身内の狂戦士
のり
身内の狂戦士
第一章:おしるしが来た
夜九時すぎ、現場仕事を終えて宿に戻った。
汗臭い作業着を脱ぎ捨てようとした瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面に浮かんだのは、「嫁」の文字。
予定日には、まだ一週間あった。
だが、俺の中には妙な落ち着きがあった。
「……そっか。そろそろか」
ベッドに腰を落とし、ひとつ深く息を吸う。
通話ボタンを押すと、妻の声が冷静に響いた。
「たぶん、おしるし。これから病院、行ってみる」
そうか、としか返せなかった。
どこかで“問題ない”と決めつけていた俺には、それ以上の言葉が出なかった。
明日の現場も仕事が詰まってる。
出産の立ち会いは、おそらく無理だ。
だけど、生まれるだろう。
普通に。
何の問題もなく。
……そのときの俺は、何も知らなかった。
第二章:夜中の呼び声
胸を締めつけるような圧で、夢から飛び起きた。
喉はカラカラで、額にはじっとり汗が浮いていた。
スマホに表示された時刻は、2時13分。
通知を開くと、0時前後に嫁と義母からの不在着信が並んでいた。
嫌な感覚が背筋を這い上がる。
すぐに折り返したが、どちらも出ない。
鳴り続けるコール音が、やけに無機質に響いた。
焦りに突き動かされ、スマホで病院を検索。 ヒットした番号に迷わずかける。
「はい、田村病院です」
事務的な女の声、看護婦か?
かぶせるように、震える声で告げた。
「すみません……今夜、佐藤清美という名前
で入院した者がいると思うんです。
何度も電話があって……何か、あったんで
しょうか?」
「少々お待ちください」
しばらくして、電話口が義母に変わった。
押し殺した泣き声が、すぐに分かった。
「……怖かったぁ」
その一言が、耳にねっとりと貼りついた。
「入院してすぐ念の為に検査した時だったの。 エコーで赤ちゃんの心臓が止まってるって
言われて……
すぐ手術だって。
でもあんた出張中だし、うちの人は酒飲んで 寝てて……
私が同意書にサインしたの。
帝王切開したのよ。
蘇生するのに先生が人工呼吸して、マスクが
血まみれで……
ほんとに、怖かった……」
途切れがちな声のあと、妻に代わった。
「生まれたよ。男の子。元気」
言葉は平静だったが、どこか遠かった。
「検査中に胎盤剥離があって……でもね、先生 が言ってた。
あと5分、早くても遅くても助からなかっ
たって。……運が良かったって」
電話越しに、かすかな心拍の機械音が聞こえ
た。
そのリズムが、現実をじわじわと押し寄せさ
せてくる。
やがて、電話は医師に代わった。
無駄のない、冷静な声だった。
「お父さん、運が良かったですよ。
検査中だったので異変にすぐ気づけました。
麻酔科もすぐ動いて、処置は迅速にできた。 奥さんが落ち着いていたのが大きい。
焦っていたら、赤ちゃんに悪影響が出ていた かもしれません。
……それと、ネットは見ないようにしてくだ さい。
不安を煽るだけの情報が多すぎますから」
第三章:検索と不安
……だが。
医者の言葉を聞き終えてから、指が勝手にスマホを操作していた。
「胎盤剥離 原因」
「胎盤剥離 障害」
「心肺停止 赤ちゃん 助かる確率」
検索窓に浮かぶ文字列が、どんどん濁っていく。
画面の中は、絶望ばかりだった。
「死亡率は高い」
「脳に障害が残る可能性」
「帝王切開が間に合わず……」
記事も、体験談も、すべてが冷たく喉を締めつけてくる。
SNSの匿名投稿、ママブログ、医療Q\&A……
どこを見ても「間に合わなかった」人たちの声しかなかった。
「もっと早く気づいていれば」
「病院に行っていれば」
その言葉が、まるで俺に向けられているように思えた。
胸の内側が、じわじわと黒く染まっていく。
水を飲もうと立ち上がったが、足元がふらついた。
──命だけでも助かった。
そう思い込みたかった。
だが、スマホの画面が何度もそれを否定してくる。
