人狼と食事


 祖父江芳樹が家を買ったのは、十二年ほど前になる。閑静な住宅街の、同じような家屋の並ぶ中に、妻と相談して家を建てた。駅からも近く、学校からも程よく近い自分の家の立地を、彼はよく気に入っていた。さすがに家屋は年代物の様相を呈していたが、住み慣れた町であったし、何より隣人も気のいい人ばかりだ。子供は家を出るだろうが、老後も彼はここに住み続けるだろう。彼は、程よく自分の居所が好きだった。

 今回不幸だった点をあえて挙げるのであれば、そんな彼の居場所と、彼の帰宅時間が遅くなってしまった事に尽きる。

 妻に指摘され始めた腹を何とかするため、一駅歩いて帰ることにしたのも、災いしたかもしれない。駅からほど近いとはいえ、会社帰りによる呑み屋を思い出させる喧噪はどうも苦手で、彼は歩くときには住宅街の中を歩くことにしていた。閑散とした中に、自分の立てる足音だけが響いているのが、親切に足跡をつけて遊んだ子供のころを思い出させて好きだった。

 ぐちゃぐちゃ、と言う音がしている。

 何の音なのか、こと切れるまで彼は理解していなかった。少し腹の出てきた中年男性である彼は、良いもあって住宅街の中に腹ばいになって潜む男に気づくことはできなかったし、それが虫の様にとびかかって来た時に、その場に踏ん張ることもできなかった。しかも、その男が人には及ばないような力で彼を押し倒しすのを、抵抗することなんてできるわけがなかった。

 ぐちゃぐちゃと、音がしている。

 酩酊した祖父江の頭に、それを貫通するような痛みが襲ってくる。

 上げようとした悲鳴は、食いちぎられた喉からは上がらず、ほどなく彼は物言わぬ死体になった。

 そして。

「ぷは」

 祖父江の腹にかぶりついていた人影が顔を上げる。その顔は、祖父江は知る由もないが、彼に襲い掛かるまでの蒼白な様子とは打って変わって、満足げな色艶をしており、血で濡れた口元をふるうとああ、と感嘆のため息をついた。人心地ついた、とでもいう様子だ。その人影の腕は半ばで切り取られており、両足は曲がっていた。

 人狼の長屋十郎だ。

 血を流しすぎたと判断した彼は、物陰で野宿し、日が上がってから人を襲おうと思っていたが、そこに運よく、或いは、運悪く通りかかって来たのが祖父江だった。もちろん、長屋は彼の名前など知る由もないが。

 日が昇ってからそのような事をすれば、志水つみき、或いは、瀬尾昴に間違いなく討伐されていたであろうことを考えると、彼はまったくもって運がよかったと言える。

「ああ、生き返った…………」

 もちろん、彼の中ではそれは全て彼の日ごろの行いの賜物ということになり、いや、ほとんど意識されることすらせずに流されてしまう。今彼は久方ぶりの食事の充足感に満ち溢れていて、恍惚とした表情で再び肉にかぶりついた。

 美味い。社会人になってから残業も多く、なかなか食べられなかった人肉だ。格別の美味さがそこにはあった。

 だが。

「…………ああ、あ」

 その美味さですら、今の長屋にはどこか上滑りしていく。

 先ほど食べかけた、あの少女の血肉の味を思い出す。途端に口に唾があふれ、腹がぐうとなった。久方ぶりの肉だからおいしかったのかと、あの時は思った。だが、どうやらそうではないらしい。

「ああ、クソ。絶対に喰ってやる。喰ってやるからな……」

 もはや目の前の食事は、長屋にとって栄養補給でしかなかった。頭の仲は、喰い損ねた少女を喰う事ですぐにいっぱいになる。それだけの魅力が、あの肉にはあった。ジューシーな食感。芳醇な香り。アクセントになるえぐみ。

 それらはすべて、高い魔力が生み出す充足感に過ぎないのだが、彼はそんなことは分からないしどうでもいい。

 今日、あれだけ派手にやられたことすらも、もうすでに彼の頭から半分消え去っている。彼があの少女、鈴鳴澄香を食べるには、少なくとも今日負けた二人を倒さないといけないのだけれど、そんなことは考えないし考えつかない。

 ただ、あの肉を食う事だけを思って、長屋は目の前の祖父江を喰らう。

「犯しながら……、いや。普通に肉として食った方がいいよな。どっかに持ち帰って削いで食べるか? ああ、それはいいかもしれねえ。確か佐藤の奴がそういうの詳しかったはず……」

 さて。

 祖父江芳樹にとって最悪だったのは、彼の我が家の、運の悪い位置取りだった。

 では、この夜、長屋十郎にとって、最も最悪だったのは、何か。

 魔女に襲われたことか? 人狼のまとめ役に処刑されかかった事か?

