第22話 ジュアンドの旅立ち

◆《旅立ちの朝、そして名もなき約束》◆


 空が、青く澄んでいた。


 白い雲がゆるやかに流れ、屋敷の庭に差し込む朝陽はどこまでもやさしい。あの災厄の夜、毒の霧が覆っていた森も、今は緑の息吹を取り戻し、鳥たちの声が風に混じって響いていた。


 ミランダは、その風の音を黙って聞いていた。


 屋敷の門前、二人の姿を、侍女たちや護衛たちが遠巻きに見守っている。だが、誰も声をかけようとはしなかった。領主の娘と、去り行く流浪の剣士――その別れが、容易なものではないことを、皆が理解していたから。


 「本当に……もう行くのですね」


 ミランダの声は、かすかに揺れていた。


 ジュアンドは答えず、黙って鞍に手をかけた。すっかり身体は回復し、昨日自ら鍛冶場に降りて手入れした長剣が、腰に静かに収まっている。


 「公都ペルンか。騒がしい場所だと聞いている」


 彼はようやく口を開き、軽く冗談のように言った。


 「きっとあなたには似合わない場所ですわ。喧騒と陰謀、そしてうわべの言葉ばかり。でも……あなたなら、貫けますわね」


 「貫けなきゃ、また追い出されるだけさ。慣れてる」


 冗談めかしたその口調に、ミランダはふと笑ってしまった。


 だがその笑みは、すぐに翳る。


 「ジュアンド様……」


 「ミランダ」


 彼女の名を、まっすぐな声で呼ばれたとき。ミランダの中にあった迷いが、音もなく崩れていった。


 「俺は――お前を連れて行けない」


 その言葉は、予感していた。


 けれど、それでも、聞くのは苦しい。


 「……知っていました」


 ミランダは頷いた。


 「わたくしは領地を預かる者です。あなたは……戦場を渡る者。互いの道が交わるには、まだ早すぎる」


 「そういうことだ」


 彼はわずかに目を伏せ、陽の光を受けて金色に揺れる髪を払った。


 「でも――」


 ミランダは一歩、彼に近づいた。


 「いつか、すべてを置いてあなたの隣に立てる日が来るとしたら。その時、わたくしが手を伸ばしたら……あなたは振り返ってくださいますか?」


 その問いに、ジュアンドは目を見開いた。


 そして、笑った。これまでに見せたことのない、少年のような、飾らない笑みだった。


 「そのとき、俺が振り返らなかったら――その場でぶん殴ってくれ」


 「ふふ……」


 ミランダの瞳に、涙が浮かんだ。


 彼女はその手で、そっと彼の頬を撫でた。ヒドラとの戦いでついた小さな傷痕が、そこに残っていた。


 「あなたに初めて触れた夜、私は“策”だと自分に言い聞かせていました。でも……あれから毎日、あなたの寝顔を見ていて思いましたの。あの夜が、私の人生の始まりだったと」


