人間憐みの令

解体業

人間憐みの令

 俺は、普通だ。

 油の匂いが染みついた作業着を着て、単調なリズムを刻むベルトコンベアの前に立つ。与えられた作業を、ただ黙々とこなす。それが俺の日常であり、社会における正しい立ち位置だと信じていた。汗を流して働き、ささやかな給料で暮らす。それ以上でも、それ以下でもない、真っ当な人間。


 だからこそ、俺には娯楽が必要だった。俺が「普通」であることを確認するための儀式が。


 町の外れに、古びた見世物小屋がある。雨の日も、風の強い夜も、俺はそこに吸い寄せられるように通った。テントの中は、黴と安い菓子の匂いが混じり合った、淀んだ空気が満ちている。そこで俺は、人前に醜態を晒して日銭を稼ぐ連中を見下すのだ。彼らの不幸が、俺の幸福の証明だった。


 蛇を飲み込む女。全身が毛むくじゃらの男。何を言っているのか分からない言葉で歌い続ける小人。俺は、ぬるい缶ビール片手にそれを眺める。彼らの必死な形相が、最高の肴になった。俺は、あちら側にいない。その安堵感が、疲れた体をじわりと癒していく。


「あいつら、あれで生きてるってんだから笑えるよな。生まれたときから負け組なんだ」

 工場の休憩室でそう語ると、同僚たちは決まって気まずそうに視線を逸らした。一人が「まあ、人それぞれだから」と曖昧に呟く。連中には、この高尚な娯楽が理解できないらしい。まあ、いい。俺はあんな出来損ないとは違う。この手で製品を作り出し、社会に貢献する「普通」の人間なのだから。


 だが、その「普通」は、紙のように薄っぺらいものだったらしい。


 最初は、ただの噂だった。「景気が悪い」「注文が減った」。誰もが口にはしたが、どこか他人事だった。明日になれば、また同じように機械は動き出す。そう信じていた。しかし、噂は次第に現実味を帯び、工場の空気は重くなっていった。そしてある朝、掲示板に一枚の紙が貼り出された。


 『工場閉鎖及び、下記従業員の解雇について』


 そこに、俺の名前はあった。あっけなく。インクの染みのように、はっきりと。頭が真っ白になり、機械の音が遠のいていく。俺が? なぜ? 俺は真面目にやってきたじゃないか。


 その「普通」は、あっけなく終わった。


 プライドだけが、ずしりと重かった。

 薄暗い職業紹介所の冷たい椅子、事務的な女の言葉。何十通と書いた手紙は、まるで存在しなかったかのように返送されてきた。数少ない面接では、「あなたに任せられる仕事はありませんね」と、侮蔑とも憐れみともつかない視線を向けられた。俺が培ってきたはずの経験は、社会では何の価値も持たなかった。


 貯金が底をつき、日々の食事にも困り始めた頃、俺は何度もあの見世物小屋の前を通り過ぎた。中から聞こえる奇妙な音楽と歓声が、俺を嘲笑っているようだった。しかし、空腹と冬の寒さは、俺に残された最後の矜持を容赦なく削り取っていく。死ぬよりはマシだ。そう自分に言い聞かせ、俺は唾を飲み込み、テントの入り口をくぐった。


 興行主だという顔色の悪い老人に頭を下げると、彼は無感情な目で俺を頭のてっぺんから爪先まで、品定めするように一瞥した。そして、「明日から来い」とだけ言った。


 俺の役どころは、「何をやってもダメな男」だった。

 玉乗りをさせられれば、一秒と立っていられずに転げ落ちる。火を吹こうとすれば、むせて涙目になる。観客の嘲笑が、槍のように突き刺さった。投げ銭が飛ぶことは滅多になかった。


 一日の終わりに手渡される給金は、震えるほど少なかった。工場の時給にも満たない額。そして、それはいつも、俺が見下していたあの連中よりも、明らかに低かった。

 ある夜、蛇女は、俺の空の皿に黙って自分のパンを半分置いた。毛むくじゃらの男は、俺が転んで擦りむいた膝に、汚れた布を巻いてくれた。俺は何も言えず、俯いた。彼らの目に浮かぶのは、憐れみだった。俺がかつて、彼らに向けていたものと、全く同じ色の。施しを受ける自分が、屈辱でたまらなかった。


 俺は、俺が最も軽蔑していた存在よりも、価値が低い。

 その事実が、冷たい鉄のように、腹の底に沈んでいた。


 変わらない。何も。

 俺が稼げないことも、彼らに憐れまれることも。昨日も、今日も、きっと明日も。

 俺はいつしか、舞台の上で、本当に何もできなくなっていた。ただそこに立ち、無様に転ぶだけの置物になった。


***


 彼が消えて、太陽の周りを地球は何度も巡った。

 社会は変わり、街並みも随分と様変わりした。それでも、あの見世物小屋だけは、町の片隅で今もひっそりと営業を続けている。


 夕暮れ時、真新しいホログラム広告が煌めく歩道を、若い男女が歩いていた。

「うわ、まだあんなのあるんだ。なんだか可哀想じゃない?」

「そうかな? 私は、ああいう場所があるからこそ、救われる人もいると思うけど」

 男は少し眉をひそめたが、女は優しい眼差しでテントを見つめ、続けた。

「どんなに時代が変わっても、困った人を助けようとか、そういう優しい気持ちって、きっと変わらないんだよ。素敵じゃない?」

 彼女は、純粋な笑顔でそう言った。


 男は曖昧に頷き、視線をスマートウォッチに落とした。

「ところで……腹減ってきたな。夕飯、何食べる?」

「うーん、カレーとかどう? 最近スパイスカレーの新店できたらしいよ」

 二人は話しながら、通りの先へと歩き出した。


 テントの奥から、観客の野次と、甲高い笑い声が微かに聞こえていた。

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