夜が明けるまで、俺は一言も発さず、
ただひたすら、光のない画面を見つめ続けていた。
第四章:出発
朝が来ても、眠れなかった。
むしろ、目を閉じると胸の圧迫が強くなるだけだった。
窓から差し込む光が、絵の具の白にしか見えない。
現実のはずなのに、どこか夢の中みたいだった。
それでも、動かなければならなかった。
同じ宿に泊まっている同僚に電話をかけ、事情を話す。
出張中の仕事をすべて任せ、自分は先に戻ると告げた。
相手はすぐに了承してくれた。
ありがたかった。
荷物をまとめ、同僚の車で駅まで移動した。
車の中、何も考えられず、ただ窓の外をぼんやり眺めていた。
新幹線の改札をくぐろうとしたとき、ふと頭に浮かんだ。
──俺、どうしてあの時間に目を覚ましたんだろう。
あの圧迫感。あの苦しさ。
あれがなければ、まだ眠っていたかもしれない。
ホームで列車を待ちながら、その問いがずっと頭から離れなかった。
けれど、答えは出ない。
考えようとすると、脳の奥が霧のようにぼやけてしまう。
──たぶん、まだ受け止めきれていなかった。
現実に、心が追いついていなかった。
第五章:骨と皮の命
病院に着く頃には、もう腹を括っていた。
何が待っていようと、受け止めるしかない。
受付で名前を告げると、すぐに医師が現れた。
白衣の隙間から覗く目は、疲れと穏やかさを同時に宿していた。
「こちらへどうぞ」
案内された先、保育器の中に我が子がいた。
──小さい。
生まれたばかりだということを差し引いても、小さすぎた。
骨と皮しかないようなその体。
それでも、透明なケース越しに、胸が上下していた。
──生きてる。
「検査してみなきゃ分かりませんが……大丈夫だと思いますよ」
医師のその一言が、綱のように胸にしがみついた。
妻の病室へ向かうと、義母が椅子に座っていた。
「遅くなって、すみませんでした」
深く頭を下げると、義母はわずかにため息をついた。
「電話のタイミングだけは良かったわね」
皮肉とも本音ともつかない口調だったが、最後には「ありがとう」と言った。
妻は、弱い声で「来てくれてありがとう」と微笑んだ。
その瞬間、足がようやく地についた気がした。
病室の隅で上司に連絡を入れた。
「しっかり休んでこい」と言われた瞬間、背中から力が抜けた。
実家にも電話を入れ、両親の安堵の声を聞く。
夕方、病室を出て一人で帰路についた。
タクシーを待ってる間に、胸の奥に妙なざらつきが残った。
安堵じゃなかった。
説明のつかない、得体の知れない何かだった。
第六章:おぼろげ
玄関の鍵を開けて中に入る。靴を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
その瞬間、肺の奥に張りついていた何かが、音もなく剥がれ落ちた気がした。
安堵、というには遠い。
疲労、というには軽すぎる。
胸の裏に、ざらざらした何かが引っかかったままだ。
そして──ソファに腰を下ろした瞬間、思い出した。
「……俺、夢の中で、溺れてた」
水の中で息ができず、苦しくて、のたうち回っていた。
スマホを握りしめ、「胎盤剥離」と再び検索した。
そこに書かれていた一文が、目に飛び込む。
──羊水に血が混じると、胎児が呼吸困難に陥ることがある。
文字が、まるで肺に突き刺さってくる。
それは、俺が夢の中で感じたもの、そのままだった。
肺に溜まる水。
もがく手足。
薄れていく意識。
……まさか…な?
第七章:囲まれる
その夜、夢を見た。
今回は、やけに鮮明だった。
見知らぬ暗がり。湿気を含んだ空気。どこか煤けた匂いが漂っていた。
俺はそこに、立っていた。
周囲に人影が現れる。
祖母だった。
頬を押さえ、黙って俺を睨んでいる。
隣には祖父。
見覚えのある、親戚たちもいた。
見たこともない顔の和服を着た者、侍のように刀を腰に差した男も混ざっていた。
全員、黙ったまま俺を囲む。
誰も何も言わない。ただ目だけが、ぎらついていた。
……なんだコイツらは。
俺に恨みでもあるのか?