 ジュアンドは何も言わず、ただその手に自分の手を重ねた。


 静かに、熱が通い合う。


 「行ってください。止めはしません。けれど、いつか、あなたの旅が終わるその日には――」


 「……迎えに行くよ」


 それは、誓いではなかった。約束とも、契約とも違う。


 それは、ただの一言。けれど、すべてを包む言葉だった。


 「ありがとう、ミランダ」


 ジュアンドは、背を向けて歩き始めた。


 そして一瞬だけ、振り返った。


 「……ミューレンの空は、いい空だな」


 「覚えていてください。あなたの心が迷ったとき、あの空を思い出せるように」


 再びジュアンドは背を向けて歩き始める。


 ミランダは手を振らなかった。名も呼ばなかった。ただ、まっすぐに彼の背中を見つめ続けた。


 ジュアンドは、振り返らなかった。


 だがその背中は、迷いなく、まっすぐな意志をたたえていた。



 その日、伯爵家の庭園では、ミランダが一人、花壇に立っていた。


 庭師がそっと近づき、小さく尋ねた。


 「……お嬢様。あの方、戻ってこられると思われますか?」


 ミランダは、少しだけ目を閉じて、空を仰いだ。


 雲ひとつない晴天。


 「ええ、必ず」


 彼女は微笑んだ。


 「だって――あの人は約束を破るほど器用ではないから」


 その声には、もう涙はなかった。


 強さと、静かな祈りと、確かな恋が、そこにあった。


 そしてその日から、ミューレンには一つの噂が流れることとなる。


 ――領主の娘は、流浪の英雄を待っている。


 その噂は、やがて歌となり、詩となり、旅人の口を渡って、公都ペルンへと届くことになる。


 だがそれは、また別の物語。



◆《交差する影、銀の微笑》◆


 ペルンへと続く街道は、夏の光を受けて、静かに輝いていた。


 木漏れ日が揺れる森の道を、ジュアンドは一人歩いていた。馬ではなく、あえて歩いているのは、道すがらの空気を感じ、耳を澄ませるため。剣を携えた旅人の習性だった。


 森を抜け、小高い丘の上に差し掛かったそのときだった。


 「――お願いっ、助けて……!」


 振り返るよりも早く、風を切る音が耳を打つ。反射的に剣を引き抜いたその瞬間、音の主が視界に飛び込んできた。


 銀色の髪が、陽光を弾く。


 その少女は、まるで転がるように丘を駆け上ってきた。片手に何かを握りしめ、瞳を見開いている。青白い肌に、淡い紫の瞳。衣はほつれ、土に汚れ、呼吸は荒い。


 「助けて……追われて……るの……!」


 彼女がそう叫ぶや否や、丘の下の茂みから、複数の足音が響いた。黒装束の影が三つ、四つ、鋭い刃を構えて迫ってくる。


 「……逃げろ。後ろに下がってろ」


 ジュアンドはそれだけ言い残し、刃を抜いて突進した。


 刹那、音もなく迫る敵影。だが、彼らの動きは粗く、力任せだった。ジュアンドは一人目の太刀を肩で受け流し、すれ違いざまにその手首を切り裂く。


 二人目の喉を蹴り上げ、三人目の脇腹を鈍く打ち据え、最後の一人の前でぴたりと止まると、剣を向けた。


 「誰の命令だ。なぜこの子を追っている?」


 「……クソ、報酬には見合わねぇ相手だ!」


 その一人が毒づいて逃げ出すと、他の者もあっさり撤退を始めた。だが、ジュアンドは追わなかった。


 敵が去ったのを確認し、彼は少女のもとに戻る。


 「大丈夫か?」


 「……ええ。ありがとう……本当に、助けてくれて……!」


 少女は膝をつき、胸に手を当てて深く息を吐いた。その表情にはまだ不安が残っていたが、頬にはかすかな赤みが差していた。


 「あなた、強いのね……。助けてくれて、ありがとう……」


 「名前は?」


 「……ミゼリア。あなたは?」


 「ジュアンド。今は公都ペルンに向かっているところだ」


 ミゼリアは、その名を繰り返すように囁いた。


 「ジュアンド……。変わった名前ね。でも、どこか懐かしい響き」


 「そうか?」


 ミゼリアはふわりと微笑んだ。


 「あなたみたいな人に出会えたの、初めて」


     ◆


 その夜、二人は街道沿いの小さな村に宿を取った。


 旅人向けの粗末な宿だが、部屋には囲炉裏があり、窓の外には麦畑が広がっていた。宿主の老婆が、優しく迎え入れてくれたのは、ミゼリアの人懐こい笑顔のおかげかもしれない。


 夕食後、ジュアンドは部屋の戸口に立ち、腕を組んでいた。


 「……同じ部屋でいいのか?」


 「……?」


 ミゼリアは小首を傾げる。


 「いや、男女が同室というのは……ほら、色々あるだろ」


 「あら……」ミゼリアは、いたずらっぽく笑った。「まさか、私のことを女として意識してるの?」


 「……いや、そういうわけじゃないけどな。気にする奴もいるだろうって話だ」


 「ふふ、安心して。あなたみたいな人なら、大丈夫。むしろ一人のほうが怖いの。あの追っ手たち……また来るかもしれない」


 その声は甘えたようにかすれ、ジュアンドの胸にかすかな不安を残した。


 「わかったよ。今日はここで休め」


 ため息交じりにそう言うと、彼は床の寝具に腰を下ろす。ミゼリアはその隣の椅子に座り、窓の外を見つめていた。


 「……きれいね、星が」


 「……ああ」


 「こんなに落ち着いた夜、久しぶりなの。あなたと出会えて、本当に良かった」


 その声音には、何か底知れぬものが混じっていた。


 ジュアンドはちらと彼女の横顔を見る。美しい。だが、その瞳の奥には、何か計り知れないものがある。


 (……ミゼリア。お前はいったい、何者だ?)


 問いは胸にしまい、ジュアンドは目を閉じた。


     ◆


 そして――その噂は、ミューレンの空の下にも届いていた。


 「流浪の剣士、ジュアンド。公都へ向かう途中、銀の髪を持つ謎の娘と出会い、共に旅を続けているらしい」


 その話は、旅人の口から口へと語られ、やがて歌となり、詩となった。


 ミランダのもとにも、その風は届いていた。


 だが、彼女はそれを聞いても、何も言わなかった。


 ただ、微笑んだ。


 (それでいいのです、ジュアンド様。あなたが誰かを救うために剣を抜くなら、私はその姿を、ただ願い続けましょう)


 空は、澄み切っていた。


 ジュアンドとミゼリアの旅は、まだ始まったばかりだった。


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