願いは、きっと。-3-

 いやー、うん。


 カニさんたちがいっぱいいるところだっていうのはわかるんだよ。


 だけど、イルカショーのステージの所への戻り方がわからない。


 あの場所から何も考えずにしおりちゃんの後を追っかけてきてしまったから、全然道がわからないんだよね。


 スマホもいつの間にか充電切れちゃってるし。館内マップもどこかで落としちゃったみたいで手元にないし。


 あれだね。


 いつの間にか私が迷子ちゃんになっちゃったみたいだね。


 えへへっ。


 あぁ、ダメだ。頑張って気分を上げようと思ったけど無理だ。全然上がらない。


 ぽつり、私が呟いても誰も返事をしてくれない。


 そりゃそうか。


 この場に桐生先輩がいないというのに、彼の名を呼んで返事がある方がホラーだよね。


 とりあえず、正しい道はわからないけれどイルカショーのあった方向はわかってるから、そっちに向かって進んでいけば大丈夫……かな。


 不安だな。


 桐生先輩、もうあの場所に戻ってるかな。


 戻ってる、よね。


 どうしよう。だとしたら心配してるよね。


 待ってると思っていた場所に私がいないんだもん。


 うわー、どうしよう。


 あれだけ何度も“迷子になるな”って言われてたのに。


 結局桐生先輩の心配してた通りになっちゃうなんて。


 そんなことばかり考えていても、何にもならないよね。


 よーっし、まずはこのカニさんコーナーから出るぞ。


 あ、ここ出口が3か所もある。


 だけど、入ってすぐに赤いカニさんがいたのは覚えてるから、あの赤いカニさんの隣の出口を出ればいいよね。


 いや、違う。このカニさんじゃない。


 あ、あの子だ。斜め向かいにいるあの赤いカニさんだよ。


 いや、この子でもないか。それじゃぁ、えーっと……


 あーもう。赤いカニさんを目印にしてたらわからなくなっちゃったよ。どうして赤いカニさんがこんなにいっぱいいるのかな。


 どの出口を選ぶのが正しいのかなんてわからない。


 わからないならいっそのこと。


「ど、れ、に、し、よ、う、か、な」


 よし、決めた!


 困ったときにはこれだよね。


 思い出せないなら、無理に思い出さなくていいんだよ。


 この選択が正しいか間違っているかなんてわからないけれど、もし間違っていたのなら、もう一度やり直せばいいだけの話なんだから。


 恐る恐るカニさんコーナーから外に出ると、そこはあたり一面青く輝く世界だった。


「あ、ここは」


 ここは、イルカショーのステージからは遠く離れた、今日一番に来たあの場所だ。


「やっぱり、綺麗」


 深い深い青の世界。


 目指していた場所じゃないってわかっているのに、奥へ奥へと足を進めてしまうのはなぜだろう。


 それは、この青の世界があまりにも美しいからだろうか。


 それとも、ここからは背中しか見えないあの人が。肩で息をして懸命に何かを探している彼が、ふと視界に入ったからだろうか。


 整った顔は見えないし、優しいテノールの声も聞こえないけれど、あれはきっと。いや、間違いなく絶対に。


「桐生先輩!」


 絶対に絶対に、あれは桐生先輩だ。


 私が叫ぶと、その愛しい背中がピクリとはねた。


 そうして恐る恐るゆっくりとこちらを振り向いた彼は、やっぱり桐生先輩だった。


 だけど、どうして。


 どうしてそんなにも哀しそうな表情をしてるんですか桐生先輩。


 そう訊きたい。


 けれど、訊けない。


「お前……」


 そう言って切なそうに目を細める桐生先輩にはなんだか訊けない。私がその訳を知ってしまったら、壊れてしまうんじゃないかと思うほどに儚いオーラを纏った桐生先輩には、絶対に訊けない。


 だから。


「桐生先輩」


 思いっきり抱きつきたいっていう衝動も抑えて、そーっとそーっと、そしてゆっくりと桐生先輩に近づきもう一度愛しいその名前を呼んだ。


 色んな想いをすべて詰め込んで。


「お前、今までどこで何してたんだよ」


 なんでだろう。桐生先輩に覇気がない。いつもならこういう時、もっと鋭い口調になるのに。全然語尾がきつくない。


「ごめんなさい。迷子ちゃんについていってたら、道がわからなくなっちゃって」

「俺、待ってろって言ったよな」


 どうしてだろう。いつもならどんなに怒っていても、私の話に耳を貸してくれるのに。


 桐生先輩がおかしい。桐生先輩であって、桐生先輩じゃないみたいだ。


「ねぇ、桐生先輩」


 私の話を、聞いてくだ―――――


「俺を置いていくなよ」


 私の言葉を遮って桐生先輩が呟くと、私の唇に何かが触れた。


 あれ、あれれ、あれれれれ。


 やっぱりおかしい。


 おかしいよ。


 おかしすぎるよ、桐生先輩。


 麗しのお顔が、私のすぐ目の前にあるのはなんでだろうか。


 まるで夢のようで、どうにも信じられないこの状況に何にも考えられなくなる。


 だけどこれだけはわかる。手と手でもなく腕と腕でもなく、彼の唇と私の唇の間の距離が0メートルだってことだけは。


 そう、0メートル。0センチメートルでもあり0ミリメートルでもあり、0メートルでもある。


 つまりは0。ぴったりとくっついているのだ。まるで瞬間接着剤でくっつけたかのように。


 えーっと、だからえーっと、その……


 あぁ、ダメだ。色々な表現をしてみたらちょっとは心を落ち着かせられると思ったのに、どうやらそう上手くはいかないらしい。


 全くもって落ち着けない。


 そりゃ、落ち着けるはずないか。


 だって、だって今。私は桐生先輩とキスをしているってことでしょう。


 ファーストキスの味は?なんてよく聞くけれど、今の私にはまったくわからない。本当に何にも考えられない。


 それはそれは長い間そうしていたかのように感じたら、いつの間にか離れていて。


「俺の前から消えんなよ。いなくなるな、馬鹿」


 再び何かを紡いだ唇になんでもいいから言葉を返そうと思ったら、思いつく前にまた口を封じられ、私の頭はさらに真っ白になった。


 どうしてこんなことをするんですか、桐生先輩。


 桐生先輩は私のことなんて好きじゃないくせに。こんなことして何になるんですか。


 私の気持ちを知ってるくせに。私の気持ちを弄んで楽しいんですか。


 楽しいなら、楽しんでくださいよ。どうしてそんなにも哀しい表情でこんなことをするんですか。哀しい表情なんて、見たくないです。


 お願いだから、そんなにも切ない顔をしないでくださいよ。


 ねぇ、桐生先輩。桐生先輩は一体何がしたいんですか。


 それくらい教えてくれてもいいじゃないですか、桐生先輩。

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