黙ったまま、睨みつけてくるその圧に、言葉を発することさえできなかった。
下手に口を開いたら襲われる──そんな気配すらあった。
背中に冷たい汗が流れる。
やがて場面が、ふっと消えた。
目を開けると、緊張で体が固まっていた。
関節がミシリと軋んだ。
時計を見ると、朝の五時。
外は静まり返り、風の音ひとつない。
俺は着替えもせず、近くの氏神様へ向かうことにした。
呪われた様に嫌なことばかりだ。
身を清めようと思った。
第八章:境内にて
空はまだ夜の名残を残していた。
濃い青がうっすらと滲み、東の端だけが少し明るい。
ゆっくりと靴を履き、静かに玄関を開けた。
冷えた空気が頬を撫で、そこに微かな湿り気があった。
誰もいない住宅街を歩く。
祖母の顔が浮かぶ。睨みつけるような眼。
その隣で沈黙していた祖父の姿も。
生前でもあんな顔を見たこともない。
神社は家から歩いて十分ほどの場所にある。
子どもの頃、初詣に来た記憶がある。
それ以外は、何か大事なときに、ただ“行く”場所だった。
鳥居をくぐる。
玉砂利を踏みしめながら境内を進む。
誰もいない。
鳥の声も、風の音もない。
まるで、世界そのものが音をやめていた。
賽銭を取り出して、五円玉を投げ入れる。
硬貨が当たる音が、やけに大きく響いた。
手を合わせる。
「息子を助けて下さり……ありがとう…」
願ったとたん、胸の奥がざわついた。
──いや、違う。
息子じゃない。
その瞬間、記憶の奥から光のような何かが弾けた。
あの夜。
妻が「また連絡する」と言って電話を切ったあのとき。
俺は、布団の中で、すぐに眠ってしまった。
夢の中で…。
背後から呼び止められた。
振り向いた先に、祖父と祖母がいた。
忘れていた。
いや、思い出したくなかっただけだ。
今、その静けさの中で、記憶が音を立てて蘇っていく。
手を合わせた指先が、かすかに震えていた。
第九章:井戸の儀式
あの夜。
夢の中で、誰かが俺の名を呼んだ。
「大変だ、すぐ来い」
背後から声をかけられ、肩をぐいと掴まれた。
振り返ると、祖父と祖母が立っていた。
とっくに死んでるはずのふたりが、だ。
けれど驚きはなかった。
まるで、それが当然のことのように思えた。
ふたりに手を引かれ、暗がりを進む。
湿った空気が、肺の奥にまとわりついてくる。
いつの間にか、まわりに親戚たちが集まっていた。
知らない顔も多い。
着物姿、侍のような格好のやつもいた。
全員、無言で俺を囲んでいた。
そのまま列を組み、俺を中心にして歩き続ける。
やがて、古びた井戸の前にたどり着いた。
縁には苔がこびりつき、長く使われていないことが一目でわかった。
空は曇天。時間の感覚も曖昧だ。
祖父が言った。
「大丈夫だから」
祖母が頷く。
その瞬間、一斉に俺の手足を掴まれた。
え? と声を上げる暇もなく、体が宙に浮いた。
──落とされる。
直感が、脊髄を凍らせた。
「やめろ! ふざけるな、下ろせ!」
必死にもがくが、彼らは一言も発さず、動じない。
「大丈夫だから」
それしか言わなかった。
抵抗は無意味だった。
俺の身体は井戸の口へと吸い込まれていく。
闇が迫る。
空気が薄くなる。
声が消えていく。
落ちる感覚とともに、世界が反転した。
次の瞬間──
水が肺に流れ込んできた。
息ができない。四肢をばたつかせる。
それでも、浮かばない。
光はどこにもなかった。
だが、意識だけはなぜか明瞭だった。
──死ぬのか。
そう思ったそのとき、視界の奥に微かな光が差した。
そして、気づけば俺は井戸の前に立っていた。
乾いた空気。光。戻ってきたのか?
目の前には、さっき俺を突き落とした連中がいた。
全員が笑っていた。
そして、拍手を送っていた。
「よくやった」「よく戻ったな」
次々に俺を讃える。
目の前には祖母が。
笑っていた。満足そうに。
だが、俺は真顔だった。
親類に殺されかけた。
その上で、なんだこの茶番は。
全員がイジメっ子の様に見える。
しかも肉親まで。
良くも…やりやがったな!
