第27話 迫りくる、将軍の名

結婚から数年が経った、ある日のこと。

江戸より、重々しい知らせが届いた。


――将軍・家宣公、崩御。


吉宗は手にしていた帳簿を静かに閉じた。


「久通。……江戸へ向かう支度を」


「はっ」


久通は一礼すると、すぐに奥へと下がっていった。



将軍・家宣公の葬儀は、静けさの中にも厳粛な気配が漂っていた。

幕府の重臣たちがずらりと並び、御三家のひとりとして、吉宗もまたその場に列していた。


(次の将軍になられる家継公は、まだほんの子ども。しかも病弱と聞く)

(こんな場で考えることじゃないけど……万が一のことがあったら、将軍家の血筋はここで絶えるわよね)


……ん?

……んんん?


(私って、今――徳川吉宗だよね?)

(そうだ!忘れてたけど、そうだわ!)


思わず顔をあげそうになるのを、ぐっと堪えた。喪の場で取り乱すなど、あってはならない。


(いやいやいや、待って……。なんで私が将軍になるの? 御三家だから? でも尾張とか水戸もあるよね?)


(……帰ったら久通に聞かなきゃ)


心の中がざわざわと波立ち始める。


大変なことを、思い出してしまった。

私は今――徳川吉宗なのだ。



葬儀を終えた翌日、江戸屋敷の一室にて。


吉宗はいつもの帳簿も手にせず、窓の外に目をやっていた。

しかしその目は、景色を見ているようで、何も見ていない。


やがて、静かに口を開く。


「久通。……今度、将軍になられる家継公は、まだ幼く病弱と聞く」


「は。確かに、体調が優れぬとの話は耳にいたします」


「もしもだぞ。あくまで、もしも……家継公に何かがあった場合、次の将軍は、どうなる?」


その言葉に、久通の手が一瞬止まった。

が、すぐにいつもの落ち着いた声音で応える。


「松平清武公など、血筋としては最も近いとも言われておりますが……」


「たしか、館林では一揆があったとか?」


「は。加えてご年齢のこともあり、御公儀としては難色を示しておるとか」


「ですので……周囲では、尾張殿か……殿か、と」



家宣公の葬儀から一夜明けた翌日。

御公儀より、正式に発表がなされた。


――徳川家継公、征夷大将軍に任命。


七代将軍・徳川家継の誕生である。


江戸城には、重臣や大名たちが続々と集められ、

新将軍よりお言葉が下賜された。

その後、各大名が順に進み出て、将軍家継へ拝謁の挨拶を行った。


御三家のひとりとして、吉宗もまたその列に並ぶ。


幼い将軍は、几帳面に姿勢を正し、懸命に挨拶を受けていた。


その夜。


江戸藩邸に戻った吉宗のもとに、久通が静かに現れた。


「殿。――天英院様より、お呼び出しがございました」


「……天英院様から?」


思わず聞き返す。

あの、家宣公の正室であり、大奥を取り仕切る御方が、なぜ自分に?


「はい。至急、お目通りを賜りたいとのことです」


「……わかった。準備を整えてくれ」



江戸藩邸の一室。

いつもは静かな奥の間に、緊張の空気が張り詰めていた。


「――天英院様がお越しです」


久通の声に、吉宗は思わず背筋を正す。


(天英院様が、わざわざ屋敷まで?)


奥の襖が開き、几帳面な礼を伴って天英院が姿を現す。

その姿には、将軍の正室としての気品と威厳が宿っていた。


吉宗は立ち上がり、深々と頭を下げる。


「遠路、ようこそお越しくださいました。何分、粗末なところで――」


「よろしいのです。今日は、お話があって参りました」


天英院は、静かに座についた。


「家継様が新たな将軍となられ、世の中もまた、移ろいの時を迎えております」


「……はい」


「幼き将軍を支えるのは、我ら周囲の務め。されど、世は常に“もしも”を抱えています」


吉宗は、その言葉の意味を量りかねたまま、耳を澄ます。


「徳川の血が絶えるようなことがあってはならぬ。――それは、先の家宣様の深きお考えでもございました」


(……えっ?)


「殿。いずれ、時が巡りましょう。御三家のなかにおいて、しかるべきお方が、その役を担わねばならぬ時が」


はっきりとは言わない。だが、その視線は確かに吉宗を見据えていた。


「その時、殿がどうなさるのか。私は、しかと見届ける覚悟でおります」


「……畏まりました」


言葉を選びながら返すのがやっとだった。

天英院はうなずくと、静かに立ち上がった。


「本日は、これにて失礼いたします」


「はっ。……本日は、わざわざありがとうございました」


天英院が部屋を後にすると、吉宗はそっと息を吐いた。


(やっぱり……そういう流れなのね)


(けれど、どうして私なの? 尾張もいるはずなのに……)


けれど、もう――そう呟く余裕も、時間も、残されてはいないようだった。

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