第4話 稲丸

待殿に戻ると、十人ほどの稲守が送迎を待ち、思い思いに過ごしていた。早朝から移動してきたのだろう、目を閉じて舟を漕ぐ者もちらほら見える。境内の張りつめた空気から解放され、麓もようやく肩の力が抜けた。


(……あいつはもう帰ったのかな)


赤稲の姿が見当たらず、内心ほっとする。あの青年の放つ異質な空気――

東都はかつて「神に見放された土地」として長らく放置されていたが、今や神不在を逆手にした土地開発で独自の発展を遂げていると聞く。

――神と共に生きてきた自分たちとは、根っこから感性が違うのかもしれない。


それより、「穀潰し」になって騒いだ男はその後どうなったのか。混乱した場面が頭をかすめる。


ふと、部屋の端に立つ小柄な影に目が留まった。――稲丸だ。


本殿で見たときと同じく静かに立ち、金糸の紐で丁寧に結ばれた風呂敷包みを抱えている。今年も「特格」を得たのだろうか。格の重みを知る者だけがまとう気配が、彼の周りを静かに満たしていた。


(……一体、何が違うんだろう)


麓は無意識に自分の包みに視線を落とす。来年こそ米の格を上げるための手がかりが欲しい。年下の稲丸に教えを乞うのに抵抗がない訳ではないが、未来が開けるのなら。


意を決し立ち上がり、稲丸へ歩み寄る。そっと手を上げ、口を開きかけた――その刹那。


「稲丸さま、送迎の準備が整いましたので、こちらへ」


澄んだ声が待殿に響く。稲丸が「はい」と短く応じ、神仕に導かれて立ち上がった。


(ま、マジかい……)


麓の前を、風のように通り過ぎる稲丸。背筋の伸びた姿が遠ざかるのを、ただ見送るしかない。


せっかく勇気を出したのに――。

肩を落とした麓を見て、近くの男二人がくくっと笑う。


「その顔、兄ちゃんもアイツに聞こうとしたんだろ? ダメダメ。オレたちも“特格の秘訣”教えてもらおうと声かけたけど、ガン無視だぜ」


「可愛げねぇったら。偏屈なとこは、あの爺さん譲りだな」


「なぁ、本当に務まるのか?あんな子どもに稲守がよ。今年、格落ちしてたら笑えるな」


「ぶはっ!」


心底楽しげに笑い合う二人に、麓は眉をひそめる。


(爺ちゃんだったら秒でビンタしてる。「子ども相手に情けねぇ! 誇りはないんか」って怒鳴って殴り合いだ)


けれど、ここは神前。

(オレハ、ジイサンニハナラナイ…。)

拳を握りかけて――そっと力を抜く。


「麓さま、送迎の準備が整いました。こちらへ」


絶妙のタイミングで声がかかった。

「はいはい」と小声で応じ、麓は神仕のもとへ小走りし、待殿を後にした。


*****


神仕と一緒に鳥居へ続く参道を歩いていると、前方で誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。

先に出た稲丸と、その付き添いの神仕だ。

(気分でも悪くしたんか……?)

麓は神仕に「すみません、少し失礼します」と断り、稲丸のもとへ駆け寄った。


「どうした、大丈夫か?」

呼びかけに稲丸が一瞬だけ顔を上げる。その険しい表情で、体調不良ではないとすぐ分かった。――相当、怒っている。

稲丸は地面からせわしなく何かを拾い集めている。目を凝らすと、砂利の上に米粒が散乱していた。


「あっ……こぼしたんか?」

「――うちの米じゃありません」

語気鋭く否定される。

参道の真ん中に米をこぼしたまま立ち去る者など普通はいない。いったい誰が……。

麓の脳裏に、赤稲のいたずらっぽい笑みが浮かぶ。まさか、あいつか?

「おれも手伝うわ」


このままにしておくわけにはいかない。麓は稲丸の隣にしゃがみ込み、砂利に混じった米粒を一粒ずつ拾い始めた。


なんとか米を拾い終えたものの、処分をどうするか決めかねていると、

「……こちらに」と神仕が巾着袋を広げて差し出した。

「ありがとうございます」

麓は頭を下げ、拾い集めた米粒を巾着へそっと流し込む。


「……こういうこと、これまでにありましたか?」

「……いえ」


神仕の言葉で疑念がいっそう濃くなりかけたそのとき、稲丸が米を一粒つまみ口に含む。少し思案したような間の後に「穀潰しが……」と呟いた。


「……これは水穂村の米の味だ。でも去年と全然違う。状態が悪いし割米、斑点米も多すぎる。選米も碌にできていない。あの男、“去年どおり”だなんて……クソが」

ガリッと米が砕ける音がする。清廉な印象だった稲丸の豹変ぶりに麓は狼狽した。

(あのおっさん、まさか米捨てて帰ったんか……?)


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