その瞬間、理性という名の蓋が吹き飛んだ。
俺は祖母の目前で腕を引いた。
そして、その拳を、その笑顔のど真ん中に叩き込んだ。
第十章:身内の狂戦士
祖母が崩れ落ちた。
拳を受けた顔を押さえ、無言のまま地面に倒れ込んだ。
周囲が凍りついた。
誰も動かない。誰も声を出さない。
ただ、開いた口で俺を見ていた。
……だが、俺は止まらなかった。
祖母に駆け寄ろうとした祖父の脇腹に、全力の蹴りを叩き込む。
老人が呻き声をあげて倒れる。
「お前らだけは生かしておかない……!」
声にならない奇声をあげながら、拳を、肘を、膝を振るう。
親族たちが、次々と地面に崩れ落ちる。
悲鳴。逃げ惑う足音。
だが、俺は止まらなかった。
殴り、蹴り、叩きつける。
一人、また一人と倒れていく。
気づけば、自分が誰だったのかも分からなくなっていた。
ただ怒りだけが、確かなものとして全身を走っていた。
視界が赤く染まり、筋肉が勝手に動いていた。
バーサーカーの様にその場のすべてを破壊しようと。
そのとき、遠巻きにいた侍が、無言で刀を抜き、歩み寄ってきた。
目が合った瞬間、直感が告げた。
──殺される。
だが俺は逃げなかった。
一気に間合いを詰め、侍の懐に飛び込む。
「うおおおおおっ!!」
咆哮と共に、頭突きを叩き込む。。
侍の顔が吹き飛び、手から刀が離れた。
それを拾い、俺は井戸の縁に思いきり、何度も叩きつけた。
刃が歪み、甲高い音が夜を裂いた。
そのまま、刀を井戸の奥に放り投げた。
だが、立ち上がると侍はすぐに脇差しを抜いた。
無言で背後から俺の脇腹めがけて突き込んできた。
──ズブリ。
鋭い痛みが腹を貫いた。
膝が崩れ、井戸に手をつく。
視界が揺れ、赤黒い色がちらつく。
内臓のどこかが裂けたかもしれない。
侍は背後から俺の髪を掴み、顎をあげさせた。
そして脇差しの刃を俺の喉元へ押し当てた。
そのとき──背後から祖母の声が飛んだ。
「やめてっ!!」
侍の腕が一瞬だけ止まる。
だが、その目にはまだ迷いがなかった。
……そして次の瞬間。
俺は、目を覚ました。
天井のダウンライトが、静かに揺れていた。
夢だった──
……いや、違う。
あれは現実だった。
魂の領域で起きた、確かな現実だった。
額の汗は引かず、喉は焼けるように渇いていた。
第十一章:その意味
朝の光が、神社の木々を柔らかく照らしていた。
俺は、境内の隅に立ち尽くしていた。
フラッシュバックした記憶のせいで心拍数は上がり、冷や汗がでた。
額の汗を拭い、俺は再び境内へ戻った。
空は晴れていた。
けれど、胸の奥には、霧のようなざわつきが残っていた。
風に揺れる木の葉の音さえ、何かを語っているように聞こえた。
「……あれは、俺だったのか」
小さく呟いた声は、風にかき消された。
賽銭を投げ入れた。
音がして、静かになった。
「ありがとうございました」
声に出してみる。
胸の奥からこみあげてくるものがあった。
あの瞬間──
妻の腹の中にいたあの瞬間、俺の魂は、息子と入れ替わっていた。
祖母たちの顔が浮かぶ。
「大丈夫だから」と繰り返していた理由。
「俺なら、耐えられる」
そう信じて、祖母たちは俺を井戸に落とした。
そして、息子を助けた。
睨まれた理由も分かった。
俺は祖母を殴った。
祖父を蹴った。
親戚を叩きのめした。
「……怒ってたんだな」
そう呟いて、空を見上げた。
「でもさ、それなら最初に説明しろよ」
誰も教えてくれなかった。
理由も、背景も、覚悟も──俺には何もなかった。
いきなり落とされて、息ができなくて、
もがいて、怒って、暴れた。
それだけだ。
俺は悪くない。
少なくとも、そう自分に言い聞かせた。
一応、息子を助けてくれたことには──感謝してる。
……だが。
謝らない。
絶対に、謝らない。
それ以降、祖母たちは夢に出てこなくなった。
風が、木々のあいだをすり抜けていった。
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