第26話 吉宗結婚、そして家重誕生

吉宗が藩政改革に着手してから、数年の歳月が流れていた。


「やっと……赤字が黒字に転じたわね」


満足げに帳簿を見つめながら、吉宗は頬をゆるませる。積み重ねた倹約と改革が、ついに実を結び始めていた。


そんな折――


「殿、少しお時間をいただけますでしょうか」


珍しく家老が、自ら足を運んできた。


「おや、家老自らとは珍しいな。何かあったか?」


「いえ、藩政は殿のお力で立ち直り、今しばらくは安泰かと存じます」

「そこで……そろそろ、殿にはお身を固めていただく頃合いかと――」


「……はい?」


(あまりの衝撃に、つい素が出てしまった。危ない、危ない)


「そろそろ、世継ぎのこともお考えいただかねばなりませぬ。

いま、紀州には後継ぎがございませぬゆえ、

もしものことがあれば、一大事にございます」


「財政もようやく落ち着いてまいりましたゆえ、

まさに今こそ、よき機会かと存じます」


(そうか……今まで財政の立て直しで手いっぱいで、結婚なんてこれっぽっちも考えてなかったわ)


(でも、そうよね。いまの私は紀州藩主、徳川吉宗)

(となれば当然、世継ぎのことも……)


(――って、ちょっと待って。やっと財政が落ち着いたばかりなのに、結婚式なんてしたら一体いくらかかるのよー!)


私はひとつ息をつき、静かに口を開いた。


「承知した。それで、相手のあてはあるのか?」


「はい。大久保忠直の娘、須磨殿をと思っております」


「忠直の娘か。……一度、会ってみるとしよう」


「はっ。それでは忠直殿と話をつけ、早々に対面の日を調えます」


家老は顔に安堵の色を浮かべ、静かに頭を下げて部屋を後にした。


「久通、須磨という女子はどんな者じゃ?」


「はっ。気の利く、しっかりしたお方でございます。穏やかで、殿の傍にふさわしいかと」


(殿が時折、あらぬ方向に突き進もうとされても――あの方なら、きっと止めてくださる)


「そうか。久通が言うのなら、間違いはなかろう」


(……なんか、含みのある言い方だった気がするけど)



数日後。


薄曇りの空の下、紀州藩邸の一室には、静かな緊張が漂っていた。

今日はいよいよ、吉宗と須磨の対面の日である。


「殿、我が娘、須磨にございます」


家老の紹介にあわせて、一歩前に出た少女が、静かに頭を下げた。


「須磨にございます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」


「そう固くならずとも良い。今日は気楽に、お互いのことを知ろうぞ」


そう言って、吉宗は柔らかく微笑む。


「ところで、須磨。そなたは何が得意なのじゃ?」


「はい。珠算が得意でございます」

「父も“家計のことは須磨に任せておけば安心”と申しておりました」


「おお、それは頼もしい!」

「わしも藩の財政を立て直すために、それはもう帳簿と格闘しておったぞ」


須磨は口元に手を添え、くすっと笑う。


「そのお話、久通殿からうかがっております。なんでも、魚屋でイワシをオマケさせたとか――」


「おお、そんなことまで知っておったか」

「値切り交渉は節約の基本ゆえな」


「実は私も……そのお話を聞いて、八百屋で値切り交渉を試みまして」


「おお、そうであったか! そなたもなかなかやるではないか」


気づけば会話は弾み、いつのまにか昼の刻を迎えていた。


「それでは殿、本日はこのあたりでお暇させていただきます。今後の日取りにつきましては、後家老と話し合い、決めさせていただきとうございます」


「うむ、大義であった」


丁寧に一礼し、忠直と須磨は退出していった。

その背を見送りながら、吉宗は小さくうなずく。


「久通、須磨は……なかなか良い女ではないか」


「そのように仰せいただき、ありがたき幸せにございます」


いつもの無表情気味な久通の顔に、わずかに満足げな色が浮かんだのを、吉宗は見逃さなかった。


そして、日取りが整い、晴れて婚礼の日を迎えた。


質素ながらも格式をわきまえた式。

華やかさよりも温かさが漂う席には、控えめに選ばれた調度と、慎ましやかな祝宴が用意されていた。


(婚礼って、こんなに金がかかるのね……やっぱり一大イベントだわ)


須磨は静かに微笑み、祝いの膳に手をつける。

誰よりも緊張していたのは、周囲の家臣たちかもしれない。


――それから一年。


「おぎゃあっ、ぎゃああっ!」


産声が部屋に響いた。


「男子にございます!」


取り上げた産婆の声に、控えていた家臣たちが一斉に顔をほころばせる。


(……よかった。これで、とりあえず“次”の問題は一つクリアね)


畳の上で安堵の息をつく吉宗。

抱きかかえた小さな命は、自分の分身であり、藩の未来でもある。


名は――

長福丸と名付けられた。


後の九代将軍、徳川家重である。

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