、“そういう奴”だ。だからこそ、確かめる意味がある」


「……いいわよ。あの澄まし顔に吠え面かかせてあげるわ」



 アルベルトは無表情のまま、杖を軽く下ろした。


「一対ニであれば了承します。戦闘時間は最長三分を想定しています。

 支援魔法と回復ローテーションの調整に支障が出るため、それ以上は非効率です」


「ふん。了解だ。……それ以上は、お主が倒れても続けはせんよ」


「私は遠慮なくやらせてもらうわ」



 重たい沈黙が落ちた。

 森に差す朝の光が、じわじわと色を濃くしていく。


 リティアは腕を組んだまま少し距離をとり、ルーシーは鍋の様子を見ながらも落ち着かない視線を戦場に送っていた。


「ルーシーさん、もうすぐスープはできますか?」


 アルベルトは余裕の表情でルーシーに問いかける。


「う、うん。あとちょっと……って、ちょっと待って!? なんでこの空気で調理してんの!?」


 そう言いつつも、彼女の手は止まらなかった。

 でも、きっと……目は止まっていた。



 ボクは場の中央に立つ。


 審判なんて、やったことない。

 だけど、この空気に何か言えるのは、たぶんボクしかいなかった。


「……じゃあ、始めてください。手加減、忘れないでよ?」



 その言葉と同時に、ダランの足が地を蹴った。


 鋭い踏み込み。土がはじけ飛び、大地が揺れる。

 剣が抜き放たれ、うなりを上げてアルベルトに向かっていく。


 アルベルトは一歩下がり、すぐに詠唱へと入る。

 杖の先に浮かぶ魔法陣が、朝の光を浴びてぼんやりと輝いた。


「風圧干渉、空気の圧縮……《エアブレイド》」


 杖先から発せられた無数の風の刃が、まるで暴風のようにダランに襲いかかる。


 だがダランは怯むことなく、そのすべてを剣で弾き返していく。

 剣の軌跡は、ボクの目では追えないほど鋭く速い。


 アルベルトもまた、休むことなく次の魔法を繋げていた。


 目の前で繰り広げられる高次元の戦いに、ボクはただ立ち尽くし、息を呑んだ。



「流石ですね。ダランさん」


「はっはっはっ、まだまだ!」


 アルベルトの魔法が再度放たれる。

 だがダランは剣を振るい、その軌跡で風を断ち切る。


 そして次の瞬間――


 ダランは勢い良く飛び込み、残像を残すようなスピードで懐へと迫った。


 剣が風を裂き、重く、速く――真っ直ぐにアルベルトの首を狙う。



「待って、危なッ……!」


 ボクは反射的に叫んでいた。けど、もう遅い。


「ヨル兄!? ちょ、なにこのスピード!」


 ルーシーが鍋を置き、思わず立ち上がる。


 ――ズバァッ。


 空気が裂けたような音。


 そして――赤い飛沫が、宙に弧を描いた。まるで時間が止まったかのように、ゆっくりと光を反射していた。



 誰も、声を出せなかった。





***

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