 いや。そのどれも、正解はない。

「ん?」

 長屋は、ふと、肉を喰らっていた手をとめる。

 自分が食べている人間。その腕が、かすかに動いたような気がしたのだ。

 彼は一瞬首をかしげたが、気のせいだろうと食事を再開した。

 だが、それは気のせいではなかった。

 ピクリと、死体は動いた。

 人狼には、生殖能力がない。そういう意味では人間より劣った生物とも言えなくもないが、一応、彼らにも繁殖の方法は存在する。

 それは、自分の血を、人間の血と混ぜることだ。

 古くは血盃、今だと注射針。傷口を重ね合わせるだけでもいい。それだけで、人狼は感染する。舐め合うように傷口を重ね合えば、ほぼ確実に、人間は人狼へと変貌する。こういった事情から、人狼たちは自分に血を与えてくれた存在を親と呼び、与えた人狼は人間を子と呼ぶ。

 人狼は力が強いが、同じくらいタフネスだ。人間なら即死するような傷でもしばらくは生きて行けるし、魔力があれば、その傷も短期間で修復できる。特に即死するような内臓や脳なら、数時間で再生してしまう事もある。また、内臓がない程度であれば、その肉体は問題なく稼働する。

 そして、長屋は今、両腕から血を流した状態で、人間の腹に食らいついている。

「!!!??? があああ!?」

 祖父江をむさぼっていた長屋が、悲鳴を上げる。馬乗りになるようにして祖父江の腹に食らいついていた、その腹。腹を、がっちりと太めの腕がつかんでいた。指は肌を突き破って中へと入り、指の穴から血がゆっくりと漏れ始める。

「ああ、あ!? なんだよこれええ!?」

 その痛みに長屋は悲鳴をあげ、身をよじるが、体の重心をがっしりとつかまれているせいで、腰を捻る以上の動きはできなかった。痛いと叫ぶが、それを聞き届けるものは誰もいない。

 痛みにうめいていた長屋は、視界の端に映ったものを見て、それに視線が釘付けになった。

 馬乗りになった中年男性。祖父江の腰が、ゆっくりと曲がり、身を起こすように、祖父江は、起き上がっていた。彼の腹は、長屋が食らいついていたせいで未だにだらだらと血を流しているが、それを意に介さないような目で、長屋を無表情に見つめる。いや、その瞳は、真っ暗で焦点が合っていない。まるで、自分を殺した長屋を責めるように。

「うお、ああ……。なんだよ、なんなんだよお」

 単純に、長屋の血で祖父江が人狼に覚醒したというだけなのだが、人狼の力を、自分が好き勝手に暴れるためのものだとしか認識していない長屋にはそれが分からない。

「クソ! 放せよ!! ふざけんな! お前は食われてるべきなんだろうが! 抵抗してんじゃねえ!」

 ただその理不尽に怒りの声を上げる。しかし、祖父江はそれに反応を示さない。

 長屋は知る由もないが、今の彼は少し消耗しすぎていた。人狼にはなったが、なるまでに血を消費しすぎ、死んでからの時間が経ちすぎ、生き返るにはあまりに内臓を失っていた。

 その体は、生きてはいても魂は存在しない。

 だから、長屋の言葉は届かない。

 最も、意識があったとしても、長屋の言う事を聞いたかどうかは、疑問だが。

「ぐお、ごおお……」

 めりめりと、祖父江の身体は長屋を握る手に力を込めた。彼にすでに人格はなかったし、意識もなかった。だが、傷ついた体に何が必要かは理解していたし、それはすでに自分の手の中にあった。

「おい…………。ふざけんなよ。待て」

 痛みの中、ゆっくりと自分の身体を持ち上げ始めた祖父江に、長屋もようやく彼が何を始めようとしているのか理解する。

「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんな!!! やめろやめろやめろやめろやめろ!!!!」

 足をバタつかせて暴れる長屋の視界の先で、祖父江が大きく口を開ける。開けすぎて、顎が外れる。いや、それすらも超えて、口が喉元まで裂けてしまった。それはまるで口がそこまで伸びたようで。大口を開けた彼が、何をしようとしているのかは、もう明らかだった。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 長屋の叫びが、住宅街にこだまする。

 その直後、骨が砕ける音と、言葉にならない悲鳴が、祖父江の腹の中で響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る