第26話 吉宗結婚、そして家重誕生
吉宗が藩政改革に着手してから、数年の歳月が流れていた。
「やっと……赤字が黒字に転じたわね」
満足げに帳簿を見つめながら、吉宗は頬をゆるませる。積み重ねた倹約と改革が、ついに実を結び始めていた。
そんな折――
「殿、少しお時間をいただけますでしょうか」
珍しく家老が、自ら足を運んできた。
「おや、家老自らとは珍しいな。何かあったか?」
「いえ、藩政は殿のお力で立ち直り、今しばらくは安泰かと存じます」
「そこで……そろそろ、殿にはお身を固めていただく頃合いかと――」
「……はい?」
(あまりの衝撃に、つい素が出てしまった。危ない、危ない)
「そろそろ、世継ぎのこともお考えいただかねばなりませぬ。
いま、紀州には後継ぎがございませぬゆえ、
もしものことがあれば、一大事にございます」
「財政もようやく落ち着いてまいりましたゆえ、
まさに今こそ、よき機会かと存じます」
(そうか……今まで財政の立て直しで手いっぱいで、結婚なんてこれっぽっちも考えてなかったわ)
(でも、そうよね。いまの私は紀州藩主、徳川吉宗)
(となれば当然、世継ぎのことも……)
(――って、ちょっと待って。やっと財政が落ち着いたばかりなのに、結婚式なんてしたら一体いくらかかるのよー!)
私はひとつ息をつき、静かに口を開いた。
「承知した。それで、相手のあてはあるのか?」
「はい。大久保忠直の娘、須磨殿をと思っております」
「忠直の娘か。……一度、会ってみるとしよう」
「はっ。それでは忠直殿と話をつけ、早々に対面の日を調えます」
家老は顔に安堵の色を浮かべ、静かに頭を下げて部屋を後にした。
「久通、須磨という女子はどんな者じゃ?」
「はっ。気の利く、しっかりしたお方でございます。穏やかで、殿の傍にふさわしいかと」
(殿が時折、あらぬ方向に突き進もうとされても――あの方なら、きっと止めてくださる)
「そうか。久通が言うのなら、間違いはなかろう」
(……なんか、含みのある言い方だった気がするけど)
*
数日後。
薄曇りの空の下、紀州藩邸の一室には、静かな緊張が漂っていた。
今日はいよいよ、吉宗と須磨の対面の日である。
「殿、我が娘、須磨にございます」
家老の紹介にあわせて、一歩前に出た少女が、静かに頭を下げた。
「須磨にございます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
「そう固くならずとも良い。今日は気楽に、お互いのことを知ろうぞ」
そう言って、吉宗は柔らかく微笑む。
「ところで、須磨。そなたは何が得意なのじゃ?」
「はい。珠算が得意でございます」
「父も“家計のことは須磨に任せておけば安心”と申しておりました」
「おお、それは頼もしい!」
「わしも藩の財政を立て直すために、それはもう帳簿と格闘しておったぞ」
須磨は口元に手を添え、くすっと笑う。
「そのお話、久通殿からうかがっております。なんでも、魚屋でイワシをオマケさせたとか――」
「おお、そんなことまで知っておったか」
「値切り交渉は節約の基本ゆえな」
「実は私も……そのお話を聞いて、八百屋で値切り交渉を試みまして」
「おお、そうであったか! そなたもなかなかやるではないか」
気づけば会話は弾み、いつのまにか昼の刻を迎えていた。
「それでは殿、本日はこのあたりでお暇させていただきます。今後の日取りにつきましては、後家老と話し合い、決めさせていただきとうございます」
「うむ、大義であった」
丁寧に一礼し、忠直と須磨は退出していった。
その背を見送りながら、吉宗は小さくうなずく。
「久通、須磨は……なかなか良い女ではないか」
「そのように仰せいただき、ありがたき幸せにございます」
いつもの無表情気味な久通の顔に、わずかに満足げな色が浮かんだのを、吉宗は見逃さなかった。
•
そして、日取りが整い、晴れて婚礼の日を迎えた。
質素ながらも格式をわきまえた式。
華やかさよりも温かさが漂う席には、控えめに選ばれた調度と、慎ましやかな祝宴が用意されていた。
(婚礼って、こんなに金がかかるのね……やっぱり一大イベントだわ)
須磨は静かに微笑み、祝いの膳に手をつける。
誰よりも緊張していたのは、周囲の家臣たちかもしれない。
•
――それから一年。
「おぎゃあっ、ぎゃああっ!」
産声が部屋に響いた。
「男子にございます!」
取り上げた産婆の声に、控えていた家臣たちが一斉に顔をほころばせる。
(……よかった。これで、とりあえず“次”の問題は一つクリアね)
畳の上で安堵の息をつく吉宗。
抱きかかえた小さな命は、自分の分身であり、藩の未来でもある。
名は――
長福丸と名付けられた。
後の九代将軍、徳川家重である。
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