閑話6 ミラノ=フィレンツェの断罪

◆『呪詛返し――エルフの森と報いの霧』


 北方の空に、黒い雲が巻き起こっていた。


 それは雷ではなかった。風でもない。むしろ、自然そのものを拒絶するような、禍々しい瘴気――それこそが、呪詛の結晶。

 ミラノ=フィレンツェの執念と嫉妬、そして闇の術者オルシウスの技が織りなした、「破滅の契」。


 黒い霧は、夜の風に紛れて音もなく空を這っていく。人間の目には映らず、鳥もそれを避け、魔獣すら近寄ることを本能で拒む。

 向かう先は、ただ一人。ジュアンド=フィレンツェ。


 だが、その行く手には、一つの壁が立ちはだかっていた。


     ◆ ◆ ◆


 ジュアンドは、エルフの里・シェルヴィレの奥、長老の庵のそばにいた。


 長旅を経て、ようやく目的地へとたどり着いたばかりだった。

 そして、今は森の結界の中――古代より続く〈森精の結界〉が、侵入するあらゆる敵意と魔を拒む、絶対防御の聖域である。


 ジュアンドは、エルフの若者たちと共に、剣術の構えを見せていた。森の緑の光が揺れ、彼の銀髪が陽を受けて淡く輝く。


 だがその瞬間――森の外縁に、異変が走った。


 「……これは、なんだ?」


 遠くから、風の匂いが変わった。甘く、腐敗し、濃密で……殺意を孕んでいる。


 「敵意だ。強烈な呪詛。誰かが……お前を殺そうとしている」


 エルフの長老が低く呟いた。


 彼の目は、森の境界線――空間がひび割れるように歪む一角を見つめていた。


 そこに、霧が現れた。


 黒く、冷たく、まるで夜の悪夢が具現化したような霧が、風に乗らず、自然に逆らって滑るように迫ってくる。


 「来たか……」


 ジュアンドは静かに呟いた。

 心当たりはあった。家族の中で、自分を最も憎んでいた人物の顔が脳裏をかすめる。


 「……ミラノ」


 黒い霧は、境界線に近づくと、ついに結界の“壁”に到達した。


 次の瞬間、森全体が光った。


 バシュン――!


 結界の表面に、巨大な衝撃が走った。黒い霧が跳ね返され、霧の一部が一瞬で霧散する。


 「……この結界は、精霊たちが千年をかけて築いたもの。たとえ呪詛であろうと、そう易々と通せるものではない」


 長老の言葉に、ジュアンドは頷く。


 だが、霧は諦めなかった。形を変え、圧を増し、結界の隙間を探しては攻め立てる。


 数度にわたって結界へ突撃するたび、森の魔力が波打つように応戦する。


 ジュアンドは結界の内側に立ち、その光景を静かに見つめていた。


 「すまないな、エルフたちよ。俺の因縁に、森を巻き込んでしまっている」


 「いいや、誇るべきことだ。お前を狙うこの呪い――これは、ただの悪意ではない。深い憎悪と執念がある。だがな」


 長老は指を天に向けた。


 「呪詛とは、己の怒りを、己の血で汚すもの。正しき者が受ければ災いとなるが、正しき結界が跳ね返せば――」


 そのときだった。


 霧が、結界に最後の突撃を仕掛けた。


 グワァァアアアア――!!


 霧が悲鳴のような音を発しながら、全力で結界へぶつかる。


 だが、森の精霊たちは応えた。結界が輝きを放ち、中央から光の波動が放たれる。


 「跳ね返るぞ……!」


 ジュアンドの言葉と共に、霧は一瞬にして反転した。


 まるで誰かが糸を引くように、黒い霧は逆流し、空を裂いて戻っていく。

 飛ぶというよりも、吸い寄せられるように――倍の速さで、倍の禍々しさをまとって。


 向かう先は、ひとつしかない。


 呪詛の“出処”。


 ――ミラノ=フィレンツェ。


     ◆ ◆ ◆


 その頃、フィレンツェ伯爵家の館。


 ミラノは自室の鏡台の前で、赤い唇に香油を引いていた。

 呪詛が動き出してから三日。ジュアンドが崩れ落ちる知らせは、まだ来ていない。


 「時間がかかるのね……でもいいわ。その分、確実に苦しむのだから」


 と、そのとき。


 部屋の空気が変わった。


 静寂、冷気――そして、音のない風。

 ミラノがゆっくりと鏡を見ると、そこに黒い影が立っていた。


 「……え?」


 次の瞬間、鏡が割れた。


 バンッ!!


