第38話 生命の巨樹と、森の賢王

『巨獣の揺りかご』に、人間の作った道など、存在しない。

 三人の旅は、これまでのどの冒険よりも、過酷で、そして、慎重さを求められた。


「…ストップ」


 先頭を進むアキラが、静かに手で合図を送る。

 三人は、巨大なシダの葉の陰に、息を殺して身を潜めた。アキラが、そっと、『真実の盾』を茂みの隙間から覗かせる。盾の鏡面には、前方の沼地にいる、巨大なワニのような魔物の、どす黒い『捕食』のオーラが、はっきりと映し出されていた。


「…ダメだ。あいつは、腹を空かせている。迂回するぞ」


 アキラの判断に、二人は、無言で頷く。

 これが、この大陸での、彼らの新しい戦い方だった。

 アキラが、盾で、巨獣たちの『魂胆』を読む、索敵役。

 ヒトミが、風の魔法で、三人の匂いや足音を消し、敵から隠れる、隠密役。

 そして、タカシは――。


「…おい、タカシ。腹が鳴ってるぞ」

「…しょ、しょうがねえだろ! 腹は、減るんだよ!」


 タカシは、有り余るパワーを、ひたすら、抑え込む、我慢役だった。

 巨大で、強そうな魔物を見つけても、決して、手を出さない。アキラの指示があるまで、ただ、仲間を守ることだけに、その力を集中させる。それは、彼にとって、どんな敵と戦うよりも、難しい試練だったかもしれない。


 そんな、緊張感あふれる、隠密行動を、何日も続けた末。

 三人は、ついに、魔法のコンパスが指し示す、大陸の中心部へとたどり着いた。


「……うそだろ…」


 三人は、その光景を、言葉もなく、見上げていた。

 そこにあったのは、一本の、巨大な樹だった。

 いや、樹というより、もはや、それ自体が、一つの山脈だった。幹は、雲を突き抜け、その枝葉は、空を覆い尽くしている。枝からは、いくつもの滝が流れ落ち、その葉は、一枚一枚が、自ら、淡い光を放っていた。


「…『生命の巨樹』…。古文書でしか、見たことがなかったわ…」

 ヒトミが、感動と、畏怖に、声を震わせる。

 コンパスの針は、あの上、雲がかかっている、遥か高みの、幹のどこかを指している。


 三人が、その巨樹の根元へと、吸い寄せられるように、近づいた時。

 巨樹の、巨大なウロの中から、一体の獣が、静かに、その姿を現した。

 それは、彼らが、この大陸で見た、どの巨獣とも、違っていた。

 獅子のような、気高い体躯。森の賢者のような、穏やかで、全てを見通すような、深い瞳。そして、その背中からは、純白の、美しい翼が生えていた。


 その獣は、三人を攻撃するでもなく、ただ、道の真ん中に、静かに座り込み、じっと、彼らを見つめている。

 だが、その体から放たれる、穏やかで、しかし、絶対的なプレッシャーは、ゴライアス三兄弟の比ではなかった。


「…なんだよ、こいつ…。ケンカを売ってるようには、見えねえけど…」

 タカシですら、その神々しいまでの存在感に、迂闊に、手を出すことができない。


 アキラは、ごくりと唾を飲むと、『真実の盾』を、その獣にかざした。

 盾に映ったのは、赤(闘争)でも、青(恐怖)でもない。どこまでも、どこまでも、深く、澄み切った、黄金色の『叡智』のオーラだった。


(…試されてるんだ、オレたち)


 アキラは、悟った。この獣は、この聖域の、番人。そして、ただの侵入者か、あるいは、この地の理を理解する者なのかを、見極めようとしているのだ。


「ヒトミ。言葉は、通じるか?」

「…ダメ。あまりに、魂の格が違いすぎるわ。私の魔法では、彼の心に届かない」


 どうすればいい。力も、言葉も、通じない。

 その時、アキラは、腰に下げた、もう一つの神器に、目をやった。

(――『魂に声を届け、心の嵐を、鎮める』…)


 アキラは、ヒトミに、『共鳴のホルン』を手渡した。

「ヒトミ。お前が、これを吹くんだ」

「私…?」

「ああ。お前が、この中で、一番、この大陸の、この森の生命を、尊敬している。お前の、その『心』を、音に乗せるんだ」


 そして、アキラは、タカシと共に、ホルンを構えるヒトミの、両肩に、そっと、手を置いた。

「オレたちの気持ちも、一緒に乗せていけ。『オレたちは、この世界を守るために、力を借りに来た』ってな」


 ヒトミは、こくりと頷くと、ホルンに、静かに、息を吹き込んだ。

 放たれた音色は、タカシが吹いた時のような、力強いものではなかった。

 それは、森の木々を、優しく揺らし、獣たちの心を、穏やかに撫でるような、どこまでも、清らかで、澄み切った、祈りの音色だった。

 三人の、『この世界を愛する』という、純粋な魂の響きが、ホルンを通して、森全体に、共鳴していく。


 すると、今まで、微動だにしなかった、森の賢王の、穏やかな瞳が、わずかに、見開かれた。

 彼は、初めて、この小さき者たちが、何者であるかを、理解したのだ。

 賢王は、ゆっくりと立ち上がると、三人の前で、恭しく、その頭を下げた。そして、自ら、道を開けた。


 道の先、巨樹のウロの中には、小さな祭壇があった。

 そこに、まるで、この樹から生まれたかのように、生命の息吹を宿した、蔦と、輝く葉で編まれた、一つの王冠が、置かれていた。

 四つ目の神器、『百獣の王冠(クラウン・オブ・ビースツ)』だ。


 アキラが、その王冠に、そっと、手を伸ばした、その瞬間。

 彼の頭の中に、声ではない、無数の『感覚』が、流れ込んできた。

 風の囁き。木の嘆き。土の喜び。そして、この大陸に生きる、全ての獣たちの、生命の鼓動。

 彼は、この大陸の、全ての生命と、その心を、繋がれたのだ。


 だが、その無数の声の中に、アキラは、一つの、不協和音を、感じ取っていた。

 大陸の、遥か南の果てから聞こえてくる、生命の、か細い悲鳴。

 そこだけが、まるで、美しい絵画に垂らされた、一滴の毒のように、黒く、冷たく、腐敗していく、おぞましい気配。


 アキラは、顔を上げた。その顔には、神器を手に入れた喜びはなかった。

「…みんな、聞いてくれ。――この島、何かが、おかしい」


 神の、次なる一手。

 それは、アキラたちの前に、直接、姿を現すのではない。

 この、生命あふれる大陸そのものを、静かに、そして、確実に、内側から、蝕んでいく、最も、残酷な『呪い』だった。


「…ゲームは、まだ、終わっちゃいない。この大陸全体が、今のオレたちの、守るべき、盤面なんだ」

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