第27話 迫りくる、将軍の名
結婚から数年が経った、ある日のこと。
江戸より、重々しい知らせが届いた。
――将軍・家宣公、崩御。
吉宗は手にしていた帳簿を静かに閉じた。
「久通。……江戸へ向かう支度を」
「はっ」
久通は一礼すると、すぐに奥へと下がっていった。
*
将軍・家宣公の葬儀は、静けさの中にも厳粛な気配が漂っていた。
幕府の重臣たちがずらりと並び、御三家のひとりとして、吉宗もまたその場に列していた。
(次の将軍になられる家継公は、まだほんの子ども。しかも病弱と聞く)
(こんな場で考えることじゃないけど……万が一のことがあったら、将軍家の血筋はここで絶えるわよね)
……ん?
……んんん?
(私って、今――徳川吉宗だよね?)
(そうだ!忘れてたけど、そうだわ!)
思わず顔をあげそうになるのを、ぐっと堪えた。喪の場で取り乱すなど、あってはならない。
(いやいやいや、待って……。なんで私が将軍になるの? 御三家だから? でも尾張とか水戸もあるよね?)
(……帰ったら久通に聞かなきゃ)
心の中がざわざわと波立ち始める。
大変なことを、思い出してしまった。
私は今――徳川吉宗なのだ。
*
葬儀を終えた翌日、江戸屋敷の一室にて。
吉宗はいつもの帳簿も手にせず、窓の外に目をやっていた。
しかしその目は、景色を見ているようで、何も見ていない。
やがて、静かに口を開く。
「久通。……今度、将軍になられる家継公は、まだ幼く病弱と聞く」
「は。確かに、体調が優れぬとの話は耳にいたします」
「もしもだぞ。あくまで、もしも……家継公に何かがあった場合、次の将軍は、どうなる?」
その言葉に、久通の手が一瞬止まった。
が、すぐにいつもの落ち着いた声音で応える。
「松平清武公など、血筋としては最も近いとも言われておりますが……」
「たしか、館林では一揆があったとか?」
「は。加えてご年齢のこともあり、御公儀としては難色を示しておるとか」
「ですので……周囲では、尾張殿か……殿か、と」
*
家宣公の葬儀から一夜明けた翌日。
御公儀より、正式に発表がなされた。
――徳川家継公、征夷大将軍に任命。
七代将軍・徳川家継の誕生である。
江戸城には、重臣や大名たちが続々と集められ、
新将軍よりお言葉が下賜された。
その後、各大名が順に進み出て、将軍家継へ拝謁の挨拶を行った。
御三家のひとりとして、吉宗もまたその列に並ぶ。
幼い将軍は、几帳面に姿勢を正し、懸命に挨拶を受けていた。
その夜。
江戸藩邸に戻った吉宗のもとに、久通が静かに現れた。
「殿。――天英院様より、お呼び出しがございました」
「……天英院様から?」
思わず聞き返す。
あの、家宣公の正室であり、大奥を取り仕切る御方が、なぜ自分に?
「はい。至急、お目通りを賜りたいとのことです」
「……わかった。準備を整えてくれ」
*
江戸藩邸の一室。
いつもは静かな奥の間に、緊張の空気が張り詰めていた。
「――天英院様がお越しです」
久通の声に、吉宗は思わず背筋を正す。
(天英院様が、わざわざ屋敷まで?)
奥の襖が開き、几帳面な礼を伴って天英院が姿を現す。
その姿には、将軍の正室としての気品と威厳が宿っていた。
吉宗は立ち上がり、深々と頭を下げる。
「遠路、ようこそお越しくださいました。何分、粗末なところで――」
「よろしいのです。今日は、お話があって参りました」
天英院は、静かに座についた。
「家継様が新たな将軍となられ、世の中もまた、移ろいの時を迎えております」
「……はい」
「幼き将軍を支えるのは、我ら周囲の務め。されど、世は常に“もしも”を抱えています」
吉宗は、その言葉の意味を量りかねたまま、耳を澄ます。
「徳川の血が絶えるようなことがあってはならぬ。――それは、先の家宣様の深きお考えでもございました」
(……えっ?)
「殿。いずれ、時が巡りましょう。御三家のなかにおいて、しかるべきお方が、その役を担わねばならぬ時が」
はっきりとは言わない。だが、その視線は確かに吉宗を見据えていた。
「その時、殿がどうなさるのか。私は、しかと見届ける覚悟でおります」
「……畏まりました」
言葉を選びながら返すのがやっとだった。
天英院はうなずくと、静かに立ち上がった。
「本日は、これにて失礼いたします」
「はっ。……本日は、わざわざありがとうございました」
天英院が部屋を後にすると、吉宗はそっと息を吐いた。
(やっぱり……そういう流れなのね)
(けれど、どうして私なの? 尾張もいるはずなのに……)
けれど、もう――そう呟く余裕も、時間も、残されてはいないようだった。
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