 ガラスの破片が飛び散り、そこから黒い霧が溢れ出す。


 ミラノは後ずさりした。


 「なっ……どうして……? あれはジュアンドに向かったはず……!」


 霧は天井に這い上がり、壁を舐めるようにうねる。そして、まるで怒り狂った獣のように、彼女の方へ飛びかかった。


 「きゃああああああっ!!」


 彼女の悲鳴が響いた。


 霧は肌にまとわりつき、爪のように突き刺さる。喉元、胸元、額。見えない刃が内側から肉を裂き、痛みが全身を襲う。


 「いや……いやぁっ!! こんなの、わたしが望んだんじゃ――!」


 その叫びに応じるかのように、霧はさらに濃くなった。


 〈望んだのは“破滅”〉――霧の中から、そんな声が響いた気がした。


 ミラノの指先が黒く変色し、爪はひび割れ、髪は一房ずつ抜け落ちていく。


 「助けて……助けてアントニオ……!」


 だが、誰も来ない。彼女の部屋は密閉され、音も外には届かない。


 鏡の残骸に映る彼女の顔は、すでに別人のようだった。黒い模様が浮かび、血管が浮き出て、瞳の光は濁っている。


 これは、呪詛返し。自ら放った呪いが、自らを焼く報いの業火。


 そして、それはまだ“序章”に過ぎなかった――。




◆『呪われた伯爵夫人――ミラノ・フィレンツェの終焉の始まり』


 最初の異変は、指先だった。


 朝、目覚めると、右手の人差し指の爪が黒ずんでいた。ほんの縁が赤黒く変色していただけだが、それはミラノの美への執着を真っ先に突いた。


 「……何これ。汚らわしい……!」


 怒りに任せて爪を切り落とす。しかし、その夜には隣の中指も黒く染まっていた。肌に異常はなかったが、どうにも体温が冷たい。氷水に触れているように、関節が痛み、ピリピリと痺れる感覚が残る。


 最初は気にしないようにしていた。美容師も侍女も医者も呼びつけたが、誰一人として原因を突き止められなかった。


 だが、三日目の朝。鏡の中の自分の顔を見て、ミラノは叫んだ。


 「いやあああああああっ!!」


 目の下に、緑色の模様が浮かんでいた。網目のように血管が浮き上がり、目尻から頬骨にかけて、まるでタトゥーのように禍々しく染まっている。


 化粧では隠しきれない。ファンデーションを何層にも塗ったが、時間が経つと模様が皮膚の表面に浮き出してくる。


 鏡を叩き割り、部屋中の反射するものをすべて取り除いた。


 「見たくない……見たくないのよ、こんなの……ッ!」


 だが、それでも現実は彼女の肌に刻み込まれていく。


 五日目。ミラノの髪がごそりと抜け始めた。


 最初は一本、二本。だが気が付けば、枕の上には緑色の髪の束が山となっていた。


 「どうしてよ……! 何で私が……!」


 皮膚も乾き、裂けやすくなっていた。口元に笑みを浮かべると、唇の端が切れる。血が滲むと、それがまた黒く変色する。


 ――醜い。


 その言葉が、心に居座る。


 彼女が最も恐れていたこと。美しさを失うこと。貴族としての価値がなくなること。


 ジュアンドを貶め、追放し、呪詛を送りつけた理由の根底にあったのも、「あの男に、自分の価値を否定させたくない」という恐怖だった。


 だが今、彼女が恐れていた“喪失”は、現実となって自身を蝕んでいた。


 「助けて……アントニオ、お願い、側にいて……」


 だが、夫は来なかった。


 噂が広まり始めていた。伯爵夫人が、何らかの“呪い”にかかったと。


 「魔の病だ」「悪霊に取り憑かれた」「報いだ」――さまざまな声が、貴族の館を取り囲んでいた。


 伯爵家の家臣たちは距離を置き、女中は日に日に減り、最後にはセリーヌさえも屋敷を去っていた。


 「ミラノ……ご自愛を」


 アントニオが最後に残した言葉は、それだけだった。


 誰もいない部屋。黒い帳がかけられた窓。ぼろぼろの寝台。


 そこに、ミラノはいた。


 指は黒ずみ、手首から先は皮膚の感覚がなかった。片目は視界が曇り、耳は幻聴でうるさかった。


 「ねぇ……聞こえるの、あなたの声……ジュアンド……」


 夢の中、彼女は何度も彼を見た。


 あの時の、冷たい瞳。追放を言い渡した日、ジュアンドは何も言わず立ち去った。だが、その目にあった静かな憤りと哀しみが、今も焼き付いて離れない。


 「なによ……私だけが悪いって言うの……? あなたが才能を隠していたのが悪いじゃない……っ……!」


 だが、言い訳は意味をなさなかった。誰も聞いていない。聞く者すらいない。


 「私はただ……ねえ、次期伯爵には息子のジャンルイジ……がふさわしいと思ったのよ……!」


 かすれた声が、夜の部屋に消えていく。


 鏡のない世界で、ミラノは自分の顔がどうなっているかを、もう知ることはなかった。


 だが、確信していた。息子のジャンルイジにも娘のモデナのも。


 ――もう、誰にも見せられない。


     ◆ ◆ ◆


 十日目の夜。雨が降っていた。


 屋敷の扉が軋みを上げて開かれた。


 そこに立っていたのは、司教服を纏った老齢の男。浄化の儀式を執り行うべく、王宮から招かれた“黒衣の祓い師”だった。


 彼はひと目、部屋の奥に横たわるミラノを見て、静かに口を開いた。


 「これは、呪詛返し――自らが放った呪いが、結界に弾かれて自身を焼く……報いの霧」


 「……治せるの……?」


 か細い声で問うミラノに、男は静かに首を横に振った。


 「呪いは、既に血と魂にまで浸透している。魔術では、もう解けぬ。……ただ、告白と贖罪によってのみ、癒される可能性がある」


 ミラノは、虚ろな瞳を祓い師に向けた。


 「……贖罪?」


 「ジュアンド殿に、全てを明かし、許しを乞うこと。それだけが、残された道だ」


 彼の名を聞いた瞬間、ミラノの眼に、一筋の涙が流れた。


 初めての涙だった。


 その日、彼女は日記を綴った。震える手で、血のようなインクを使って。


 『ジュアンドへ――』


 その手紙は、まだ出されていない。


 だがその夜、夢の中でジュアンドは、遠くエルフの森で、誰かの声を微かに聞いたような気がしていた。


 ――赦しを乞う声。


 まだ、すべてが終わったわけではなかった。

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