第3話 銘米神議

祝詞が終わり、しんと張りつめた静寂が場を包んだ。


しばらくして、「お直りください」と巫女の澄んだ声が境内に響く。

稲守たちがゆっくりと顔を上げると、六人の宮司が順に玉串を捧げ、

本殿中央に祀られた御神体――大鏡の前に一礼し、供えていく。


玉串を捧げ終えた宮司たちは本殿の端に一列に並び、無言で深く頭を下げた。


「ご低頭を」


再び巫女の声がかかり、稲守たちは一斉に頭を垂れる。


そのとき、本殿脇の渡り廊下に、一人の老巫女が姿を現した。

ゆっくりと、しかし確かな足取りで本殿の中央へと進んでくる。

白装束の上から織の入った濃紫の装衣を重ね、手には小さなしゃく

腰はやや曲がっているが、その姿には重みと清浄さがあった。


宮司たちの並ぶ中央に腰を下ろし、しばし静かに目を閉じる。

その沈黙に、全員の呼吸が自然と浅くなっていく。


やがて老巫女は目を開け、ゆっくりと深く頭を垂れた。


「……承りました」


その声と同時に、拝殿をびゅう、と風が通り抜けた。

まるで誰かの気配が本殿をなぞったかのように、神域に新たな空気が流れ込む。

麓は思わず背筋を正し、手元に置いた米を握りしめる。


老巫女は静かに立ち上がると、再び渡り廊下を戻っていく。

宮司たちが一斉に最後の祝詞を唱え、神前へと深々と一礼する。


「お直りください」


再び巫女の声が響き、神議の幕が下りた。


「……以上をもちまして、銘米神議は終了といたします」


少し間を置き、巫女が告げる。


「今年の神評が出ております。お持ちの奉書紙をご確認の上、係へお渡しくださいませ」


麓は胸の内で跳ねる鼓動を抑えながら、風呂敷を開き、米に巻かれた白い奉書紙に視線を落とす。

紙には淡く、稲の絵が浮かび上がっていた。

風に揺れるように柔らかく描かれたその稲の穂は、一本、二本、三本……。


穂の数は――


***


三つ。


白い奉書紙にふわりと浮かんだそれを見て、麓はほんの一瞬、心にざらついた感情が湧くのを感じた。


去年と同じ格七位。格は据え置きだった。

「格付けがされた」――その安堵と、「上がらなかった」ことへの失望が胸の中で綱引きをする。


(小町さまは、がっかりするだろうか……)

無意識に視線が稲丸を探しかけた、その時。


「なんでや!なんで穂が、ないんや…!」


背後から震えるような声が響き、場の空気がピンと張りつめる。

麓が振り返ると、ひとりの稲守が奉書紙を握りしめ、顔を真っ赤にして立ち上がっていた。


「おかしいやないか!去年は三つやったやろ…!親父と同じように…それ以上に手間かけて世話してきたんや…!」


怒気に満ちたその声に、周囲の稲守たちがささやくように諌める。


「やめぇ、神の御前やぞ…!」

「静まれ……罰が下るぞ」


男はそんな声にも耳を貸さず、奉書紙を高く掲げ、震える声で叫ぶ。


「“穀潰し”なんて認めへん!…せや、さっき手洗いで紙濡らしてしもうたから、きっとおかしなってん!やり直してくれ!こんなもんで一年の米の価値が決まるなんて――」


言葉を遮るように、辻番が音もなく近づいた。


「……奉書紙を渡して、ご退所を」


その声は低く落ち着いていたが、空気を圧するような力がある。

男の肩が一瞬ビクリと震え、僅かに腰が引ける。


「ま、待ってくれ……このままやと村に戻れへん……!格が、格が必要なんや!」


その声はもはや、神ではなく誰かに縋るような、悲鳴に近かった。


辻番は男の手から奉書紙を、半ば奪うようにして取りあげると、静かに巫女に手渡し、男の腕を取る。


「……神前です。お話は、あちらで。この場はご退所を」


ざわめき立つ空気の中、稲守たちの視線が集まるのを感じてか、男は観念したように力を抜き、辻番に連れられて静かに拝殿を後にした。


場が静まりかけたその時、麓の隣から呟くような声が漏れた。


「…なんや、思ったよりドラマチックで楽しい催しなんやなぁ」


はっとして横を見ると、見知らぬ青年が、こちらを見てにこりと笑いかけていた。


「こんにちは」


あまりにも端正な顔立ちに、麓は一瞬たじろいだが、眉をひそめ、小声でたしなめる。


「ドラマチックってなんですか…俺たちにとって格下げは死活問題でしょ」


「んー、おれんとこは今年初参加やからなぁ」


麓は一瞬耳を疑った。初参加…?


男はひらりと奉書紙を広げて見せた。

そこには黒く描かれた稲と、穂のない茎、

そして赤い筆致で容赦なくつけられた「×」――。


なんだ、この異様な神評は…


「こんなでっかいバツまでつけて。うちの米はよっぽど神さんの口には合わんかったみたいやなぁ」

のんびりとした口調で男はおかしそうに笑う。


「あんたどこの村の…」


「東都、赤稲あかねさま。出穂村、ろくさま。奉書紙をお納めください」


巫女の呼びかけに、麓は慌てて奉書紙を三宝へ置いた。


「はいど〜ぞ」


赤稲と呼ばれた男も紙を差し出す――が、巫女がそれを受け取ろうとした瞬間、赤稲はひらりと紙を引き、目を細めて含みのある笑顔を浮かべた。


「……この神評、よう覚えといてな。次回もよろしゅう」


「……」


面布に隠れた巫女の表情は読めない。が、その瞬間、空気がピリリと張り詰めたのを麓は肌で感じた。


「さて、と。そろそろ帰ろかな。――きみ、出穂村の子なんやね。麓ちゃん、呼びやすうてええ名前や」


赤稲は人懐っこい笑顔を麓に向ける。


「そうや、さっき連れてかれたおっちゃん……“穀潰し”言うてた人やけど。なんや気の毒やし、おれ、慰めたろかな」


立ち上がった赤稲の長身に、麓は思わず一歩後ずさる。

その髪に逆光が差し、ふわりと浮かぶような赤い色が目に映った。

――東都の赤稲…。麓はその地名に違和感を覚える。


「東都って、銘米神がいない土地じゃ…」


赤稲はくるりと振り返り、いたずらっぽく笑う。


「せや、可哀想な土地やねん」


それだけ言い残すと、弾むような足取りで拝殿をあとにしていった。

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